第30話:泥沼の反復
翌日の稽古。瞬の動きは、部員たちの目から見ても明らかに「劣化」していた。反応が遅れ、判断を迷い、初心者のように面を打たれる。
「おい瞬、どうしちまったんだよ!」
大吾が心配そうに声をかけるが、瞬の耳には届かない。打たれるたびに、瞬は自分の内側を見つめていた。
(今の面……打たれる前に、俺は『負ける』と思った。理屈を追いかけすぎて、心が居着いていたんだ)
深夜。誰もいない道場に、等間隔で床を叩く足音だけが響いていた。瞬は一人、鏡の前に立っていた。
「……違う」
一歩、踏み込む。だが、竹刀は振らない。康介の言葉が呪文のように脳内で繰り返される。『相手に恐怖を感じさせる攻めを身につけろ』。これまでのように勢いで踏み込めば、それはただの「突進」だ。だが、理屈を意識しすぎると、足も腰もコンクリートを流し込まれたように重くなる。
(どうやって……どうやって攻めればいいんだ)
「理」を知る前の自分なら、今ごろ何百回も素振りをしていたはずだ。しかし、今は一振りの素振りさえできない。たった一歩、間合いを詰めるだけの動作が、どうしても分からないのだ。
不意に道場の扉が開く。凛だった。
「……まだやってんの。考えすぎだって言ったでしょ」
「凛……。攻めが、分からないんだ。迷いながら攻めてるから、途中で足が止まるんだ……」
「あんたね、今までやってきた『基本』を忘れてるんじゃない? 大事なのは足でしょ。足から動いて腰が入るから、相手は壁が迫ってくるように感じるの。……まあ、私も練習中だけど」
「基本……」
「そうよ。すり足、姿勢、脱力。基本ができたから、成瀬先生は次を教えてくれたのよ」
凛はそれだけ言うと、ペットボトルの水を置いて去っていった。
「足から動いて……腰が入る……」
瞬は再び鏡に向き合った。ふと、記憶の底からある言葉が浮上する。
(基本が一番大切なんじゃよ)
老師の言葉だった。自分は基本ができていると、傲慢にも思い込んでいたのだ。
瞬はゆっくりと構えを解き、深く息を吐いた。
泥沼の底で、初めて掴んだ確かな感触。
瞬は竹刀を置き、道場の端から端まで、ただ「すり足」を始めた。一歩、また一歩。鏡の中の自分を消し、ただ床を踏みしめる感覚だけを研ぎ澄ましていく。
それは「本物の剣士」へと作り変わるための、最初の一歩でもあった。




