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第6話 下級文官は逃げきれない

 公爵令嬢の視界に入るところにいろ、という命令は、思っていたより息が詰まる。


 いや、命令ではなく保護だと本人は言っていた。

 だが高位貴族の保護というものは、だいたい檻と同じ構造でできている。素材が上等なだけだ。


 私は広間の柱際、絶妙に目立たず、しかしエレノア嬢からはちゃんと見える位置に立っていた。

 逃げる気はない。ないが、逃げ道くらいは確保しておきたい。そういう慎ましい願いさえ、この夜会はあまり尊重してくれないらしい。


「お前、すごいところに立たされてるな」


 いつの間にか戻ってきたベルナールが、小声で言った。


「私もそう思う」


「どうするんだ」


「どうもしない。今は見られている」


「誰に」


「全方向から」


 ベルナールが嫌そうに周囲を見た。


 たしかに広間では何事も起きていない顔が保たれていた。だが“何かがあったらしい”という空気まで消せているわけではない。王太子に直接報告が入り、公爵令嬢が一度控室へ下がり、臨時の家令補佐らしき下級文官が近くをうろついている。


 勘のいい人間なら、それだけで十分だ。


「で、次は」


「記録を書き足したやつを炙る」


「どうやって」


「紙で」


「いつも通りで嫌になるな」


 私は柱の陰から、少し離れた位置に立つ若い侍従へ視線をやった。

 右袖の青糸のほつれは、さすがにもう直していた。用心深い。だが、直したこと自体が後ろ暗さの証拠になる。


「ベルナール」


「何だ」


「記録庫へ戻って、ドミニク殿に伝えてくれ」


「内容は」


「出入り補助記録の仮綴じを、本帳へ移すふりをして別の机に置いてくれと」


「ふり?」


「本当に移す必要はない。位置だけ変えればいい」


「それで?」


「相手がもう一度触りに来る」


 ベルナールは露骨に顔をしかめた。


「お前なあ。さっきも泳がせるって言ってたが、今度は餌まで撒くのか」


「手間を惜しむ犯人は、二度目で雑になる」


「その理屈、経験則だろ」


「だいたいの仕事は経験則でできてるよ」


「王宮の嫌な部分だな」


 ほんとうにそう思う。


 ベルナールが動いたのを見送って、私は視線を戻す。

 エレノア嬢は今、伯爵夫人と談笑していた。姿勢は美しく、笑みは完璧で、さっきまで偽の恋文で政敵に刺されかけていた人間とは思えない。


 だが彼女は、会話の合間に一度だけこちらを見た。


 確認だ。

 逃げていないか、勝手に動いていないか、その両方。


 私は小さく頭を下げる。

 すると彼女は何事もなかったように、また会話へ戻った。


 ……怖いな、と改めて思う。

 ああいうふうに自然に人を視界へ入れ続けられる人間は、たいてい手放す気がない。


「顔が曇っておりますよ、アシュレイ殿」


 不意にかけられた声に、私は振り向いた。


 例の若い侍従だった。

 近くで見ると整った顔立ちだが、整いすぎていて印象が薄い。こういう人間は意図してそうしている場合がある。


「夜会は不慣れなもので」


「文書局の方には骨が折れる場でしょう」


「ええ。たいへん華やかで、たいへん胃に悪い」


「はは」


 笑う。

 笑うが、目元はほとんど動かない。癖になっている作り笑いだ。


「先ほどは記録庫へ」


「ええ」


「何か問題でも?」


「紙はいつでも問題だらけですよ」


「抽象的ですね」


「具体的にすると誰かの顔色が悪くなりますので」


 侍従の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


「私の顔色は良好に見えますが」


「それは何より」


 私は穏やかに返した。

 こういう相手は、こっちが“知っている”とはっきり示すと引くか切るかのどちらかに寄る。まだここでは決めさせたくない。


「ところで」


 侍従が続ける。


「今夜の件、ずいぶん深く関わっておられるご様子で」


「巻き込まれているだけですよ」


「それにしては落ち着いている」


「諦めが早いだけです」


「美徳ですか」


「文書局では」


 相手が一瞬黙る。

 会話の主導権を取りに来ているが、こちらの手触りが読めずにいる顔だ。悪くない。


「お名前を伺っても?」


 私が尋ねると、侍従はきれいに一礼した。


「オスカーと申します」


 やはり偽名かな、と思った。

 思ったが、今ここで指摘する意味はない。


「それはどうも、オスカー殿」


「ええ。ではまた」


 彼は滑るように去っていった。

 嫌な歩き方だった。足音が残らない人間は信用ならない。


「おい」


 戻ってきたベルナールが、さっそく小声で言う。


「今の誰だ」


「袖を直した侍従」


「やっぱりか」


「で、どうだった」


「ドミニク殿は乗ってくれた。『若いのが悪い顔をしているときは、だいたい紙で釣れる』だと」


