第7話 拡張してゆく世界
愛犬と愛猫のモデリングという最初のタスクに加え、世界の大陸そのものを創造するという途方もない作業。常人であれば気が遠くなるような仕事量だが、結弦の口元には自然と楽しげな笑みが浮かんでいた。
すべては、あの海を見つめる玲子を退屈させないために。
たった一人のプレイヤーに向けられた結弦の神がかったプログラミングは、さらなる熱を帯びて限界を超えていく。
「だが、大陸の創造は後回しだ。まずは玲子の願いが最優先だな」
壮大な世界地図の改変という大仕事に取り掛かる前に、結弦は手元のキーボードを軽快に叩き、すぐさま直近のタスクへと取り掛かった。
まずは、一人きりの彼女の心を癒すための小さな家族だ。
結弦は愛情を込めて、人懐っこく尻尾を振る小型犬と、しなやかで気品のある猫をそれぞれ一匹ずつモデリングし、高度なAIの思考ルーチンを組み込んで屋敷の空間へポンと出現させた。
続いて、生活空間の充実である。
「あとは玲子の洋服やドレス、シューズだな……」
結弦は現実世界の膨大なデータライブラリから、玲子に似合いそうな美しいデザインを検索し、次々と異世界のデータへとコンバートしていく。ゆったりとくつろげる上品な部屋着から、軽やかな外出着、そして目を奪われるような豪奢なドレスまで。
足元を彩る様々なシューズも含めて、厳選した十種類のコーディネートを、真新しい立派な衣装ケースへと丁寧に収納した。
さらに、その横には彼女が毎日の着せ替えを楽しめるよう、アンティーク調の美しい装飾が施された大きな姿見(全身鏡)を配置する。
——すると、次々と追加される上質な家具や設備、そして新しい家族たちのスペースを確保するため、システムが自動的に空間の再計算を始めた。
街から少し離れた丘の上に建っていたこぢんまりとした家は、結弦の打ち込むコードに合わせてダイナミックにその姿を変えていく。
壁が広がり、天井が高くなり、部屋の数が増え、柱や窓枠の意匠が洗練されていく。柔らかな絨毯が敷かれ、シャンデリアが温かな光を落とす。
ほんの数時間のうちに、素朴だったはずのその家は、まるでどこかの貴族の豪邸かと見紛うほどの、美しく壮麗な屋敷へと劇的な変化を遂げていた。
「そして――最後に、あの海だ」
邸宅の拡張と、犬と猫たちの配置、そして豪奢な衣装の準備を終えた結弦は、いよいよ先ほど思いついた海原のアップデートに取り掛かった。
遠くの大陸とを結ぶ貿易船の航路を設定していく中で、結弦はあえて、一つの特別なオブジェクトを海に浮かべた。
それは無骨な荷運び船などではない。巨大な白亜の船体が陽光を反射して眩しく輝く、優雅で美しい『クルーズ船』だった。
「びっくりするだろうな……」
結弦は現実の薄暗い部屋の中で、モニター越しに静かな海を見つめながら、少年のようにイタズラっぽい笑みをこぼした。
この優雅なクルーズ船の存在も、それが窓から見える奇跡のような瞬間のことも、玲子には一切秘密にしてある。彼女には「貿易船が行き交う港を作る」とだけ伝えるつもりだ。
何気ない日常の中、彼女がふと海を眺めた時。
何もないと思っていた穏やかな水平線に、突如として現れる白く巨大な船影。
それが水面を滑るように進んでいく光景は、きっと彼女の瞳を驚きと喜びで輝かせるはずだ。
愛する妻への、とっておきのサプライズをシステムの奥深くにそっと忍び込ませる。
クルーズ船のサプライズをこっそり仕込み終えた結弦は、ふと作業の手を止め、夜空のデータへと視線を移した。
「……そういえば、夜の景色はどうだ?」
今のこの世界の夜空は、ただ暗いキャンバスに星がポツリポツリと点滅しているだけだった。これでは少し寂しすぎる。
結弦の脳裏に、かつて現実世界で玲子と一緒に過ごした記憶が鮮やかに蘇る。あの時、満天の星空の下で二人並んで見上げた、息を呑むような夜空の光景を。
「夜空にも、流れ星がたくさんあればいいな。……そうだ、以前二人で『獅子座流星群』を見た時のように、たくさんの流れ星が定期的に降り注ぐ演出にしよう」
現実の美しさをそのまま再現した、リアルでロマンチックな天体運行のプログラム。
ただランダムに流れるのではなく、計算された周期で夜空を美しく切り裂く流星群の行程を、結弦は静かにコードへ落とし込んでいった。
窓の外の海を優雅に滑るクルーズ船といい、夜空を彩る満天の流れ星といい、結弦が創り出す世界は、もはや単なる「ゲーム」の枠を完全に超え始めていた。
すべては、愛する妻の夜の時間を退屈させないため。
モニターの光に照らされた結弦の横顔には、どこか穏やかで優しい笑みが浮かんでいた。
結弦は満足げに、最後のエンターキーをターンッ、と力強く弾いた。
つづく




