第11話: 平手打ち
新学期。朝の教室は喧騒に満ちている。各々は、久振りに会うクラスメートと夏休みのエピソードに花を咲かせるが、よく見ると皆、一様に疲れた顔を見せている。あくびをしている生徒も多いわ。例えば、守山雅夫の嘆きを聞けば、疲れとあくびの原因はよくわかる。
「あ~ 眠いわ~ おっ、正村、お前は元気そうやないか?」
「そうでもないさ。守山は見るからに疲れているなぁ」
と正村翔は、無理やりさわやかな笑顔を浮かべた。守山君は制服のボタンをだらしなく外して、扇子で顔を仰いで、こう答えた。
「そりゃそうや。昨日は、遅うまで、宿題やっとたし、今朝は、いつもより三時間も早よう起きんならんかったし。まったく、災難やな。そろそろ、期末試験の準備もせなあかんし、ホンマ九月は厄月やわ」
「守山は自分のことを心配していればいいからまだましな方さ。俺なんか文化祭の準備もしなきゃならないから、頭が痛いよ」
と正村は、いかにも悩んでいそうな顔をする。その表情が陰りを帯びていて、ついつい助けたくなるから厄介だ。だけど、あたしは騙されない。中学校の生徒会で、学習済みだ。学習していない新谷真美が話に割り込む。
「真美は考えてきたよ。手相占いをやりたい」
そう、クラス展示の第一候補は占いで、第二候補がマジックだ。
緑が丘高校の文化祭の出し物は、展示と模擬店に分類できる。この二つの一番の違いはお客からお金を取る時の金額だ。展示は、百円以下と決まっている。大抵の展示は無料だが、文芸部の小説集など元手のかかっているものは販売してもよい。一方、模擬店の方はそういう制限がない。もっとも多いのは運動部による屋台で、焼きそば、クレープなどを作って販売して、利益は部活費用に充てる。食べ物で一番有名なのは、料理部によるカレーライス。ここ数年はココナツミルクで煮込んだ野菜カレーが定番となっている。食べ物以外には、自然科学部によるバラの販売が有名だ。こういった具合だから、文化祭に対する各部活の意気込みは並々ならぬものがある。そのあおりで、クラス展示の影は薄い。まず、2年生、3年生はクラス展示を行わなくてもよい。それぞれ、部活や受験勉強が忙しいから。一方、1年生のクラス展示は義務となっている。うちのクラス、1年6組は、夏休み前に、占いかマジックをテーマに展示をすることに決め、どちらにするかは、各自が休み中に考えてきた具体的な内容を出しあって決めることになっている。
「手相占いか~ 勉強するのが大変だけれど王道だな」
と正村は右手であごの下をさすって、考え込むポーズをきめる。他の男子がやるとわざとらしいが、正村がやるとさまになるから不思議だわ。真美は嬉しそうに答える。
「真美はちゃんと勉強したし、練習もしたよ。雅夫相手に練習したよ。だから翔も見てあげる」
あれ、二人とも名前で呼んでいる。そう言えば、守山君とは別れたのだろうか? 夏休み前は、確か、キスをしてから別れるとか言っていたけれど…… 守山君が口を挟む。
「わしは、2回見てもらったけれど、そのたびに言うことが変わっとるからなぁ~ あんまり信用せん方がええで」
「あれ? そうだったっけ」
と真美は振り返って、不思議そうな顔で守山君を見つめる。その見つめ方があまりにも自然で、二人で過ごした時間の長さがうかがえる。これは、後でゆっくり真美の話を聞かせてもらいたい所ね。
守山君が人差し指で黒縁メガネを押し上げて、説明を始めた。
「そうやで。1回目は、几帳面で悲観的な性格やから、もう少し大胆に行動した方がええって言うたのに、2回目は大怪我か大病を患うかもしれんから慎重に行動した方がええって。これやったら、慎重がええんか、大胆がええんかわからんで」
「だって、最初のは、手の開き方で見る性格診断で、後でやったのは、手のしわ、生命線の形から占ったから、違ってもしょうがないよ」
