十六夜
天秤宮へ到着した真白がまず感じたのは、異様な静けさだった。普段なら鳥のさえずりや木々を揺らす風の音が聞こえているというのに、今は離れたところにある小川のせせらぎくらいしか耳に入ってくる音がなかった。
「……やけに静かですね」
あまりの静けさに思わず首を傾げた真白は、原因究明も兼ねてカマリの居城へ向けて歩き出した。いつもなら転移方陣を用いているのだが、今はなんだか歩いていきたい気分だった真白は緑豊かな森の中を進み始めた。何本目かの橋を渡ったところで、不自然な水滴痕を見つけた真白は「むむむ」と唸りながらこれは今回の件に何か関係があるのか必死に考えを巡らすも、最適な答えを導くことはできずがっくりと肩を落とした。
「まさかとは思ったのだけど……そう都合良くはいきませんね」
辻褄が合わず思考の袋小路に迷う前に頭を切り替え、再びカマリの居城へと向けて歩く真白。時々鼻歌も交じりながら歩くその姿は皇子ではなく、ごく普通の散歩を楽しんでいる少女にしか見えなかった。あまりこうして散歩をする機会がない真白にとっては、こういった何気ない時間が一番幸せを感じる瞬間だった。
「……そういえば……この前食べたあのチーズケーキ。また食べたいなぁ」
もうどのくらい前のかもわからない、だけどそう遠くないある日。真白はみんなの目を盗んでお忍びで立ち寄った下界で見つけた小さな小さなケーキ屋さん。中に入ると子供の夢をこれでもかと詰め込んだ可愛いものだらけで溢れていた。きらきらと輝く色とりどりのビー玉が商品を際立たせていたり、ふかふかの大きなくまさんが入口でお出迎えをしてくれたかと思えば、今度は商品が置かれている棚の中に混じって子猫たちが気持ちよさそうに眠っている置物のを見つけた真白は、一瞬にして胸がときめいた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れてしまった真白の声に気が付いた店主が振り返り、にこっと笑うと真白は恥ずかしくなったのか顔を真っ赤にしながら小さく会釈した。
「いらっしゃいませ。気が付かなくてすみません。何かお求めですか?」
「あ……えっと……お店がかわいくって……その……」
「まぁ! ありがとうございます! どうぞゆっくり見ていってくださいね! あ、作り立てのチーズケーキの試食も行ってますので、どうぞご自由に♪」
チーズケーキ。初めて聞いた名前に、真白は心を動かされた。チーズケーキとは一体どういうものなのだろうと思った真白は、レジカウンターの前に置いてある可愛らしいバスケットの中に小さく切られたこんがり色をしたふわふわした物体が入っており、細い棒のようなものが数本刺さっていた。
「これが……チーズケーキ?」
真白は細い棒を一つ取り出し、口に運んだ。すると濃厚なチーズが口の中にぱっと広がりあとから爽やかなレモンの香りが追いかけてきた。さっぱりとしていて口当たりもとても滑らか、だけど非常に濃厚で真白の心を一瞬にして掴んでしまった。
「あ、あの! この……ちーずけーき? ください」
「かしこまりました! すぐにご用意しますね!」
ちょっぴり勇気を振り絞り、笑顔が素敵な店員さんにチーズケーキを注文するとものの数分で用意してくれた。とても丸くてぷるんぷるんで、出来立ての香りだけでも幸せを感じられてしまうほど濃密な香りは真白を心から笑顔にしてくれた。
「お待たせしました! お早めに召し上がりくださいね♪」
「あ……あの。お代は……」
そういえば持ち合わせで足りるか心配だった真白は、店員さんに尋ねると店員さんはにこっと笑いながらできたてのチーズケーキを手渡してくれた。
「なんだかお客様とはまたお会いできるような気がしているんです。なので、その時にこのチーズケーキの感想を聞かせてくれたら嬉しいです。素敵なティータイムになるよう、ささやかではありますが紅茶もつけておきましたので♪」
袋の中には可愛らしい犬がプリントされた紅茶が入っていた。今まで、こんな素敵な出会いがあっただろうか……ふとそう思ってしまった真白は袋をぎゅっと握りながら瞳から涙を零した。
