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第90話:野生の初陣

 康介に連れられてやってきたのは、町外れの古びた建物だった。

「ボロい建物だな」

 大吾が吐き捨てるように言うと、康介は前を見据えたまま静かに返した。

「すぐに、ここが神聖な場所だと分かるさ」

 門をくぐり、板張りの道場へと足を踏み入れる。そこでは、稽古着姿の凛と佐伯が、黙々と雑巾がけをしていた。

「凛。俺の古い防具があっただろう。持ってきて、こいつに着せてやれ」

 康介の指示に、凛が怪訝そうに顔を上げる。

「防具? なんなのよ、急に。……っていうか、誰よそのガラの悪いのは」

「そこで拾って来た。大吾、ここは剣道場だ」

 康介の答えに、大吾は鼻で笑った。

「剣道? 棒きれ持って叩き合うアレか。簡単そうじゃねぇか」

 その不遜な態度に、凛の眉間に皺が寄る。

「なによ、あいつ……」

「よく分かりませんが、あまり関わらない方がいい相手だと、一目で分かりますね」

 佐伯は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷ややかな視線を大吾に向けた。

「いいから早くしろ。やってみれば分かる」

 康介の促しに、凛は不承不承動き出した。大吾は学生服の上から、無理やり防具を押し付けられる。

「ちょっと、じっとしててよ! 着けられないでしょ」

 毒づく凛に対し、大吾は意外にも素直に、されるがままになっていた。佐伯は少し離れた場所から、嵐の前の静けさを観察している。

 準備を終え、康介が再び姿を現した。

 その瞬間、大吾は思わず息を呑んだ。

 先ほどまでの「冴えないおっさん」は、もうどこにもいない。藍色の剣道着に身を包み、竹刀を手にした康介からは、底の知れない巨大な影のような威圧感が溢れ出していた。

「さあ、大吾。この竹刀で、私に一太刀、触れてみろ」

 康介から丁寧に手渡された竹刀を、大吾はひったくるように掴んだ。

「後悔するなよ、おっさん!」

 大吾が地を蹴った。喧嘩で培った野生の勘。力任せに、竹刀がしなるほどの勢いで振り下ろす。

(――貰ったッ!)

 しかし、確信した一撃は空を切った。康介が最小限の動きで、大吾の攻撃を紙一重でかわしたのだ。

「ほら、どうした? 届かないのか」

「舐めやがって……!」

 大吾が猛獣のように竹刀を振り回す。だが、康介はそのすべてを、まるで赤子の手をひねるように竹刀の先で捌いていく。

(当たらねぇ……何でだ!)

 大吾の息が上がり、肩が揺れたその刹那。

 パァンッ!

 乾いた打突音が道場に響き渡った。

 何が起きたのか、大吾には理解できなかった。視界が激しく揺れ、気づいた時には床に転がっていた。

「……あ……?」

 脳が揺れる。這いつくばりながら、信じられないものを見る目で康介を見上げた。

「今の……何だ。何しやがった……!」

「逃げ場はないぞ。私を倒してみろ」

 康介の瞳には、怒りも蔑みもなかった。ただ、鏡のように大吾の「弱さ」を静かに映し出した。

 大吾の心の中で、何かが弾けた。恐怖ではない。震えるような「歓喜」だ。

「……へっ、あははは! 面白ぇ……面白ぇじゃねぇか!」

 大吾は床を叩いて立ち上がると、再び康介に襲いかかった。

 何度打っても当たらない。逆に、康介の鋭い打突が次々と大吾の体に刻まれていく。

 数分後。体力を使い果たし、肩で激しく息をする大吾がそこにいた。

「もう終わりか? いくらでも付き合ってやるぞ」

 康介の挑発に乗る体力すら、もう残っていない。

「なんだこれ……全然、かなわねぇ……」

 大吾は荒い息を吐きながら、康介を真っ直ぐに見据えた。

「おっさん……。その棒きれの振り方、今すぐ俺に教えろッ!」

 野獣が初めて、自分の牙を研ぐべき「聖域」を見つけた瞬間だった。

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