真美の少し拗ねたような表情は、幼顔とあいまって、可愛いことこの上ない。これでも守山君は真美と別れた、あるいは、別れるのだろうか。正村も二人の様子を興味深げに吟味している。が、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「真美坊、守山との話は後にして、俺の手相を見てくれよ」
「あ、ごめん。じゃ、手の平を上にして、両手を出してくれる?」
真美は、正村の手を取って、真剣に見始めた。以前だったら、正村の手に触れるだけで真っ赤になっていたのに、今は普通だ。そんな真美を守山君は静かに見おろしている。
あたしは、立っている守山君のそばに行って、耳元で小声で聞いた。
「ねえ、真美とはキスしたの?」
守山君は頷くと、今度はあたしの耳元で
「最初に手相を見てもらった時に、大胆に行動した方がええって言うから、キスの時に舌を入れたんや。そしたら、平手打ちを食らった。コンパスより痛かったで」
と言った。あたしは笑いたいのをこらえて聞きたかった事を尋ねた。
「で、結局、真美とはどうなったの? 別れたようには見えないけれど」
「くせになりそうなんや」
「何が?」
守山君は、さらに声を落として答えた。
「この間、抱き合った時に、丁度ええ所に真美のお尻があったから、ちょこっと撫でたんや。そうしたら、平手打ちを食らった。つまり……」
「つまり?」
「平手打ちがくせになりそうで、別れられん」
呆れた。守山君のマゾはいまさら珍しくないけれど、真美、あなたはサドだったのね。
真美は真剣に正村の手をみている。正村は、あたしと目を合わすと、少し肩をすくめて、ニコリと笑った。彼にも守山君と真美の関係がわかったのだろう。
パン、パンと手を打つ音がする。担任の早坂先生が教室に入ってきたのだ。生徒はのろのろと自分の席に戻り始める。その時、小野寺巧と目が合う。話があると目で言っている。あたしは、わかったと頷く。彼とは、秘密の花園の一件以来、話をしていない。後で、楠の所で、彼から小言を聞くことになるだろう。あたしの方から話したいこともある。
先生が順番に出席を取っていこうとするが、小島絵美の所で止まる。いないのだ。遅刻、それとも休み? と、廊下をパタパタと走ってくる音がする。教室の前で、その音が止まり、ガラガラと勢いよく扉が開き、肩で息をした少女が上気した顔をあげて挨拶をした。
「おはようございます。遅くなってすいません」
少し、恥ずかしそうにして、にこりと微笑むその顔はとても可愛らしい。陰から陽に変わった表情、強固から柔和に変わった目元、ざらついた黒からきらめく繊維に変わった髪。愛くるしい乙女と言えばいいのだろうか。夏休みに会った時からさらに可愛く変身しているから、休み前の彼女しか知らない大半の生徒には、誰だかわからないのだろう。教室中のいぶかしげな視線がその美女に注がれる。変身の首謀者である木川碧はどうしているかと思って振り返ると、笑いたいのをこらえて、ウィンクを返してきた。いたずらが成功しておかしくてしょうがないとでも言いたげだ。
さすがに、担任の早坂先生は直ぐにわかった。
「小島さん、突っ立っていないで席についてください。明日からはもう少し早く来てくださいね」
先生の言葉を契機に、静かだった教室はちょっとした嵐につつまれた。『小島ってうちのクラスにいたっけ?』『前からいたわよ』『転校生?』『違うわよ』『どんな顔やったか思い出せへん』『じみだったわ』『前は目付が悪かったわ』『整形したのかしら?』『俺の記憶はどうしょうもないなぁ』『木川といい勝負だぜ』『付き合っているヤツはいたっけ?』
早坂先生は何度も『静かにしなさい』と言いながら出席を取った。その間、皆の視線を浴びていた小島絵美はうつむいて顔を赤くしていた。皆には、恥ずかしがっているようにしか見えなかったかもしれない。だけどあたしには、絵美の口元がキリリと引き締まっているのがわかった。綺麗になった絵美は、恋する乙女、迷いのない乙女の強さを教えてくれる。そして、電話での彼女の告白を思い出した。
病院に見舞に来てもらって以来、絵美とは波長が合う。不幸を背負った者同士の親近感なのか、そんなに自分をさらけ出さなくてもいいと思うような事を話す。絵美にとって、あたしは唯一の気を許せる親友なのかもしれない。先日の電話は単刀直入に始まった。
