第85話:無垢なる渇望
観客席から、大河内は蛇のような眼差しで成瀬康介を射抜いていた。
「いいだろう成瀬……。『虎皇旗』に招待してやる」
その言葉に、傍らにいた鷹司が微かに肩を揺らした。
「彼等らと……試合をするのですか?」
無機質な鷹司の問いに、大河内が低く応える。
「お前たちと当たるまで、奴らが勝ち上がれたらの話だ」
鷹司は、鉄仮面のような無表情の下で、心は激しくざわついていた。守屋と、泣き崩れる新免たち。異質な輝きを放つ明鏡館の五人。そして、自分たちの常識では理解不能な指示を出し、弟子たちを慈しむように見守る成瀬康介。
鷹司には、物心がつく前から父親がいなかった。彼の世界は、常に母親と自分だけの狭い箱庭だった。行き場を失った愛情は歪み、今の彼にとっての唯一の安らぎは「大河内が満足する顔」を見ることだけ。それが、彼の存在理由のすべてだった。同じ虎皇館のメンバーでさえ、勝利を捧げるための「道具」以上の価値はない。
だが、今、目の前にある光景はどうだ。
通じ合う絆。康介の優しい眼差し。そして、大勢に囲まれる守屋の姿。胸を焼くようなこの苛立ちが、実は猛烈な『羨望』であることに、彼はまだ気づいていない。
「……僕が、招待の件を伝えてきます」
鷹司は一人、観客席から試合会場へと歩み出した。
「おい、わざわざお前が行かなくても……」
樋口が声をかけるが、鷹司は一瞥もくれずにその横をすり抜ける。
「おい、ちょっと待てよ!」
追いかけようとする樋口を、大月が手で制した。
「やめとけ。機嫌を損ねたら、次の稽古で酷い目に遭うぞ」
「相変わらず、何を考えてるか読めねえ奴だな」
加治屋が吐き捨てると、藤田が鼻で笑った。
「強けりゃ何でもいいんだよ」
藤田のその言葉は、そのまま彼自身の、そしてこの組織の真理だった。その真理を背負ったまま、鷹司は静かに、けれど圧倒的な威圧感を伴って、明鏡館の面々が待つフロアへと階段を下りていく。




