第1話 下級文官、公爵家に借り出される
王宮勤めをしていると、ときどき朝から人生が終わる。
比喩ではない。
実際には死なないにせよ、これまでの平穏とか、目立たずに済む未来とか、そういう慎ましいものが音もなく終わるのだ。
その朝、私は文書局の自席で、冷めた茶をすすりながら前日の未整理分に赤線を引いていた。
夜会明けの朝はだいたい地獄である。酔った貴族の依頼書は字が潰れるし、侍従の控えは急いでいて雑になるし、後になってから「やはり昨夜の記録は見なかったことに」などと言い出す者まで出る。
王宮は今日も元気だった。
私は元気ではなかった。
「顔が死んでるぞ」
向かいの机からベルナールが言う。
「夜会明けの文書局職員に生気を期待するほうが間違ってる」
「それはそうだが、お前は昨日の分が濃すぎる」
「他人事みたいに言うなよ。巻き込まれてただろ」
「巻き込んだ側が言うな」
まったくその通りである。
私は手元の書類を綴じながら、昨夜の記録庫を思い出していた。
侍従服の男。追記された出入り補助記録。青糸のほつれ。そして何より、公爵令嬢の「逃がしません」という静かな宣言。
嫌な予感はしている。
しているが、予感の段階ではまだ人は現実逃避できる。
そこへ、文書局の空気に似つかわしくない靴音が響いた。
規則的で、急がず、遠慮がない。
上に立つ人間の歩き方だ。
室内の何人かが一斉に顔を上げる。
扉口に立っていたのは、見覚えのある灰銀の上着――ヴァルシエ公爵家の家令、アルヴァンだった。
終わったな、と思った。
比喩ではなく、今度こそ本当に終わった気がした。
「文書局所属、アシュレイ殿はおいでか」
その声だけで、室内の視線が全部こちらへ集まる。
私はまだ何もしていないのに、すでに居心地が悪い。
「……おりますが」
「結構」
結構ではない。
アルヴァンは私の机までまっすぐ歩いてくると、封のされた文書を一通差し出した。
「ヴァルシエ公爵家より、正式な出向依頼です」
文書局が静まり返る。
ベルナールが横で息を止めた。
止めたいのは私のほうだ。
「出向」
「はい」
「正式な」
「はい」
「どちらかというと聞き間違いであってほしいんですが」
「残念ながら、書面です」
容赦がない。
家令というものはもう少し言い方を工夫できないのだろうか。できるのだろうな。できる上でこれなのだろう。質が悪い。
私は封書を受け取り、恐る恐る開いた。
文面は実に整っていた。
婉曲で、丁寧で、逃げ道がない。
要約するとこうだ。
昨夜の一件に関連し、ヴァルシエ家外郭記録および贈答・出入り整理のため、文書局所属アシュレイを一定期間、公爵家側実務補佐として借り受けたい。ついては可及的速やかに。
……可及的速やかに。
「嫌な七文字ですね」
思わず本音が漏れた。
アルヴァンが淡々と返す。
「公爵令嬢のご判断ですので」
やっぱりあの人か。
そうだろうなとは思っていた。思っていたが、やはり現実になると胃にくる。
「局長は」
「すでにご了承済みです」
「早いなあ」
「昨夜のうちに根回しは済んでおります」
でしょうね。
私はゆっくりと顔を上げた。
文書局中の人間が見ている。やめてくれ。本当にやめてくれ。こういうときは皆、自分の書類だけ見ていてほしい。
ただし、ベルナール。お前だけ視線を外しているのは何故か癪に障る。
「お断りする余地は」
「あると思われますか」
「聞いただけです」
「賢明です」
まるで賢明ではない。
私は机に突っ伏したくなるのをこらえ、斜め向かいの席を見る。局長はいつの間にか自室の扉を少しだけ開けてこちらを覗いていた。目が合うと、すぐさま閉めた。逃げたな、あれは。
「裏切り者が多い職場だ」
「元気を出せ」
ベルナールが小声で言う。
「他人事だと思って」
「半分は同情してるよ」
「半分か」
「半分は面白がってる」
「正直で大変よろしい」
私は立ち上がり、局長室の扉をノックもそこそこに開けた。
「局長」
「おお、アシュレイ君。来たか」
「来たか、ではありません」
「公爵家からのご指名だ。名誉なことじゃないか」
「私の胃はそう思っていません」
局長は五十を少し越えたあたりの男で、事なかれ主義に磨きがかかっている。普段は穏やかで悪い人ではない。だが、こういうときに部下を売る速度だけはたいへん優秀だった。
「昨夜の件、殿下の御前でも働いたそうじゃないか」
「働いたというか、巻き込まれたというか」
「結果として同じだ」
「現場の人間には大違いです」
局長は咳払いした。
「ともあれ、公爵家直々の依頼だ。断る理由がない」