「あの人、好きだな」


「あと」


 ベルナールは少しだけ声を落とす。


「記録庫前の下士官、王太子付きじゃない。第二王子派の男爵家から応援で入ってたやつだ」


「へえ」


 想像よりずっと近いな、と思った。


 つまり、耳飾り。恋文。青の間。そして記録庫。

 別々に見えて、やはり同じ線だ。


「押さえられそうか」


「下士官はともかく、侍従のほうはまだ弱い」


「だろうな」


 現場で捕まえるしかない。


 私は広間の時計を見上げた。

 七つ鐘まで、あと少し。夜会の気も緩み始める時間帯だ。人が油断し、仕事が雑になり、犯人がもう一度動くにはちょうどいい。


 そのとき、広間の外縁を巡っていたエレノア嬢が、何気ない足取りのままこちらへ近づいてきた。

 ただの移動に見える。見えるが、進路があまりにも正確だ。


「アシュレイ」


「はい」


「何か見つけたの」


「まだ尻尾の先くらいです」


「その言い方だと、見つけるつもりなのね」


「願望としては早く帰りたいんですが」


「却下します」


「本日何度目でしょう」


「数える余裕があるのなら、まだ働けるわね」


 相変わらず容赦がない。


 だが彼女はそのまま通り過ぎず、半歩だけ距離を詰めた。

 会話の形を取ってはいるが、端から見れば公爵令嬢が下級の事務手伝いに指示を与えているようにしか見えない。上手い。こういうところが本当に上手い。


「一つ、お願いがあるのだけれど」


「嫌な予感しかしませんね」


「今から十分ほど、わたくしの姿が広間から見えなくなっても慌てないこと」


 私は瞬きをした。


「それは慌てるなというほうが無理では」


「理由を聞いてから慌てなさい」


「どうぞ」


「男爵夫人の側近の女が、先ほどから何度もこちらを見ているの。だから少しだけ、期待を持たせることにしたわ」


 なるほど。

 囮だ。


「まさか本当に青の間へ?」


「行きません。ですが“行くかもしれない”と思わせる導線は作る」


「ずいぶん攻めますね」


「先に攻められたもの」


 それはそうだ。


 私は少しだけ考え、頷いた。


「では私は記録庫を見ます。相手が二手に分かれていれば、どちらかが動く」


「ええ。それでいいわ」


「ただし」


「何かしら」


「お一人では動かないでください」


 言った瞬間、自分で少しだけ驚いた。

 身分を考えれば、私が言うべきことではない。だが彼女はもう一度狙われている可能性がある。


 エレノア嬢は一瞬だけ目を細め、それから静かに言った。


「……案外、命令口調がお似合いなのね」


「失礼しました」


「いいえ。今夜だけは許してあげる」


 そう言って彼女は離れた。

 その横顔が少しだけ柔らかく見えたのは、灯りのせいだと思いたい。


「お前」


 ベルナールが呆れた声を出す。


「今、公爵令嬢に何言った」


「一人で行動しないようにと」


「木っ端文官の口から出ていい台詞じゃないんだよなあ」


「私もそう思う」


「思っててやるのが一番怖い。じゃ、先に行っとくぞ」


 もっともなことを言ったベルナールが、視界から離れていく。


 私も広間を離れ、記録庫へ急いだ。


 廊下は静かだった。

 夜会の喧騒が背後へ遠ざかると、逆に足音がやけに大きく聞こえる。こういう時間帯は嫌いではない。紙の仕事は、だいたい静かなところで決着がつく。


 記録庫の扉は半開きだった。


 中に灯り。

 それも一つではなく、二つ。


 私は足を止め、扉の隙間から覗く。


 いた。


 中央机の前に、若い侍従――オスカー。

 その手が、仮綴じの束へ伸びている。


 そしてもう一人。

 下士官服の男が、扉の内側に立って見張っていた。


 綺麗だな、と思った。

 雑ではあるが、綺麗な現行犯だ。


 私は扉を押し開けた。


「ずいぶん熱心な閲覧ですね」


 侍従が振り向く。

 その一瞬、顔から笑みが消えた。ようやく本音の表情を見た気がする。


「文書局の方こそ」


「私は紙の番人ですから」


 下士官が一歩前に出る。


「ここは立入制限だ」


「そうですね。だからこそ、無関係な方は困る」


「誰に向かって」


「少なくとも、今紙に触れている方ではないですね」


 私は侍従の指先を見た。


 仮綴じの欄外に、まだ乾いていないインク。

 もう十分だった。


「その続きを書かれる前に、やめていただけますか」


 侍従の目が細くなる。


「何のことやら」


「とぼけるには、筆が新しすぎます。まだインクも乾いていない」


 私は一歩中へ入った。


「さっきの追記もあなたでしょう、オスカー殿。いや、その名が本当ならですが」


 下士官の肩がわずかに動く。

 逃がす気だな、とわかった。


 同時に、記録庫の奥から別の声が響いた。


「その先はおすすめしませんな」


 ドミニク殿だった。

