第28話:静寂の場所
佐伯 彰は、幼少の頃から体を動かすことが嫌いだった。
体育の授業、喧騒の中で皆がサッカーに興じる中、彼にボールが回ってくることはない。自分でもそれを望んではいなかった。自分の思い通りに体を動かせない「不器用さ」への強い苦手意識。協調運動を苦手とする彰にとって、スポーツの場は単なる「恥をかく場」でしかなかったからだ。
運動はままならなくとも、彼は別の方法で自分の世界を支配しようとした。「手の汚れを完璧に落とす」「持ち物をミリ単位で整える」。自分の意志で100%制御可能な、この「整っている状態」への執着。それがいつしか、潔癖症に近い症状となって彼を縛り始めていた。
そんな彰を心配した両親が、悩み抜いた末に頼ったのは剣道だった。近所に住む中学校の教員で、剣道の達人だという男の噂を聞き、相談を持ちかけたのだ。
「ちょうど良かった。ウチの娘も始めたばかりで、稽古相手が欲しかったんだ」
成瀬 康介は、心底嬉しそうな顔で一家を迎え入れた。
両親に手を引かれ、明鏡館の門をくぐった彰の目に飛び込んできたのは、古びて、しかし凛とした静寂を湛えた建物だった。学校の体育館のような騒々しさはない。その空気が、彰には不思議と心地よかった。
「剣道はな、相手をやっつけるスポーツじゃない。自分と向き合う武道なんだよ」
康介が優しく語りかけながら、娘の凛を紹介する。
「とりあえず、今日は中で遊んでいけ。広い道場は気持ちいいぞ」
促されて凛と共に中に入った彰だったが、すぐに足を止めて顔をしかめた。
「なんか……臭い……」
思わず鼻をつまんだ彰に、凛が弾んだ声で答える。
「やっぱりわかる? お父さんに言っても、ちっともわかってくれなくて!」
「掃除をしないと」
彰が眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、使命感に燃えた瞳で言う。すると、凛がパッと笑顔になり、勢いよく手を挙げた。
「賛成!」
二人の小さな子供は、ぎこちない手つきで雑巾を絞ると、遊び半分、しかし真剣に、仲良く床を磨き始めた。
その様子を、彰の両親と康介は、春の陽だまりのような優しい目で見守っていた。




