第1話:逃げ出したあの日、閉じられた扉
「……いつまで、その情けない面してんのよ!」
バチンッ!
衝撃と共に、桐谷瞬の視界に火花が散る。
「痛ってぇ!!」
目の前の視界を遮っていたのは、母親が振り下ろした『丸めたファッション雑誌』だった。
「剣道なんか、もう絶対に嫌だ!! 中学では違う部活に入る!」
瞬の絶叫が、朝のリビングに響き渡る。
「あんな地味で、臭くて、痛いもの、何が楽しいんだよ! 時代はサッカーかダンスだろ! クラスで女子にキャーキャー言われたいんだよ!」
「うるさいわね! あんたがキャーキャー言われるなんて百年早いわよ!」
母親・遥の返しは、瞬の打突よりも速い。
「あんたのそのガサツな性格を叩き直すには剣道しかないのよ! 小学生六年間も続けて礼儀の『れ』の字も覚えられないなんて、親として恥ずかしいわ!」
「……落ち着きなさい。朝から騒がしい」
不意に、父親・裕一が遥の口にチョコレートを咥えさせた。
「ふぐっ……」
もぐもぐと黙って口を動かす遥を尻目に、裕一は静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「サッカーでもダンスでもいい。だが、やめる前に一度だけ、父さんの古い友人が指導をしている道場に行ってみろ。……まあ、歴史は古いが、生徒が足りていないという話だが……」
「……それ、絶対勧誘されるやつじゃん! 断るからな! 俺は絶対、断るからな!」
*
その夜、瞬は自室の暗がりに沈んでいた。
夢の中で、十歳の自分が立っている。
握った竹刀は震え、足は床に縫い付けられたように動かない。
目の前には、巨大な悪意の塊――『剣道着の怪物』が立っていた。
『……逃げた』
『かっこわりぃ……』
『なんだよ、あいつ。期待して損した』
背後から突き刺さる、かつての仲間たちの嘲笑。
(違うんだ、逃げるつもりなんて――)
言い訳を喉の奥で飲み込み、瞬は暗闇の中で孤独に拳を握りしめた。
溢れ出した涙が、冷たい床に落ちて波紋を広げる。
「……また、うなされてたわね」
壁一枚隔てた廊下で、遥が呟いた。
十歳のあの試合から、瞬の時間は止まったままだ。
「剣道が嫌いなんじゃないのよ。逃げた自分を、ずっと責めてる」
裕一は黙って頷いた。
「……成瀬には説明してある。あいつなら、逃げた気持ちも含めて瞬を見てくれるはずだ」