「文書局としては、ですか」
「王宮職員としても、だな」
終わった。
きれいに終わった。
「期間はどのくらいです」
「まずは十日」
「長い」
「必要に応じて延長」
「もっと長い」
「精励したまえ」
励ませるか。
しかし上司に本音を言っても給金は増えない。私は諦めて一礼した。
「承知しました」
「うむ。文書局の名を汚さぬよう」
「私個人のほうが先に汚れそうですが」
「それも職務のうちだ」
うちの職場、少しだけ労働観が荒れていないだろうか。
局長室を出ると、アルヴァンが待っていた。
待っているのは知っていたが、待たれると余計に逃げ場がなくなる。
「準備が整い次第、お越しを」
「ちなみに“整い次第”というのは」
「一刻以内です」
「厳しい」
「可及的速やかに、とのことですので」
嫌な七文字を使いこなすな、この人。
アルヴァンはそれだけ告げると一礼し、文書局を出ていった。
ようやく空気が戻る。戻るが、視線までは消えない。
数秒後、室内のあちこちから微妙に抑えたざわめきが湧いた。
「おいアシュレイ、公爵家って何をやったんだ」
「左遷じゃないのか、あれ」
「いや栄転だろ」
「絶対違う。アシュレイのことだ。栄転では絶対ないだろう」
うるさい。
どれも間違ってはいない気がするのがなお悪い。
私は無言で机へ戻り、私物を最小限まとめ始めた。
筆記具、予備の紙、小型の印章確認具、綴じ紐。こういうとき、文官の荷物は少なくて助かる。
ベルナールが椅子ごと近寄ってくる。
「お前、本当に行くのか」
「行かないわけにはいかないだろう。それに、局長が私を売ったみたいだし」
「それは見てた」
「見てたなら助けてくれてもよかっただろ」
「公爵家相手に何をどう助けるんだよ」
「そこを何とか」
「無理だな」
きっぱりしていて結構である。
「で、どう思う」
私は荷をまとめながら聞いた。
「十日で帰れると思うか」
「思わない」
「だろうな」
「でもまあ」
ベルナールは少しだけ真顔になった。
「気をつけろよ。昨夜の件、お前が思ってるより見られてる」
「自覚はある」
「本当か?」
「半分くらいは」
「その半分が危ないんだよ」
まったくもって、その通りだった。
私は荷物を抱え、最後に自分の机を見た。
紙の山、使い慣れた椅子、雑に積まれた仮綴じ。地味で、面倒で、だが落ち着く場所だ。
「戻ってきたら机が片付いてたりしないよな」
「それは大丈夫だろ」
「信用していいのか」
「半分くらいは」
「お前までそれを使うな」
ベルナールが笑った。
少しだけ気が楽になる。
「土産話、期待してる」
「期待するな。だいたい碌でもない」
「だからだよ」
私はため息をつき、文書局をあとにした。
ヴァルシエ公爵家の屋敷は、王都の中心部でもひときわ静かな区画にあった。
広い。
大きいではなく、広い。門から玄関までの距離がすでに庶民の感覚ではない。石畳も手入れが行き届き、庭の植え込みにすら無駄がない。金をかけているというより、秩序そのものに財力がある感じだ。
「帰りたい」
「まだ入ってもいませんが」
案内役のアルヴァンが即座に返す。
「見ただけで疲れる屋敷というものは存在するんですよ」
「その程度で務まらぬなら、なおさら鍛え直す必要がありますな」
「私、借り出されただけで入門した覚えはないんですが」
「公爵家へ来た時点で似たようなものです」
暴論だと思う。
だが反論して門前で立ち往生するのも嫌なので、私は大人しく従った。
通されたのは正面客間ではなく、東棟の執務室だった。
実務の匂いがする部屋で少し安心する。棚、机、地図、封緘箱。豪奢ではあるが、少なくとも何に使う場所かがわかる。
「お待ちください」
アルヴァンが告げる。
告げた直後、待つ必要もなく扉が開いた。
エレノア・ヴァルシエが入ってくる。
夜会のときの華やかさはない。
淡い青の昼衣に、装飾も最小限。それでも、この部屋の空気が一段整ったように見えるのだからたいしたものだ。
「ようこそ、アシュレイ」
穏やかな声だった。
「歓迎されるような心当たりがあまりないんですが」
「そう? 私は大歓迎よ」
怖い。
朝から非常に怖い。
私は一礼した。
「文書局より参りました」
「ええ、知っているわ」
「形式です」
「堅いのね」
「こういうときだけは」
彼女は少しだけ目を細めた。
機嫌が悪いわけではなさそうだ。たぶん。できればそうであってほしい。
「座って」
「私がですか」
「他に誰がいるの」
たしかにいない。
アルヴァンは壁際に下がっている。逃げ道は薄い。
