第6話:門前の影
雨上がりの、重く湿った夕暮れだった。
明鏡館の門前。黒ずんだ塀の隅に、その少年は座り込んでいた。
泥を撥ねた防具袋を胸に抱え、背中を丸めている。
声をかけるでもなく、中に入るでもなく。
ただそこに「置かれている」ような、異様な姿だった。
「……ちょっと、あんた。いつまでそこにいるのよ」
買い物帰りの遥が声をかけたが、少年は反応しない。
不審に思って一歩近づき、ようやくその異変に気づいた。
髪の隙間からのぞく顔は病的なまでに青白く、呼吸さえ忘れているかのようだ。
そして、泥で汚れた白いジャージに刺繍された、金色の文字。
『虎皇館』
遥は、小さく息を呑んだ。
息子・瞬の心を折った、あの因縁の道場の名前だ。
「……面倒なの拾っちゃったわね」
呟きながらも、遥の身体は瞬時に動いた。
「いい? 倒れるなら中で倒れなさい。ここ、雨宿り料は高いわよ」
遥は少年の細い腕を強引に掴み、肩を貸した。
*
「母さん……それ、誰だよ!?」
道場の中で、稽古を終えた瞬たちが息を呑んだ。
「名前は」
佐伯が事務的な、けれど硬い声で尋ねる。
「……守屋、潤……」
掠れた声でそれだけ言うと、守屋の身体から糸が切れた。
膝から崩れ落ち、板間に突っ伏した彼の背中に、鮮烈な文字が浮かび上がる。
「「「虎皇館……っ!?」」」
(虎皇館の守屋。……この男、あいつらのレギュラーだ……!)
瞬の脳裏に、あの大会の情景がフラッシュバックする。
暴力的なまでに圧倒的だった虎皇館。そのエリートが今、見る影もなく疲弊し、自分たちの居場所に転がり込んでいる。
「虎皇館のレギュラーが、うちみたいな道場に何の用だ」
大吾が低く、地鳴りのような威圧感を込めて問いかける。
守屋の唇が、紫色のまま戦慄いた。
「……もう、無理なんだ……。あそこには、いられない……」
「大河内先生はおかしい……勝たなきゃ、認められない。僕たちは、あの先生の道具でしかない……」
守屋の口から溢れ出したのは、底知れない泥のような絶望だった。
「仲間だと思ってた奴らも……僕が負けると、みんな離れていく。……僕と関わったら、次は自分がどうなるか、分かってるから……」
*
パチン、と佐伯が眼鏡のブリッジを押し上げた。
「逃げ出したというわけか。名門のプライドを捨てて。……そんな人間に、この道場の敷居を跨がせるわけにはいかないな」
「……っ、おい、佐伯!」
瞬の口から、怒号が飛び出した。胸の奥が、焼けるように熱い。
「プライドとか……そんなの、今こいつに関係ねーだろ!」
「関係ある。剣道は心の競技だ。他者を踏み台にすることしか教えない場所にいた男には、ここに入る資格はない」
「資格とか、理屈じゃねーんだよ!」
瞬は守屋の前に立ちはだかるように、一歩踏み出した。
足が震えている。だが、止まれない。
「こいつが今、なんでここに来たのかはわかんねぇ。だけどこいつは今、助けを求めているんだ! お前にだってそれくらいわかるだろ!」
瞬の叫びが、道場の高い天井に反響する。その言葉は自分自身の古傷を抉っていた。あの日、逃げ出した自分。
「逃げるのがそんなに悪いことかよ? 壊れるまでそこにいろってのが名門の教えか? ……だったら、そんな道場なんて、こっちから……」
「瞬、言葉を慎め」
成瀬康介の重厚な声が響いた。
康介はゆっくりと守屋の前まで歩み寄ると、その場に膝をついた。
「守屋、だったな。……お前、腹減ってないか?」
「……え?」
「遥ちゃんが拾ってきたんだ。相当弱ってんだろ。……凛、師範室に連れていけ。まずは何か食わせろ。話は、その次だ」
*
守屋が連れて行かれた後、佐伯が納得のいかない表情で竹刀袋を閉じた。
「成瀬先生。虎皇館の人間がここに来たことは、後で必ず面倒なことになります」
「分かっている。だが佐伯。ここで見捨てるようなことをすれば、それこそ道を外れていると思わんか?」
康介は、守屋が座っていた床の上の泥汚れを、慈しむように見つめた。
「……それに、俺はあの男のことを知っている」