 棚の陰から出てくる。後ろにはベルナールまでいる。やるな、と思った。思ったよりずっと。


 侍従の顔色が変わる。

 待たれていたと気づいた顔だ。


 私は視線を仮綴じの欄外へ向けながら言う。


「記録庫に手を入れるなら、もう少し紙に敬意を払うべきです。あなた、線の終わりが少しだけ若い」


「……ただの下級文官が」


「ええ。たかが紙を見るだけの」


 そのとき、廊下からさらに足音が近づいた。

 王太子付きの本物の侍従が二名。後ろにはヴァルシエ家の家令アルヴァンもいる。


 逃げ道は塞がった。


 若い侍従――いや、侍従の服を着た男は、小さく舌打ちした。

 それだけで十分だった。少なくとも潔白ではない。


 アルヴァンが冷たく言う。


「手を離せ」


 男は抵抗しなかった。

 というより、抵抗できないと悟ったのだろう。賢明だ。ここで暴れれば、ただの工作では済まない。


 王太子付き侍従が、机上の仮綴じと筆記具を確認する。


「……現行犯ですね」


「ええ」


 私は肩の力を抜いた。


「紙は静かに燃える、と申し上げたかったんですが、今日はずいぶん騒がしく捕まりました」


 ベルナールが横でぼそりと言う。


「そういうとこだぞ」


「どこだろうな」


「全部だよ」


 私は返しかけて、ふと扉の向こうを見た。


 廊下の灯りの下に、エレノア嬢が立っていた。


 囮のつもりで一度姿を消したのだろうに、結局ここまで来たらしい。

 侍女を一人だけ伴い、静かな顔でこちらを見ている。


 その視線が、最初に会ったときよりもずっとはっきり私を捉えていた。


「……公爵令嬢」


「上出来ね、アシュレイ」


 穏やかな声だった。

 穏やかで、そのくせ妙に逃げ場のない響きだった。


「できれば“上出来”で片づけてほしくない案件なんですが」


「そうかしら」


 彼女はごく自然に記録庫へ入り、机上の追記を見て、捕らえられた男を見て、それから私へ戻る。


「少なくとも今夜、あなたがいなければ、わたくしはもっと面倒なことになっていたわ」


「それはどうも」


「礼を言っているの」


「はい。まだ少し信じきれていませんが」


 すると彼女は、ほんのわずかに笑った。


「なら、信じられる形にしてあげる」


 嫌な予感がした。


「その言い方は大抵よくない方向へ転びますね」


「安心なさい」


 エレノア嬢は静かに告げる。


「今夜以降しばらく、あなたをヴァルシエ家の外郭がいかく記録担当として借ります」


 私は数秒、本気で黙った。


 ベルナールが横でむせる。

 アルヴァン家令でさえ、一瞬だけ目を見開いた。


「……今、何と」


「言葉どおりよ。父にはわたくしから話を通します。文書局にも正式に」


「待ってください」


「待ちません」


「私の意思は」


「聞いていません」


「でしょうね!」


 珍しく大きめの声が出た。


 ドミニク殿が棚の陰で肩を震わせている。あの人、今ちょっと笑ったな。


 エレノア嬢は少しも揺るがない。


「あなた、自分を過小評価しすぎよ」


「それはよく言われますが、たぶん今回に関しては正当です」


「いいえ」


 きっぱりと言い切る。


「あなたは、わたくしの耳飾りを止めて、偽の恋文を暴いて、記録への追記まで捕まえたの」


「巻き込まれただけです」


「その巻き込まれ方が異常なのよ」


 それはもう、私にも反論できない。


 彼女は一歩だけ近づいた。

 華やかな広間ではなく、紙と灯りの匂いがする記録庫の中で。そんな場所なのに、不思議と彼女だけは場違いに見えない。


「だから、逃がしません」


 静かな声だった。


 怒っているわけでも、脅しているわけでもない。

 ただ事実を述べているだけの声音だった。


 それが一番困る。


「……保護、でしたっけ」


「ええ」


「監視ではなく?」


「さて、どうかしら」


 そう言って、エレノア嬢はほんの少しだけ目を細めた。


 その表情を見たとき、私はなんとなく理解した。

 今夜、耳飾りの針も、恋文も、記録の追記も全部どうにかなった。だが、その代わりに別の何かが始まってしまったらしい。


 もっと静かで。

 もっと厄介で。

 たぶん今後、じわじわと首を絞める類のものが。


 私は深く息をつく。


「……帰りたい」


 するとベルナールが即座に言った。


「無理だな」


 ドミニク殿が続ける。


「無理ですな」


 アルヴァン家令まで、低く付け足した。


「無理でしょう」


 最後に、エレノア嬢が微笑む。


「ええ、無理よ。アシュレイ」


 四対一は卑怯ではないだろうか。

 少なくとも下級文官に対しては。


 夜会の音楽は、遠くでまだ続いている。

 けれど私の今夜は、そこでようやく終わった気がした。


 そしてたぶん、もっと面倒なものが始まった。

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