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幕間 公爵令嬢は手放す気がない

* エレノア


 夜会を終えて自室へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。


 侍女たちが髪を解き、ドレスの編み上げを緩め、湯を用意する。

 いつもと同じはずの手順なのに、今夜はどこか輪郭が曖昧だった。


 右の耳はもう飾られていない。

 外された真珠の耳飾りは、今ごろ別室で布に包まれ、誰かの手で調べられているはずだ。


 たった一つの装身具で、これだけの騒ぎになる。

 王都とはそういう場所だと知ってはいたけれど、実際に自分の身へ降りかかると、さすがに愉快ではない。


「お嬢様」


 鏡越しにラナが声をかける。


「湯の支度が整いました」


「ええ」


 私は頷いたものの、すぐには立ち上がらなかった。


 鏡の中の自分は、いつもどおりの顔をしている。

 少なくともそう見える。背筋は伸びているし、表情も乱れていない。夜会の最後まで微笑みを保てたのだから、淑女としては合格なのだろう。


 けれど、内側は少し違った。


 思考が落ち着かない。

 いくつもの出来事があったせいもある。耳飾りの細工、偽の恋文、青の間、記録への追記。どれも軽くはない。普通なら、それだけで一晩中眠れなくてもおかしくない。


 なのに、私の頭に一番残っているのは、そのどれでもなかった。


 アシュレイ。


 下級文官。

 文書局所属。

 妙に軽い口を利いて、妙に状況を見ていて、妙に踏み込みが正確な男。


 公爵令嬢である私が、どうしてそんな名前を繰り返し思い出しているのか、自分でも少し不本意だった。


「お嬢様?」


 ラナが心配そうに呼ぶ。


「……何でもないわ」


 そう答えて立ち上がると、彼女はほっとしたように目を伏せた。

 今夜のことで、侍女たちも相当神経を削ったのだろう。特にミレイユは、自分の不注意が原因だと思い詰めかけていた。


 責める気はない。

 責めるべき相手は別にいる。


 湯殿へ向かう途中、扉が静かに叩かれた。


「お嬢様。アルヴァンでございます」


「入りなさい」


 家令が一礼して入室する。

 夜会の最中と変わらず整った姿だが、さすがに疲労は隠しきれていない。今夜、彼もよく働いた。


「ご報告を」


「ええ」


 私は湯殿へ行くのを後回しにして、長椅子へ腰を下ろす。

 ラナたちは一歩下がった。必要なときにだけ動ける距離だ。そういう訓練を受けている。


「まず、記録庫の件です」


 アルヴァンが言う。


「侍従服を着用していた男は、王太子付きの正式な侍従ではありませんでした。衣装庫から流れたものを使っていたようです」


「名は」


「偽っております。本名はまだ」


「そう」


 予想の範囲内だった。


「下士官のほうは?」


「第二王子派の男爵家からの応援要員に紛れておりました。こちらは身元が取れております」


「簡単ね」


「捨て駒かと」


 私は小さく息をついた。


 そうだろう。

 今夜の工作は巧妙ではあったけれど、最後の追記だけは少し急ぎすぎていた。あれで全体の質が落ちたのは、アシュレイが言っていたとおり、相手が焦ったからだ。


 焦らせたのは、私ではない。

 正確には、私が先に殿下へ出した判断と、その判断を可能にしたアシュレイの働きだ。


「殿下からは」


「今夜の件は内々に処理する、と。ただしベルトラン男爵夫人周辺の贈答と出入りは当面洗われるでしょう」


 男爵夫人の顔を思い出す。

 あのときの、ほんのわずかな目の揺れを。


「表では触れないのね」


「現時点では」


「賢明だわ」


「ええ」


 アルヴァンは一拍置いてから、静かに続けた。


「もう一点。文書局のアシュレイについてです」


 私は表情を変えないよう気をつけた。

 気をつけたはずなのに、アルヴァンは少しだけ目を細めた。気づかれたのかもしれない。長年仕える家令は厄介だ。


「何かしら」


「文書局への照会は済ませました」


「早いわね」


「今夜のうちに必要でしたので」


 さすがである。私が命じるまでもない。


「彼は平民出ではなく、下級貴族の傍流ぼうりゅうです。家はすでに没落に近い状態。本人は王宮勤め以外にまともな後ろ盾を持ちません」


「そう」


「勤務評定は奇妙です」


「奇妙?」


「事務処理は正確、記録照合能力は高い。だが協調性に難あり、と複数の上役が」


 思わず、ほんの少し口元が動いた。


「想像がつくわ」


「つきますな」


 家令も珍しく同意した。


「ただし、その“協調性に難あり”の注記をしている上役のうち二名は、過去に不正な出納処理で異動しております」


 私は顔を上げた。


「……なるほど」


「彼が直接告発した証拠はありません。ですが、前後関係があまりに出来すぎている」


「面白い人ね」


 そう言ってから、自分の声が少し柔らかかったことに気づいた。

 アルヴァンはもちろん聞き逃さない。


「お嬢様」


「何かしら」


「申し上げにくいのですが」


「言いなさい」


「今夜の件で、あの男を近くに置きたいとお考えですか」


 まっすぐな問いだった。


 私はすぐには答えなかった。

 近くに置きたい。そう言ってしまえば早い。だが、その理由をどう言語化するかが少し難しい。


