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第5話 公爵令嬢は覚えてしまった

* エレノア


 王都の夜会では、微笑みは鎧だ。


 表情を崩さず、声を乱さず、視線の高さを変えない。

 そうしていれば、たいていのことは“何も起きていない”顔でやり過ごせる。少なくとも、そう教えられて育った。


 だから私は今も、王太子殿下への挨拶を終えたあと、何事もなかったように次の相手へ微笑みかけている。


 耳飾りの箱から偽の恋文が出てきたことも。

 右の真珠にだけ細工が施されていたことも。

 それを最初に見抜いたのが、名も知らなかった下級文官だったことも。


 すべて一度、胸の内へ沈めて。


「少し、お顔色が優れませんわね。ヴァルシエ様」


 柔らかな声でそう言ったのは、ラディア侯爵夫人だった。


 悪意のない顔をしている。

 けれど本当に悪意がないのなら、夜会のさなかに高位令嬢の顔色などわざわざ口にしない。王都では、気遣いの形をした探りなど珍しくもない。


「そう見えまして?」


「ええ、ほんの少しだけ」


「それはいけませんね。気をつけますわ」


 私が笑うと、夫人も笑った。

 その場はそれで終わる。終わるけれど、こうして小さな針のような言葉が幾つも刺さるのが夜会というものだ。


 つい先ほどまで、本物の針が耳飾りに仕込まれていたというのだから、今日は皮肉がよく利いている。


 私は次の会話へ移りながら、視界の端で広間の流れを追った。

 ヴァルシエ家の家令アルヴァンは、平静を装ったまま動いている。侍女たちも持ち直した。王太子殿下の側も、今のところは静かだ。


 けれど、静かであることと安全であることは違う。


 それを今夜、私は嫌というほど思い知った。


 右の耳飾りだけ外せと進言した文官――アシュレイ。

 彼の名を、私はもう覚えてしまっている。


 覚える必要などないはずの名前だった。

 高位貴族の娘として生きていれば、下級文官の名など、よほど実務で関わらぬ限り記憶に留めることはない。そういう距離で世界はできている。


 なのに私は、彼の名を思い出せる。

 声の調子も、あの奇妙に気の抜けた受け答えも、一緒に。


「お嬢様」


 侍女のラナが、頃合いを見て近づいてきた。


「例の方が、戻られました」


「そう」


 私は会話の切れ目を作り、自然な足取りで広間脇の小控室へ下がる。

 誰が見ても、少し疲れた令嬢が一息つきに行くだけの動きだろう。


 扉が閉まると同時に、張りつめていた空気が少しだけ変わった。


 室内にはアルヴァン。

 そして、その隣にアシュレイが立っている。


 相変わらず、あまり緊張しているようには見えない。

 いいえ、実際には緊張しているのかもしれない。ただ、それを外へ出すのが下手なのではなく、出さないことに慣れているように見えた。


「呼び立ててしまってごめんなさい」


 そう言うと、彼は少し目を丸くした。


「いえ。まだ働けという意味であれば想定の範囲内です」


「謝罪に対する返答としては、あまり美しくありませんね」


「文書局仕込みなもので」


 相変わらず妙な男だ。


 私は椅子に腰を下ろし、正面から彼を見る。


「何か見つけたのでしょう」


「見つけた、というより、増えました」


「増えた?」


「記録です」


 彼はアルヴァンへ一礼してから続けた。


「出入り補助記録に、侍女が青の間へ私的移動した、という追記が差し込まれています」


 ラナが息を呑み、ミレイユは顔色を失った。

 私は驚きを顔へ出さないよう努めながら、問い返す。


「偽の記録だと、なぜわかるの」


「さきほど広間で見た時点では存在しなかったからです」


「それだけ?」


「それだけでも十分ですが、書き足しの筆が少し若い。宮廷の正式な書記にしては線の終わりが落ち着きません」


 彼はさらりと言う。

 まるで、今日の献立に塩が足りない、とでも評するような口調で。


 私は少しだけ唖然とした。


 この男は、いったいどこまで見ているのだろう。

 耳飾りの違和感。箱の内張り。紙の折り筋。記録への追記。

 目立たないことに定評がある、などと本人は言っていたけれど、ここまで来ると目立たないどころではない。


「しかも」


 アシュレイは続ける。


「記録庫へ私を呼びに来た侍従の右袖に、青い糸のほつれがありました」


 アルヴァンの眼差しが鋭くなる。


「ミレイユが申していた特徴と一致しますな」


「ええ。ただし、本人が“下働き”そのものかはわかりません。替えの上着かもしれないし、仲間内で回したのかもしれない」


「では黒に近い灰色、といったところか」


「そのくらいです」


 灰色。

 その曖昧さが、逆に現実味を帯びていた。

 この場で断定しない人間は信用できる。王都ではときどき、そういう逆説がある。


「お嬢様」


 アルヴァンが私を見る。


「今夜のうちに、侍女が青の間へ向かったという噂を作るつもりだったのでしょう。恋文と合わせて、証拠の体裁を整えるつもりだったと考えられます」


「ええ。そうでしょうね」


 私がそう答えると、ミレイユが小さく震えた。

 自分の名が汚されかけていたと理解したのだろう。


「泣くのはまだ早いわ」


 私は侍女へ告げる。