「由梨子は小野寺君のことが好きなの?」
「えっ、いきなりそんなことを言われても……」
「私は彼が好き…… だと思うの」
「思うのって…… 自分の気持ちなのにはっきりしないの?」
「ウン。好きなのか、それとも同情しているのか、それとも罪滅ぼしなのか、自分でもよくわからないの。私はどうしたらいいのかしら?」
「そんなこと、急に言われても、もう少し説明してくれないと」
そして、絵美は、小野寺君に対する思いが如何に屈折しているかを説明してくれた。
小学生のころに、彼の初恋の相手であろう絵美は、彼に冷たくした。本当の不幸を知らなかったがゆえに。そして、絵美の親が離婚して金銭的に苦しくなって、本当の不幸を知った。同じ不幸を抱える者として小野寺君を好きになった。ところが、今の絵美は不幸から脱しつつある。時間にもお金にも少しだけ余裕ができて、肌や髪の手入れをして綺麗になった。そうやって、綺麗になっていく絵美には、小野寺君を好きになる資格がないのじゃないかと言う。あたしは、親友としてアドバイスをした。
「絵美の言っていることは、不幸な者たちは足の引っ張り合いをしなきゃいけないと言っているようなものよ。自分が不幸から脱したと思うのなら、ちゃんと幸福になって、手を差し伸べて不幸な人を引っ張り上げるべきじゃない。だから、とことことん綺麗になって彼に手を差し伸べたらいいじゃない。それに……」
「それに?」
「それに、本当の不幸を知っていると自慢するよりも、本当の幸福を目指して努力する方が建設的じゃない?」
「あっ、そういうことなのね…… ありがとう、由梨子。眼からウロコだわ。それじゃあね」
そう言って絵美は電話を切った。何かとても急いでいるような雰囲気だった。
始業式では、校長先生が休み中の部活の活躍を報告し、勉学にも励むよう気合いを入れていた。教頭先生は、休み中のトラブルを報告し、小言を繰り返した。少しだけ身が引き締まる。これから冬休みまで、期末試験、文化祭、遠足、合唱コンクール、中間試験といった行事を挟みながら学校が続くのだ。
足のリハビリは終了した。体の調子は少しずつよくなっている。右足は相変わらず動かないけれど、それなりに体重を支えられるようになって、松葉杖で支える重さが減ってきている。今のアルミ製の松葉杖はやめて、もっと、軽く、折りたためる杖に変えたいと思っているが医者の許可はまだでない。最近、一番嬉しかったのは、月のものが来たこと。転落して以来止まっていたものが復活したのだ。それを母さんに報告したら、何も言わずに赤飯を炊いてくれた。
リハビリからも解放され、今学期は、学校に専念できる。勉強でも、部活でも、行事でも高校生活を堪能できる。こんな幸せはないと思う。普通の高校生と同じスタートラインに立てた気がしていた。相手さえいれば恋だってしてもいいと思った。
楠には、すでに彼が来ていた。日当たりのいい斜面をピョンピョン跳ねまわっている小鳥を見ながら、右耳をふさいだり、左耳をふさいだりしている。聞こえないのは左耳だったはず。何をしているのだろう。
「どうしたの」
と聞くと、小野寺君は
「あっ、山崎さん。来ていたんですか? ちょっと左耳が…… なんでもないですよ。それより、一発、殴らしてもらえます」
と言って、恐い顔をした。突然の宣告に驚くが、彼が殴らしてくれと言った理由は想像がつくわ。でも、まずは、きちんと説明をしてもらわないと。
「理由は?」
「雷。この間、小島さんと3人で秘密の花園を見に行った時。野犬が襲ってきた。あの時、山崎さんは雷を呼んだ」
「あたしが、雷を呼んだ? まさか!」
と、あたしはとりあえずごまかしてみる。
「ごまかそうとしてもだめですよ。僕には見えるんですから。あの時、山崎さんは雷を呼んで、自分自身に落とそうとした。そうやれば、野犬を撃退できると思ったんでしょう。僕を放っておいて逃げることもできたはずです。でも自分を犠牲にしようとした」