私は勧められるまま椅子に座る。座り心地が良すぎて腹が立つ。高い椅子は敵だと思う。
「改めて、よく来てくれたわ」
「来る以外の選択肢がなかったもので」
「その言い方、私が脅したみたいじゃない」
「違うんですか」
「さて、どうかしら」
やはり怖い。しかも、喋り方も夜会の時とは違い、なんだか砕けている気もする。
エレノア嬢は机上の数冊の帳面を示した。
「あなたにお願いする仕事は三つよ」
「もう決まってるんですね」
「もちろん」
頼もしいな、と少しだけ思う。敵に回したくはないが。
「一つ。夜会前後一月分の贈答記録の整理」
「はい」
「二つ。屋敷と王宮を行き来した使用人の出入り確認」
「はい」
「三つ」
彼女はそこでほんの少し間を置いた。
「私の周囲にいた人間の中で、誰がどの派閥と繋がっているかの洗い出し」
私は思わず顔を上げた。
「……それを私に?」
「あなた、そういうの得意でしょう」
「得意不得意で受けていい仕事には見えませんが」
「今さらでしょう」
昨夜からそればかり言われている気がする。
私は帳面の背表紙を眺めた。
贈答記録、出入り控え、侍女頭提出の人員表。実務としては筋が通っている。危険だが、筋は通っている。
「期間は」
「まず十日」
「延びますか」
「必要なら」
「やっぱり」
エレノア嬢は小さく笑った。
「安心なさい。無期限で囲うつもりは《《まだ》》ないわ」
「“まだ”が大変気になりますね」
「気にしているのなら結構」
いや、結構ではない。
「一つ確認を」
「何かしら」
「私はあくまで記録整理の実務補佐、でよろしいですね」
「ええ」
「公爵家の内政に深入りした、と見なされる立場ではなく」
「少なくとも表向きは」
「やっぱりそこは濁すんですね」
彼女は少しも悪びれない。
「昨夜、あなたが見たものと止めたものを考えれば、今さら完全に外側には戻れないでしょう?」
その言い方は正しい。
正しいのが腹立たしい。
「それに」
エレノア嬢は静かに続けた。
「あなたを文書局へ置いたままにすると、別の誰かが先に拾うわ」
「拾う」
「王太子殿下かもしれない。第二王子派かもしれない。あるいは、昨夜失敗した側」
私は少し黙った。
それは、考えていなかったわけではない。
だが口にされると重さが違う。
「だから先に借りることにしたの」
「ずいぶん率直ですね」
「あなたにはそのほうがいいでしょう」
その通りではある。
美辞麗句で包まれるよりよほどましだ。
「では、私は保護されているんですか」
「ええ」
「監視ではなく」
「両方よ」
即答だった。
私は額を押さえたくなった。
公爵令嬢という人種は、どうしてこうも言葉を飾らずに人を逃がさないのか。
「光栄です」
「そう聞こえないわ」
「実感が追いついていないので」
「そのうち慣れるわ」
「慣れたくないなあ」
そう言うと、彼女は少しだけ微笑んだ。
昨夜より自然な笑みだった。見てはいけないものを見た気がする。
「アシュレイ」
「はい」
「一つだけ先に言っておくわ」
「何でしょう」
「あなたが有能だから連れてきたのは事実。でも、それだけではない」
私は瞬きをした。
それは、予想していなかった言い方だった。
「……と、申しますと」
「放っておくと危ないから」
「それは私がですか、周囲がですか」
「両方よ」
今日二度目だ。
やはりこの人、言葉の逃げ道を作る気がない。
エレノア嬢は帳面を一冊、こちらへ押しやった。
「さあ、働きなさい」
「結局そこに戻るんですね」
「好きでしょう?」
「紙は嫌いじゃありませんが、状況が嫌です」
「なら、紙だけ見ていればいいわ」
「本当にそれで済みます?」
「済ませる努力はする」
それはしない人の台詞なのでは、と思ったが、口には出さないでおいた。命が惜しい。
私は帳面を開く。
最初の頁には、端正な字で日付と品名が並んでいた。
整いすぎている記録ほど、どこかに人の癖が隠れる。そういうものだ。
「……なるほど」
「何かしら」
「初日から景気がいい」
贈答記録の三日前。
同じ宝飾商の名前が、表記揺れを挟んで二度出ている。普通なら気にしない程度の差異。だが、私はこういう小さな揺れを見るために呼ばれたのだろう。
「もう見つけたの?」
「見つけたというほどでは。ただ」
私は頁を指で叩いた。
「この屋敷、思っていたよりだいぶ前から弄られてますね」
エレノア嬢の目が静かに細くなる。
私は小さく息をついた。
ああ。
やっぱり十日では帰れないかもしれない。
嫌な予感というものは、どうしてこう当たるのか。できれば今後は、外れてくれる方向で頑張ってほしい。