「おおおおお客様??? ど、どうかされましたか???」
「いえ……違うんです……違うんです。その……嬉しいのです。ここまで親切にされたこと、あまりなくって……」
理由を説明すると店員さんはほっと胸を撫で下ろし、再び可愛い笑顔を真白に向けた。
「なんだかこちらも嬉しくなっちゃいますね」
「ごめんなさい。誤解をさせてしまって。ちーずけーき、美味しくいただきます」
「はい! またのご来店、心よりお待ちしてます♪」
可愛い店員さんとくまさんに見送られながら退店した真白はふと、箱に結ばれたリボンに目を落とした。そこには可愛らしい文字でこう書かれていた。
「あなたが笑顔になれるよう、心を込めて焼き上げました♪ たっぷり召し上がってくださいね♪ シュクレ」
最後に似顔絵もあり、更に笑顔になった真白はるんるん気分で帰路へと就いた。その途中、もしかしたらあの二人に怒られるかなと思って少し緊張しながら帰ると、思いのほか怒っていなく真白の顔を見た瞬間、脱力に近い様子でその場に二人ともへたり込んでいたのを覚えている。
「ご……ごめんなさい。何も言わずに出て行ってしまって……」
「いや……ご無事なら何よりです」
「何事もなかったからよかった……ところで、その手に持っているものはなんだ?」
「あ、これ。みんなで食べよ!」
真白はさっそくチーズケーキを切り分け、みんなに手渡した。ラファルドは自分でお気に入りのブラックコーヒーを淹れ、セリリカと真白はシュクレがくれた紅茶を淹れた。まだ湯気が見えるくらいふわふわほかほかのチーズケーキを三人は一緒に頬張ると、三人とも一瞬フリーズした後とろんとした笑顔へと変わった。
「なんじゃこれ……! ふわふわなのにしっとりとコクがあって……うまい!」
「本当に美味しいです……あ、師匠。そんなに急がなくても」
「ふふふ。お店の中もとっても可愛かったの。わたし、あのお店気に入っちゃった」
「真白が気に入ったお店ならきっと素敵なお店なのだろうなぁ。あ、ラファルド! 最後のひとつ!」
「師匠。あなただけでどれだけ食べたと思っているのです。これは真白様の分です」
「あ……そうじゃった。すまん。つい美味しくて忘れておった……」
「ううん。気にしないで。みんなでこうして食べるのもなんだか久しぶりで嬉しいわ」
「そう……ですね。こうして食べる機会って中々ないですからね。あ、師匠。よだれ、拭いてください」
「ラファルドぉ……ラファルドの分をおくれ……一口でいいから……」
「だめです。これはわたしの……ってああ! 師匠!」
二人のやりとりが楽しくて思わず声に出して笑う真白。それもきっと、この美味しいチーズケーキがもたらしてくれたものだと思った真白は胸の奥がじんわりと温かくなった。またこうして、みんなで美味しいものを囲んでお話ができたらいいなと思った真白は、そのときはまたあの可愛いケーキ屋さんでケーキを買うと強く心に決めた。
「また、あのお店に行きたいな」
あのチーズケーキの味が急に恋しくなった真白はこの後にでも立ち寄ってみようかなと思うと、自然と足取りは軽くなっていた。話を聞いて帰るだけだから、そう時間はかからないだろうと思っていた真白なのだが、カマリの雰囲気を見た瞬間にそう簡単には終わらないというのを肌で感じた。
「そろそろだと思いました」
なんだか妙にぴりぴりとした雰囲気に思わず笑顔が引きつる真白。一体どうしたのだろうと思いながらも、話を切り出すことに。
「あの、今の状況なのですが……」
「わかっています。あまり芳しくないということですよね」
「あ……はい。その件についてお話があって……」
「ほう。なんでしょう」
どきどきと逸る心臓を無理やり押し殺しながら、真白は口を開いた。
「わたしがご助力します」
「……今、なんと?」
「なので、どこか救える場所があるならわたしが……」
