第2話 妻が生きている世界
「お、おい……結弦……これ、どういうことだ……?」
公平が震える手でコントローラーを握ったまま、顔を引きつらせて俺を振り返った。
「お前が組み込んだ仕掛け……なのか? 玲子さんのボイスデータを読み込んで再現するNPCの演出か何か……それとも、単なる酷いバグなのか……!?」
公平のパニック混じりの問いかけが、頭の中で虚しく響く。
だが、俺は知っている。
このゲームのコードを書いていたのは、他ならぬ俺自身だ。
音声認識のロジックも、NPCの応答アルゴリズムも、プレイヤー同士の音声通信プロトコルも、そのすべてを俺がゼロから組み上げた。開発途中のこのテストサーバーに、玲子の過去の音声データを自動抽出して会話させるようなプログラムなんて、絶対に存在しない。
バグ?
あり得ない。プログラムが意志を持って、特定のハンドルネームに過去の思い出を交えてツッコミを入れるような「都合のいいバグ」なんて、この世に存在するはずがないんだ。
論理が、理性が、俺の頭の中で音を立てて弾け飛んだ。
「玲子……!?」
俺は公平から強引にヘッドセットを奪い取ると、マイクにしがみつくようにして狂おしく叫んでいた。
「玲子なのか!? 玲子なんだろ!? お前……なんでそこにいるんだよ!!」
スピーカーの向こうで、一瞬だけ静寂が流れた。
そして——ふっと弾けるような、聞き慣れた愛おしい笑い声が聞こえた。
『もう、結弦ったら急に大声出さないでよ! ビックリするじゃない。どこ行ってたの? ずっと探したんだから』
生前とまったく変わらない、少し呆れたような、でも嬉しさを隠しきれない明るい声。
心臓が破裂しそうなほど強く脈打つ。玲子だ。間違いなく、俺の愛した玲子の声だった。
だが、俺が言葉を詰まらせていると、画面の中の彼女はふと首をかしげるような仕草を見せた。
『あれ……? どこ行ってたんだっけ……?』
明るかった声のトーンが、急速に不安げな陰りを帯びていく。
『私……買い物に行って……それから……んん? おかしいな……。すごく長い間、ここで一人で待ってたような気がする……。結弦、私、なんでここにいるんだろう……?』
画面の向こうで首をかしげる玲子の声が、パソコンのスピーカーから響く。
「……っ」
言葉を失い、ただ画面を見つめる俺の肩を、公平がそっと叩いた。
見れば、公平の顔は青ざめていたが、どこか覚悟を決めたような、あるいは俺に全てを委ねるような目をしていた。
彼は言葉もなく立ち上がり、そっとコントローラーを俺の手に押し付けた。
「……代われよ、結弦」
震える公平の声に背中を押されるように、俺は席に座り直した。
そして、冷え切った両手でヘッドセットを掴み、自分の頭へと被る。
耳を覆う密閉された空間。周囲の雑音がすべて消え去り、聞こえるのは世界でただ一つ、彼女の息遣いと声だけになった。
「玲子……!」
マイクに向かって、今度は震えないように、けれど溢れ出る感情を抑えきれずに俺は声を絞り出した。
『あ——!』
ヘッドセットの向こう、俺の声を聞き取った玲子の声が、パッと明るくなった。
『結弦だ! よかった、やっと声が聞こえた……! ねぇ、私、ずっとここで待ってたんだよ? ここ、なんだか冷たくて暗いところだけど、結弦が来る気がしてずっと……』
「……ごめん、待たせたな。もう大丈夫だ、俺が来たから……!」
溢れそうになる涙をこらえながら、俺はキーボードに手を掛けた。
これはゲームのテストじゃない。バグの検証でもない。
——失われたはずの時間を、もう一度この手で取り戻すための、俺と玲子の新しい生活の始まりだった。
公平が部屋を去った後、俺はすぐにメインの作業ディレクトリを開いた。
会社に納品するためのソースコードを丸ごとコピーし、完全にネットワークから切り離したローカルの別ファイルへと隔離する。これで、誰かがこのサーバーにアクセスしてくることも、アップデートで彼女のデータが上書きされることもない。
ここは、俺と玲子だけの箱庭になる。
ヘッドセット越しに聞こえる玲子は、見慣れない初期設定の空間を不思議そうに歩き回っているようだった。
『ねえ、結弦。なんだかこの街、人が全然いないね。NPCも止まったままだし……私、ここから外のフィールドに出られないみたいなんだけど』
少し不安げな彼女の声に、俺はキーボードを叩く手を止め、マイクを握り直した。
「玲子、聞いてくれ。ちょっとシステムに深刻なエラーが起きてて……お前はしばらく、そのエリアから出られないんだ」
『えっ? バグ? じゃあ、ログアウトした方がいい?』
「いや! ログアウトは……しないでくれ。そのまま、そこにいてほしい」
つづく