 役に立つから。

 それは確かだ。


 有能だから。

 それもある。


 けれど、それだけではない。


 あの男は、自分がどれほど危うい橋を渡ったのか、まるで大ごとだと思っていない。

 公爵令嬢の醜聞を未然に止め、偽の恋文を暴き、記録への追記まで現場で押さえておいて、感想が「帰りたい」で済む人間を、私は他に知らない。


 その鈍さが危うい。

 危ういから、目の届くところに置きたい。


「ええ」


 私はようやく答えた。


「置くつもりよ」


 アルヴァンが静かに目を伏せる。


「理由を伺っても」


「役に立つから」


「それだけでしょうか」


「家令にしては踏み込みが深いわね」


「お嬢様のご判断が今後に関わりますので」


 忠実で結構。

 忠実すぎて少し厄介だけれど。


「……あの方、自分を軽く扱いすぎるのよ」


 気づけば、そう口にしていた。


「今夜だって、本来なら公爵家にも王太子殿下にも目をつけられかねない立場で動いた。それを理解していないわけではないのでしょうけれど、理解したうえで、あまり重く受け取っていない」


「それは」


「危ういでしょう?」


 アルヴァンは黙った。


 たぶん、肯定なのだろう。


「役に立つ人材は失いたくありません」


 私は言葉を継いだ。


「それに、今夜の件が表へ漏れなくても、裏では必ず誰かが彼を嗅ぎつけるわ。使えると思う者も、邪魔だと思う者も」


「はい」


「なら先に囲うべきよ」


 囲う。


 その言葉を口にした瞬間、妙にしっくり来た。

 私はそこで初めて、自分の中にある感情の輪郭を少しだけ理解した。


 恩義だけではない。

 興味だけでもない。

 もっと現実的で、もっと利己的なものだ。


 手放したくない。


 まだ今は、それだけだ。

 それだけのはずなのに、ひどく重い。


「文書局には、正式な出向依頼を」


 アルヴァンが確認する。


「ええ。父には私から話すわ」


「理由は何と」


「外郭記録の整理。今夜の件で、しばらく王都周辺の贈答と出入りを見直す必要がある、と」


「通りますな」


「通すのよ」


「承知いたしました」


 それで会話は終わるはずだった。


 けれどアルヴァンは一礼したあと、少しだけ躊躇して言った。


「もう一つだけ」


「何」


「……あの男に、どこまで自由をお与えになるおつもりですか」


 私は少し考えた。


 自由。

 その言葉が妙に引っかかる。


 彼にはたぶん、放っておくと勝手に面倒へ首を突っ込む癖がある。

 しかも本人はそれを、“たまたま”とか“寝覚めが悪いから”程度に処理している。そういう人間に自由を与えるのは、刃物を持たせて往来へ出すようなものだ。


「ほどほどに」


 そう答えると、アルヴァンは珍しくわずかに困った顔をした。


「お嬢様、その“ほどほど”が一番危ういのです」


「知っているわ」


 知っている。

 知っているけれど、全部を縛る気にもなれなかった。


 それができる相手なら、こんなふうに気にかけはしない。


 アルヴァンが下がり、扉が閉まる。


 部屋に静けさが戻ると、ラナが控えめに言った。


「……お嬢様は、あの方をお信じになるのですね」


「信じる、というのは少し違うわ」


「では?」


 私は鏡台の前に立ち、自分の右耳にそっと触れた。

 飾りのない耳朶は軽い。軽いのに、そこにまだ何か残っている気がする。


「信じるかどうかではなく」


 言葉を選びながら、私は続けた。


「見ておかなければいけないの」


「危ない方だからですか」


「ええ」


 それは事実だ。


「……そして、手放したら二度とこちらの手に戻らない気がするから」


 ラナは何も言わなかった。

 賢い侍女は、主の言葉の中にある危ういものを見つけても、すぐには口にしない。


 私はようやく湯殿へ向かった。


 湯に肩まで浸かって目を閉じると、今夜の音と光がやっと遠ざかる。

 けれど、一つだけ遠ざからないものがあった。


 記録庫で、捕らえられた男を前にしても、あの人はいつもどおりの顔をしていた。

 少し疲れたように。

 少しうんざりしたように。

 それでも紙を見て、状況を見て、必要なことを言う顔。


 ああいう顔をする人を、私は知らない。


「帰りたい」


 湯の中で呟いてみる。

 あの人は、たしかそう言っていた。


 何度も。

 まるで本気のように。


 けれど本当に帰りたいだけの人間は、公爵令嬢の耳飾りなんて止めない。偽の恋文も暴かない。記録庫で待ち伏せなどもしない。


 だからきっと、あの言葉は半分だけ本当だ。


 帰りたい。

 でも帰れない。

 帰らない。


 そういう人だ。


 湯の表面に指先で円を描きながら、私は静かに息を吐いた。


「……逃がさないわ、アシュレイ」


 誰に聞かせるでもない、小さな声だった。


 恋ではない。

 まだその名を与えるには早い。


 けれど少なくとも私はもう、今夜以前のようには戻れない。

 彼の名を知る前の私へは、たぶん。


 耳飾りの針は抜けた。

 偽の恋文も露見せずに済んだ。

 なのに、もっと厄介なものが静かに残っている。


 その正体を、私はまだ知らない。


 知らないままでいいとも思わなかった。

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