「あなたの名が使われたのなら、使った側に返すだけです」


「……はい」


 自分でも、思ったより冷たい声が出たと思う。

 けれど、ここで優しさを見せるのは後回しでいい。


 沈黙のあと、私はアシュレイへ視線を戻した。


「あなたは、次に何をするつもり?」


「まず、その追記を残します」


「消さないの」


「今消すと、相手に“効いた”と教えることになります」


 私は頷いた。納得はできる。


「その代わり、誰がそれを書き足せる位置にいたかを絞る」


「絞れるの?」


「たぶん」


「曖昧ね」


「そういう仕事ですので」


 彼は少し肩をすくめた。


「紙は、燃えたときより、書き足されたときのほうが尻尾を出します」


 奇妙な言い回しだった。

 けれど、不思議と頭に残る。


 私はその顔を見つめる。

 整っているわけではない。華やかでもない。王宮にはもっと見目のいい男などいくらでもいる。

 なのに、視線を外しにくい。


 この人は私を、公爵令嬢として見ていない。

 見ていない、というのも違う。

 正確には、見たうえで、その外側にある“起きかけていること”ばかりを見ている。


 それが妙に新鮮で、少しだけ腹立たしかった。


「一つ聞いてもよろしいかしら」


「私に答えられることなら」


「なぜ、そこまで働くの」


 問いかけた瞬間、アルヴァンがわずかにこちらを見た。

 侍女たちも息を潜める。場違いな質問だと思ったのかもしれない。


 けれど私は聞きたかった。


 恩を売るためでもなく。

 出世のためでもなく。

 私へ取り入るためでもないらしいこの男が、どうしてここまで動くのか。


 アシュレイは少しだけ考え、それから言った。


「放っておくと、後味が悪いので」


「それだけ?」


「あと、目の前で面倒なことになると、その後もっと働く羽目になります」


 私は思わず瞬いた。


 そう来るの。

 もっともらしい忠誠でも、美しい献身でもなく、第一に出てくるのがそれなの。


「……あなた、本当に失礼な方ね」


「たまに言われます」


「たまにではないでしょう」


「頻度の問題なら否定しません」


 ラナが、ほんの少しだけ顔を伏せた。

 笑いを堪えたのかもしれない。侍女としては不出来だが、気持ちはわからないでもない。


 私は息をついた。


「つまり、あなたは私を助けたいのではなく、厄介ごとを未然に潰したいだけだと?」


「半分くらいは」


「残りの半分は?」


 彼はそこで、ほんのわずかに視線を逸らした。


「……寝覚めが悪いので」


 前にも聞いた答えだった。

 けれどさっきより、少しだけ本音に近く聞こえた。


 私は指先を組み、しばらく考える。


 この男は、大仰なことを言わない。

 言わないまま、必要なことだけをやる。

 それがかえって質が悪い。こちらは感謝の置き場に困るし、借りを借りのままにしておくことにも慣れていない。


 だからだろうか。


 気づけば私は、もっとこの人のことを知りたいと思っていた。


 何が見えているのか。

 どこまで気づいているのか。

 どうしてそんな顔で、それだけのことを平然とやってのけるのか。


 その興味が、決して無害なものではないと、私はまだ自覚していなかった。


「お嬢様」


 アルヴァンが静かに言う。


「間もなく次のご挨拶です」


「ええ」


 私は立ち上がる。


 するとアシュレイが、いかにも嫌そうな顔で一歩引いた。


「では私はこれで、記録のほうへ」


「却下します」


「即答ですね」


「あなたが一人で動くと、ろくなことにならない気がするもの」


「ひどい評価だ」


「事実でしょう?」


「否定はしにくいですね」


 彼はあっさり認めた。

 それがまた少しおかしい。


「今夜のあいだは、わたくしの視界に入るところにいなさい」


「それはまた、ずいぶんと不自由な」


「保護です」


「監視の間違いでは」


「さて、どうかしら」


 そう答えると、彼は困ったように眉を下げた。

 やはりこの男は、顔に出ないようでいて、妙なところだけ素直だ。


 私は扉へ向かう。

 侍女たちが続き、アルヴァンが後ろにつく。

 そのさらに少し後ろで、アシュレイの足音が一つ、遅れて重なった。


 なぜだろう。


 その音を聞いたとき、私は少しだけ安堵してしまった。


 今夜だけの臨時の家令補佐。

 名も地位も取るに足らない、木っ端文官。

 本来なら気に留める必要もない相手。


 なのに、その足音が離れることを、私はもう好ましく思えなくなっている。


 扉が開く。

 光と音楽と、王都の社交が戻ってくる。


 私はいつもどおりの微笑を作った。

 作れたはずなのに、胸の奥には先ほどまでなかったものが残っていた。


 たぶん、これは恋ではない。

 そんな安易な言葉で片づくほど軽いものでもない。


 ただ、確かに何かが引っかかっている。


 耳飾りの針よりも、もっと静かで。

 もっと深く、抜きにくいものが。


 ――アシュレイ。


 私はその名を、もう一度だけ心の中で呼んだ。


 忘れないように。

 いいえ、たぶんもう、忘れられない。

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