令嬢、王太子へ物申す【ミレニア視点】
夜会から戻ったわたくしは、自室のベッドに倒れ込むこともせず、机に向かっていた。
ドレスを着替えることすらもどかしく、羊皮紙に羽根ペンを走らせる。今日までにユニが空中に描いていた光の文字列を、記憶の限り書き起こしていく。
『target=stain; if(target) delete target;』
(targetは、対象……。stainは、染み……)
『感覚的なやり方じゃなくて、この世界の事象を厳密な数値と数式で定義し直すんです。変数に物質を代入して、条件分岐を通して──』
カフェテリアで熱弁していた彼女の声が蘇る。
(……わかるわ。王妃教育で叩き込まれた言語学や論理学の理屈と、根本的な構造は同じだもの)
恐ろしく洗練された、シンプルな術式だ。基礎となる構文と異国の単語の意味さえ紐解ければ、解読は可能だ。それどころか──いずれは学問として体系化し、広く世に普及させることもできるかもしれない。
(delete……対象の存在を、消去する)
(『target.status = normal;』……『状態』を、『正常』と定義する……?)
彼女が息をするように紡いだ術式。その意図を理解した瞬間、背筋に氷を押し当てられたように震えが走った。
これは四大精霊に干渉する『魔法』とも、聖職者たちの『祈り』とも違う。世界の理そのものを強制的に捻じ曲げる、神の御業に等しい異常な術式だった。
ふいに、先ほどの夜会での出来事が脳裏をよぎる。血を吐き、崩れ落ちたユニ。その真っ青な顔色と──痛々しい笑顔。
決して、気軽に行使していい術式ではない。
世界の理を乱すこと、それは自身の命という膨大な代償を支払う行為なのだ。
それなのに彼女は今日、令息たちの些細な筋肉痛や古傷を治すためだけに、その『代償』を支払った。何のためらいもなく、あんな笑顔を浮かべながら。
一体、なんのためにこんな無茶を……。
クライヴ殿下に取り入って、王妃になるため? 男性たちにチヤホヤされるため?
そこまで考えて、わたくしの思考は凍りついた。
『──少しは「聖女」らしく振る舞うことですわ』
つい先日、自分が言い捨てた、冷たい声が耳の奥に蘇る。
「まさか……」
わたくしは、あの子が首から提げていた五つの石を『聖なる力の補強のため』だと周囲に言い繕った。そして、あの子に『聖女らしくしろ』と強要したのだ。
だからあの子は……。あんな命を削るような真似をしてまで奇跡を振りまいたというの?
その場しのぎの誤魔化しを──わたくしの『嘘』を、真実にするために。
「わたくしの、せい……?」
カラン、と。
手から抜け落ちた羽根ペンが床に転がった。
『でも……大丈夫ですか?ミレニア様にそんなウソをつかせてしまって……』
『休んでれば、すぐに治りますからっ……』
心配そうにわたくしを見上げていた瞳。
血に染まった彼女の震える手元。
限界を悟らせないための、健気な笑顔。
それらが代わる代わるフラッシュバックし、胸の奥をギリギリと締め付ける。
「……っ、なんて、馬鹿なことを……! わたくしはただ、派閥を……体面を守りたかっただけで……っ」
わたくしは震える両手で顔を覆った。
ギュッと、一度だけ目元を強く圧迫し……ゆっくりと顔を上げる。手の震えはもう収まっていた。
そう、後悔などしている場合ではない。経緯などどうでもいい。これは、あの子の命に関わる問題だ。
「あんな力の使い方、すぐにやめさせなければ……!」
わたくしは、暗い部屋の中で一人、ドレスのスカートをぎゅっと握りしめた。
◇◇
翌朝。わたくしは酷い寝不足のまま、クライヴ殿下の執務室を訪れていた。
王太子である殿下の権限で、ユニの治癒行為を一切禁じ、絶対安静の保護下に置いてもらうよう直談判するためだ。
「殿下、ユニに関することでお話が──」
「ああ! ちょうど俺もキミと話したかったところなんだ!」
わたくしを遮るように、殿下が口を開く。だが、その声は恐ろしく能天気だった。
「本当にユニは素晴らしい! 祈りで怪我を治すなんて、見たことも聞いたこともない!」
殿下は、曇りのない瞳を輝かせて語り始めた。その背後には、なぜか数多の光の粒が後光のようにきらめいている。
「そうだ、王都の中央に大聖堂を建てて、ユニを最高位の聖女にしよう! 我がアルカディア王国の象徴として、国賓を招いて盛大な式典を開き、奇跡の御業を披露するんだ!」
