第16話 二人の世界
再び碑文谷池近くの旧アパートに戻った結弦は、『エコーズ』を超える作品を完成させるという一心に取り憑かれていた。
部屋には企画書やゲームデザインのメモが積み重なり、机の上には飲みかけのコーヒーカップが並ぶ。
朝夜の区別もつかない生活の中、食事はコンビニ食やコーヒーだけで済まされることが増えていった。
「ちゃんとご飯を食べて」「少しは休んでよ」
心配する玲子に、結弦は「大丈夫、もう少しだから」と笑顔で応える。だがその裏で、疲労は確実に蓄積し、肩や首は石のように固まり、目の奥が焼けるように痛んでいた。それでも、画面に向かう手を止めることはできなかった。
しかし本人が気づかないうちに、その身体は静かに悲鳴を上げ始めていた。
ある日、激しい眩暈に襲われた結弦は、自室の床へと倒れ込んだ。
その後、連絡の取れなくなった結弦を心配した玲子の両親がアパートを訪れ、倒れている彼を発見して救急搬送。結弦はICU(集中治療室)へと運ばれ、意識不明の生死の境を彷徨うことになった。
――ふと、結弦が目を覚ますと、そこは病院ではなく『エコーズ』の世界だった。
ログイン操作もしていないのに、意識だけが吸い込まれるように入り込んでいたのだ。現れた玲子は、結弦がいつもの格好いい装備ではなく、病院の「だぶだぶのパジャマ姿」であることに違和感を抱く。
さらに、現実世界の乱れるバイタルデータがゲーム内にも反映されているのを見て、玲子は悟った。
結弦が現実世界で生死の境を彷徨い、その意識だけが流れ込んできているのだと。
「結弦、ここに長居しちゃダメ! 現実の身体に戻らないと……!」
しかし結弦は朦朧とした意識の中で、「まだダンジョンのコードが未完成なんだ……君を救うためのコードが……」と呟く。
その時、ダンジョンの奥から轟音が響いた。未完成のコードが生み出した無数のバグモンスターの群れだ。ホワイトライオンのジョンとホワイトタイガーのミーコ、そして玲子自身が剣を振るい、必死に結弦を守る。
玲子は結弦のパジャマの胸元を強く掴み、涙を浮かべて叫んだ。
「コードなんて未完成でいい! 私が欲しいのは、完璧な世界じゃない! あなたと一緒に生きる未来なの!」
その言葉に、結弦は力なく笑う。
「俺は……二人で幸せに暮らせたら、それで良かったんだ。このままここで玲子と旅をするのも悪くないかもしれない」
――次の瞬間、乾いた音が響いた。玲子が結弦の頬を思いきりひっぱたいたのだ。
「馬鹿ね! あなたがこのままここにいたら、今作っているダンジョンの作品はどうするのよ! お願いだから、現実へ帰って! ちゃんと療養して、それからまた作ればいいじゃない!」
その叫びが、結弦の胸の奥深くへと響いた。
「玲子……?」
「帰ってきて!」
玲子の声を最後に、結弦の意識は現実世界へと引き戻されていった。
三日後。白い天井と消毒液の匂いの中、結弦の瞼がゆっくりと開いた。
病室には見舞いに訪れていた玲子の両親がおり、二人の安堵の涙と共に、自分が三日間意識を失っていたことを知らされる。やがて体調を取り戻した結弦は、無事に退院の日を迎えた。
退院後、結弦は会社へ新しい企画書を提出した。
それは、『エコーズ』のダンジョン構想をベースにしつつも、かつての「誰もが驚くような完璧な攻略・高難易度」とはまったく違うものだった。
タイトルは『誰もが、誰かと温かな時間を過ごすためのダンジョン』。
生死の境を彷徨った結弦が気づいたのは、完璧さではなく、大切な人と笑い、悩み、一緒に過ごす時間の尊さだった。その優しさに満ちた企画書は、周囲の人間を深く唸らせた。
しばらくして、奇跡的な生還を果たした結弦は、再び『エコーズ』のサーバーへアクセスする。
かつてバグが暴走していたエリアは穏やかな光に包まれ、その中心には一つの特別なオブジェクトが立っていた。それは、あの時の――病院のパジャマ姿をした結弦の姿だった。傍らには、ジョンとミーコが静かに寄り添っている。
結弦は自分のオブジェクトに吸い込まれてゆく。
「私たち、ちゃんと……こっちで生きてるね」
玲子の言葉に、結弦は静か頷いた。
もう、「完璧でなければならない」と自分を追い詰めることはない。
失敗してもいい。遠回りしてもいい。未完成でもいい。誰かと笑えるなら、それでいい。
生死の境を乗り越えたことで視野が広がった結弦の頭には、自由で温かなアイデアが次々と浮かんでくる。
玲子と手を携えながら歩むこれからの日々は、どんな難解なダンジョンよりも、温かく輝かしい冒険になる。
ログアウトした後も、結弦のメモリアルオブジェクトは消えることなく玲子と残り続けた。
それは、完璧ではなかったからこそ生まれた、結弦にとって最高の「バグ」だった。
つづく