言いかけたところでカマリは大きく首を横に振った。予想外の反応に戸惑った真白は言葉を詰まらせてしまった。なんと切り出せばいいか考えていると、カマリはすっと目を細めながら口を開いた。
「それはなりません。真白、それは一体どういうことかわかっていての発言ですか?」
「え……っと……」
「もし、真白が他の宮で戦ったとしても、その力は十分に発揮されずに終わります。簡単に言えば、一人分のスペースに二人がいるとどうなりますか? それと同じです。そこで、真白には真白にしかできないことをお願いしたいのですが、よろしいですか?」
「わ、わたしにできることであれば……」
真白が急くように言うと、カマリは更に目を細めた。その目は氷のように冷たく、冷ややかだった。
「では、人柱になっていただきます」
「え……」
「あなたには他の十二星座の皇子が受けた被害を肩代わりをし、清めてもらいます」
「それってつまり……」
「ええ。あなたの命で世界を壊し、また再生してもらうということです。そうしてまた命の輪廻を紡いでいきます。崩壊がくる度にあなたは人柱となり、祈りを捧げ身を投げていただきます」
「……」
まるで頭を巨大な木槌で打たれたかのような衝撃だった。自分が……人柱に? 俄かには信じられないけど、今確かにカマリははっきりとそう言った。それは揺るぎのない事実だ。
「わたしが……」
「これはあなたにしか務まりません。非常に残酷ではありますが……もし、何もしないで放置すれば世界は言葉通り崩壊し、二度と再生はしないでしょう。ですが、真白にはそれをやり直す力が備わっています。どうか……その力を貸していただけないだろうか」
「……」
無言で頷く真白に、ほんの僅かに頬が緩んだカマリは足早にどこかへ向かうと一人取り残された真白はどんな感情を表に出していいか迷っていた。
泣いていいの?
怒っていいの?
もう何もかもがぐちゃぐちゃに入り混じった真白の顔には「哀」が浮かんでいた。大粒の涙を流し、嗚咽を漏らした。やっぱりこの宿命からは逃れることはできなかった……。今回も逃れることはできなかった……。もしかしたら、ほんの僅かでも希望があるかもと思ったけど……だめだった。真白は袖で涙を拭うと、いつの間にか戻ってきていたカマリが目の前に立っていた。
「これを……」
カマリが持ってきたのはてんびん座の模様が刻まれた宝玉だった。カマリが手にしている天秤を模した杖に埋め込まれたコアとはまた別のもので、カマリが言うにはその宝玉にはここ天秤宮で受けた被害が蓄積されているとのこと。真白がそれを手にすると、真白の体全体に痛みが駆け抜けていった。まるで切り裂かれてしまうのではいかと思う程の裂傷感、まるで引きちぎられてしまうのではないかと思う程の強烈な力が押し寄せてきた。そしてその痛みの後、真白の足から鱗のような模様がじわりじわりと伸び、それは骨盤あたりまで広がった。鱗のようなものが一段と白く光った後、それはすーっと消えていき何事もなかったかのように戻っていった。真白は痛みを感じた個所を撫でてみるも、特に痛みはなく正常だった。
「これが……」
「はい。あなたがこれから先、受けていく痛みです」
「……これは、わたしにしかできないんですよね……」
「はい。残念ながら他の皇子では務まりません」
「……わか……りました」
今回もだめだった……。小さくそう呟いた真白は、ゆっくりと立ち上がりながら空を仰いだ。なにやら黒い物体があちこちに見え、それは危険だと何かが耳元で囁いていた。
「では、ごきげんよう」
カマリはそれだけ言うと、真白に背を向けどこかへ行ってしまった。このままここにいても、あの黒い物体が迫ってくるだけだと判断した真白は、すぐさま転送方陣を展開し、天秤宮から離脱した。転送方陣の詠唱中、どこからか声が聞こえた。
「アルカ。次の任務です」
アルカ? 聞いたことのない名前に首を傾げたいところだが、転移方陣の詠唱が完成する間近だったので意識を別方向に向かせないよう、注意を払い詠唱を完成させた。そしてすぐさま転移方陣を起動させらファルドたちが待つ場所へと転移した。