「殿下。お言葉ですが、昨日の夜会でのことをお忘れですの? 彼女は血を吐いて倒れたのです。そのように無理な力の行使は──」
「大丈夫だ、昨日彼女を見舞ったが、ケロッとして元気に差し入れの肉串をかじっていたぞ!」
殿下はあっけらかんと笑い飛ばし、悪びれもなく胸を張る。吐血した直後の……それも少女のお見舞いに肉串? どういう神経を──いや、それはどうでもいい。
「あれほどの吐血をしたのです、無事なはずがないでしょう!?それに、あの子はただの平民ですわ。外交の矢面に立たせるなど到底正気の沙汰では──」
「なら、キミが裏に回って支援してくれればいい! 得意だろう?」
わたくしの訴えなど全く耳に入っていないかのように、殿下は身を乗り出した。そしてわずかに頬を染め、どこか嬉しそうな、照れくさそうな声色で語り始める。
「俺が初めて外交使節団の応接から逃げ出した時も、キミが徹夜で挨拶の原稿を書いてくれただろう。キミが横でずっと手を握っていてくれたおかげで……俺はあの重圧を乗り越えられたんだ! だからキミがついていればユニだって──」
「──殿下?」
わたくしは冷ややかな声で、その回想 (妄想)を断ち切った。
「思い出を美化するのは止めてくださいまし。わたくしが殿下の手を握っていたのは、励ますためではありません。殿下が再び窓から逃げ出さないよう、物理的に拘束していただけですわ」
「ぐ……っ!? だっ、だがそれだけじゃないぞ! 俺が十歳の時に木から落ちて怪我をした時だって、ミレニアは俺のために必死に──」
バンッ!!
「──失礼。羽虫が飛んでいたようですわ」
わたくしは執務机に叩きつけた手をゆっくりと引き、優雅にほほ笑んでみせた。
「お話を戻しましょう。わたくしは今、あの子の命の危機について話をしておりますのよ」
完全に逃げ道を塞がれた殿下は、しばらく顔を真っ赤にして口をパクパクさせていたが、やがて、キッと顔をあげると常軌を逸した暴論を繰り出した。
「わ、わかったぞミレニア! 結局のところ、キミはユニに嫉妬しているのだろう!?」
「嫉妬?」
「そうだ! あの子が聖女として称賛を浴びるのが気に入らないから、そうやって理屈をこねて反対するのだ! キミがそこまで狭量な女だと言うのなら……俺にも考えがあるぞ! 婚約破棄を父上に上申してユニを──えっ? 婚約破棄!? いや、俺は何を──」
自分自身の口から飛び出した単語に、なぜか殿下本人が一番困惑している。
わたくしは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「……殿下がそこまでユニをお気に召したのであれば、側妃として迎えればよろしいですわ。ですが、それも段階を踏んでのこと。後見となる高位貴族の選定や、礼儀作法の教育……最低でも数年は掛かる大事業ですわ。ましてや正妃に迎えるだなんて、父を──筆頭公爵であるグランツ家を敵に回すおつもりですの? 国が二分されますわよ」
「い、いやミレニア! 待ってくれ。俺が言いたいのはそういうことじゃ……」
殿下がしどろもどろに弁解を始めようとした、まさにその時。ダァンッ!! と、執務室の重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
「で、殿下! 一大事でございます!!」
飛び込んできた騎士が、息をきらして膝をつく。
「王都近郊の村周辺に、大規模な瘴気が発生いたしました! このままでは周辺一帯が汚染されます!」
「なんだと……!?」
領民の──国の危機を告げる凄惨な報告。
だというのに、それを聞いた瞬間、殿下の顔はパッと輝いた。
「そうだ、これは好機だ! ユニの光で村を救えば、父上も国民も──そしてミレニアも彼女の実力を認めざるを得なくなるはず!」
「……っ!?」
わたくしは、己の耳を疑った。
この緊急事態に、何を仰っているの? 魔術師団の派遣でも住民の避難でもなく、あの子を連れて行くですって!?
「すぐに馬車を出せ! それと、ユニを呼べ!」
「お待ちください! これは擦り傷の治癒などとは訳が違うのです! 何が起こるか──」
「案ずるなミレニア! 彼女なら必ずやれる! さあ、行くぞ!」
そう高らかに宣言すると、殿下は呆気にとられるわたくしに背を向け駆け出した。まるで台本に決められていたかのように、一切の躊躇なく。
(……何かが、おかしいわ……どういうことですの……?)
わたくしは言いようのない違和感に苛まれながらも、その背中を追うしかなかった。