「すべて、お見通しってわけね。雷はあたしに落ちるはずだった。だけどあなたが救ってくれた。風を操って、雷の路をそらしてくれた。結果的にはよかったじゃない」
「結果はそうですが…… 僕がどれだけ肝を冷やしたか…… とにかく無茶はしないで下さい!」
そう言って、彼は目を伏せて、拳を握った。その拳がわずかに震えている。あの時のことを思い出しているだろう。
「悪かったと思っているわ。でも、あの時は、あたしも焦っていて、よく考えられなかったのよ」
「自分の命ですから、よく考えてください!」
小野寺君は、まっすぐあたしを見つめた。その真剣な眼差しは何を意味するの? あたしが転落した時は、責任を感じて『一生面倒を見る』と言った。その責任感から来る真剣さ? それだけ? それ以上の思いはないの? 答えが見つけられないあたしは目を伏せた。
記憶を反芻する。落雷で必死だった彼、リハビリの結果をしつこく聞く彼、病院で車椅子を押す彼、屋上で叫ぶ彼、部活が終わった帰り道で微笑する彼、楠であたしに声をかけた彼。入学式当日にあたしを睨んだ彼、一緒に過ごした時間は短くはない。それでも、彼があたしに明白な好意、恋愛感情を持っている兆候は見つからない。
そう言うあたしはどうなのだろう。彼に特別な思いを抱いているのか? 先日、電話で小島絵美が彼への屈折した好意を打ち明けた。あたしは、彼女のような思いは持っていない。真美が守山君に投げかけるような温かな視線で彼を見つめたことはない。ママがパパの手をそっと握り、それをパパが握り返すというように、彼の手を握ったこともないし、握られたこともない。そこまで、考えて、潮時だと思った。
「あたしの話を聞いてくれる?」
そう言って、顔をあげて話し始めたが、ウソが混じっていることがばれそうですぐに視線を外して、続けた。転落したことに責任を感じる必要はないこと。右足に麻痺は残るけど、杖は要らなくなりそうなこと。走るのは難しいけれど、階段の上り下りは普通にできること。月のものがあり、生殖機能に問題はないこと。多少の不便はあるけれど、ごくごく普通の高校生であること。そして、こう宣言した。
「だから、あたしはもう普通なの。あたしを特別視しないで、普通に扱ってほしいの。普通の友達でいてほしいの。だから……」
「だから?」
「最後にあたしをぶって。それで清算よ」
「そこまで、言うのなら、清算しよう。平手打ちで清算しよう」
小野寺君は、あたしをまっすぐに見つめて、静かに手を挙げた。あたしは目をつぶった。
「3、2」
彼が数える。
「1」
来る! 平手打ちに備えて目をつぶり、歯を食いしばった…… が、衝撃は来ない。目を開けると、彼は指であたしの頬をなぞっていた。
「涙を流している女の子をぶつわけにはいかない。清算は終わったことにしよう」
そう言って、彼は指を離した。どうやら、あたしは涙を流していたらしい。
小野寺君は斜面の小鳥を見ている。いつのまにか、真っ黒なカラス、ナナが来ていた。ナナは、時々、こちらに視線をやっていたが、パン屑がもらえないとわかったのか、大きく羽を広げて飛び立った。力強く羽ばたいて、あっという間に高度を上げて青空に吸い込まれていく。それを見ているとあたしも羽ばたきたくなった。高く高く飛びたいと思った。
「今度、パンを持ってきてくれないか。前と同じようにナナ達にパンをやりたいんだ」
小野寺君はナナの消えていった空を見ながらそう言った。そっけないそのセリフはなんだかとても温かかった。そして、あたしは、黙ってコクリと頷いた。彼には見えないはずだけれど、あたしが頷いたことはわかったと思う。
この時、あたしは、もう一つの話をする機会を逸した。そう、小島絵美の好意を彼に伝えようと思っていたのだ。もちろん、彼女に頼まれたわけじゃない。だけど、ついさっきまでは、そうしなければならないような気がしていた。そして、今は、余計なことはしない方がいいと自分に言い聞かせた。絵美の思いを伝えなかったことは心に刺さった小さなとげとなって残った。




