第118話:綻び
中村は、樋口の静かな圧力に呑み込まれようとしていた。
樋口の足さばきは小さく、鋭く、そして確実だ。
獲物を追い詰める蛇のように、じりじりと、しかし逃げ場を奪うように間合いを詰めてくる。
なんとか自分のペースに持ち込もうと、中村が攻め入ろうとするたび、その剣先は軽くいなされた。
樋口はまるで指先の一部であるかのように、竹刀の先を精密に操っていた。
「あの樋口……うまいな」
裕一が思わず呟く。
それを聞いた宇佐美が、苦々しく応じた。
「剣を殺されておる。前回も、あやつは反撃の糸口すら掴めなんだ……」
樋口の剣先が中村の竹刀の下を潜り、鍔元を激しく攻める。
そこから放たれた、予備動作のない強烈な小手面。
手元が浮くのを必死に堪えていた中村の面金を、乾いた音が叩いた。
「危ないのぉ……」
宇佐美の眉間に深い皺が寄る。
「あれほど繊細な動きから、これほど力強い打突が来るとは。下半身が安定している証拠です」
裕一が感心したように漏らす。
「先鋒の藤田が派手な動きをするから地味に見えるが、あやつの実力は一級品じゃ。無理に打てば――」
「ちょっと! 二人とも!」
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これまで黙って試合場を凝視していた遥が、鋭い声を上げた。
「難しい剣道談義ばっかりやってないで、ちゃんと応援して! 茜ちゃん、あんなに苦しんでるんだから!」
遥の真っ直ぐな一喝に、二人は言葉を失い、黙り込んだ。
自分たちが「技術」として分析していた目の前の光景が、一人の少女が魂を削って戦っている「現場」であることを突きつけられたのだ。
二人は深く腰掛け直し、先ほどよりも鋭い眼光で、しかし一言も発さずに――祈るような沈黙でコートを見つめた。
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中村は、焦っていた。
(せめて一本……一本だけでも取り返さないと……)
先鋒が二本負けを喫した、絶望的な点差。
それを少しでも縮めたいという義務感が、彼女の肩を重くする。
そこへ、樋口が再び鍔元を執拗に攻めてきた。
剣先が中村の竹刀の下に潜り込む。
(ここだ!)
中村の左足が、床を力強く蹴り出した。
渾身の面を叩き込もうと、手元を上げた瞬間。
――パンッ!
樋口の剣先が、吸い込まれるように中村の右小手を捉えていた。
「焦りよった……!」
宇佐美が思わず声を漏らす。
(失敗した……!? ……もう、時間がないのに……)
残り時間が少ないことを、中村は焦燥に焼かれる肌で感じ取っていた。
(ここで負けたら……もう後がない……!)
一本を取り返そうとする必死な気持ちが、樋口の巧妙な「誘い」を見抜く目を、無慈悲に曇らせていた。




