第4話:鴉の巣、獅子の目
更衣室の重い戸を引き、稽古場に一歩足を踏み入れた瞬間。
瞬の肌を刺したのは、冷え切った静寂だった。
道場の上座。
そこには、竹刀を傍らに置き、端座して瞑想に耽る成瀬康介の姿があった。
昨夜、母・遥と冗談を言い合っていた柔和な面影は微塵もない。
そこに在るのは、峻烈な武人の気配だった。
「瞬、今日は初日だ。無理はするな。お前の今の実力を見て、今後のメニューを考える」
康介が静かに立ち上がる。その、わずかな一動作だけで、道場の空気がうねるように震えた。
「お前ら、今日は軽く試合形式の稽古だ!」
「「「はい!!」」」
三人の鋭い返事が板張りの天井に反響し、瞬にとって経験したことのない、密度の濃い「時間」の幕が上がった。
*
「軽く」という言葉は、瞬にとって残酷な欺瞞に過ぎなかった。
荒木大吾の打突は、まるで重戦車の蹂躙だ。
受ける瞬の腕は悲鳴を上げ、骨の軋む音が脳内にまで響く。
佐伯彰の剣は、冷徹な精密機械そのものだった。
瞬が動こうとする「意志の芽」を、常にコンマ数秒早く喉元で摘み取ってくる。
そして、成瀬凛。
陽炎のような足さばきに翻弄され、瞬の竹刀は空しく空を切る。
床に這いつくばるたび、悔しさで視界が熱く滲んだ。
だが、その様子を見つめる康介の瞳には、微かな光が宿っていた。
「よし瞬! 最後は俺に掛かってこい!」
不意の指名。
康介が正眼に構えた瞬間、逃げ出したくなるほどの圧力が道場を支配した。
「……逃げるのか?」
その低い、けれど逃れられない声が、瞬のプライドをまっすぐに貫く。
「逃げて、たまるかぁっ!!」
瞬の身体が、意志を超えて爆発した。
これまでの「六年間」のすべてを絞り出すように、息もつかせぬ連続技を繰り出す。
打たせるつもりでいた康介の表情が、一変した。
達人の本能が跳ね、反射的に鋭い「面」が放たれる。
直撃かと思われた刹那、硬い衝撃音が響いた。瞬の竹刀が斜めに滑り、康介の面を受け流した。
瞬の剣先は円を描くように淀みなく流れ、康介の右胴へと吸い込まれていく――。
「っ!?」
康介が紙一重で身をかわし、胴は空を切る。
振り抜いた姿勢のまま立ち尽くす瞬を、道場の全員が、言葉を失って凝視していた。
「……あぶねぇ。おいおい、今の一瞬で、その『返し』を出せるのかよ……」
*
「……悪くねぇ返し胴だったぜ」
稽古後、大吾がガシガシと瞬の肩を叩く。
「瞬。君の未熟な動きから、あの応じ技が出るとは意外だった。要注意データとして登録しておこう」
(……これ、褒めてくれてるんだよな?)
凛も静かに近づいてきた。
「さっきは言い過ぎたわ。でも、二度とあんな真似しないでよね」
そこに、康介が歩み寄った。
「スッキリした顔してるな。楽しそうに剣道してたもんなぁ」
「はい。……なぜか、楽しかったです」
「それは、お前が剣道を好きだからだよ。……本当は『続ける理由』をずっと待ってたんじゃないのか」
ハッとした。
負けたのが嫌だったんじゃない。逃げた自分を剣道のせいにしていただけだ。
「……はい。好きでした……」
*
「……で、瞬。知ってるか?」
帰り道、大吾がニヤニヤしながら佐伯を指差した。
「こいつ『洗える防具』を三セットも持ってて、毎回洗ってローテーションしてんだぜ」
「マジか!? そこまでやる奴、聞いたことないぞ」
「君たち、衛生面は剣士の嗜みだよ。不当な臭いイメージを払拭するには、科学的なアプローチが不可欠だ」
「私はそこまで徹底しないけど……まあ、手入れはこまめにやってるわね」
凛も同意する。大吾だけが鼻を鳴らした。
「ふん、男は黙って汗を流すもんだろ」
「「「気にしろよ!!」」」
三人の声が夜道に重なった。
賑やかな背中を追いかけながら、瞬は確信していた。
自分の居場所は、ここにあるのだと。




