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第4話 帳簿は静かに燃える

 王宮の記録というものは、基本的に地味だ。


 地味で、重くて、面倒で、だいたい誰からも愛されない。

 だが、いざ何かが起きたとき最後に人を刺すのは、たいてい剣ではなく紙である。


 そして私は、その紙側の人間だった。


「人の顔を見るなり嫌そうな顔をするのはやめてくれ、ベルナール」


「お前が“記録を潰す”とか言い出した直後だからな」


「それはたしかに嫌だな」


「自覚はあるのか」


「ありますとも。しかもたぶん当たる」


 王太子の前を辞してすぐ、私はベルナールを連れて夜会脇の事務卓へ戻っていた。

 広間の華やかさから数歩離れただけで、そこには見慣れた紙と木箱と苦労の匂いがある。落ち着く。いや、状況は落ち着かないが、空気としては落ち着く。


 机の上には、夜会用の控えが三種。


 招待客名簿。

 贈答受領控え。

 出入りの補助記録。


 どれも本記録ではない。だが、今夜みたいな場では十分に人を殺せる。


「どれが危ない」


 ベルナールが声を潜めて言う。


「全部」


「言い方ってものがあるだろ」


「正確さを優先した」


 私はまず、贈答受領控えを開いた。

 今夜エレノア嬢のもとへ届いた品、その受け取り時刻、受け取った使用人の名、持ち込んだ者の署名。そういうものが簡略に記されている。


 そして、あった。


「……へえ」


「何だよ」


「ベルトラン男爵夫人名義の手入れ布。受領時刻が妙だ」


「妙って?」


「夕刻六つ鐘ちょうど。広間準備の切り替えと重なる」


 王宮の夜会では、会場準備の節目ごとに人の流れが雑になる。

 花器が運ばれ、灯りが調整され、女官や侍従が入れ替わる。つまり、物を紛れ込ませるにはちょうどいい。


「受け取ったのは?」


「補助係の臨時使用人……とあるな」


「名前は」


「書いてない」


 ベルナールが顔をしかめた。


「おい、それ、記録としてどうなんだ」


「どうもこうも不備だよ。不備だが、夜会の臨時卓だとたまにある」


「たまにで済ませるな」


「私だって済ませたくない」


 私は欄の端に残った筆圧を指でなぞった。

 名前を書こうとして、途中でやめた跡がある。雑に線で潰されている。急いでいたのか、あるいは急がされたのか。


「ここ、元は何か書いてある」


「読めるのか」


「薄い」


「薄いじゃなくて」


「努力目標としては読める寄りだ」


 私は机の脇の小灯を少し傾け、紙を斜めから見た。

 こういうとき、筆圧は裏切らない。人間は平気で嘘をつくが、筆先の迷いは割と正直だ。


「……“マ”」


「マ?」


「次がたぶん“ル”。最後は潰れてる」


「マル……女か?」


「使用人名だけでは何とも」


 そこまで言って、私は顔を上げた。


 広間の端を、夜会係の下働きらしい少女が二人、小走りで過ぎていく。白いエプロン、灰色のスカート、まとめた髪。ありふれていて、記憶に残りにくい格好だ。


 ああいうのが一番困る。


 目立たない人間は、王宮では大抵二種類に分かれる。

 本当にただの雑務係か、見えないまま何かするのが上手いやつか。


「ベルナール」


「何だ」


「さっきの控室の侍女、ミレイユの話にあった“女官長室の下働き”の特徴、聞き出せるか」


「髪色とか背格好とかか」


「それと声。歩き方。盆を持っていたか。袖口の色。何でもいい」


「何でそんな細かく」


「偽物は顔より服を真似る。慣れてないと、動きに出る」


 ベルナールは一瞬だけ嫌そうな顔をしたあと、すぐ頷いた。


「わかった。お前は?」


「本記録庫」


「だろうな」


 さすが同期、理解が早い。


「ただし一人では行くなよ」


「私を何だと思ってる」


「自分から危険な紙の山に突っ込む文官」


「だいたい合ってるな」


「合ってるのが嫌なんだよ。巻き込まれる俺の身にもなれ」


 そう言いつつ、ベルナールはもう動いていた。真面目な男は本当に助かる。たまには給金に反映されてほしい。思いだけは本物だ。


 私は贈答受領控えを持ち、記録庫へ向かう。


 王宮の本記録庫は広間から二つ廊下を折れた先、夜会の喧騒がほんの少しだけ遠のく場所にある。石壁が厚く、灯りは控えめで、紙の匂いがする。正直、広間のど真ん中よりよほど落ち着く。


 ただし今夜に限っては、その落ち着きが少々わざとらしかった。


 扉の前に、本来いないはずの男が立っていたからだ。


 侍従でも書記官でもなく、夜会警備の下士官。

 槍は持っていないが、目が仕事の目をしている。


「止まれ」


「文書局です」


「名を」


「アシュレイ」


「用件は」


「夜会関係の補助記録照合」


 男は私の顔を見て、それから手元の控え札へ目を落とした。

 妙だ。記録庫の前で人を止めること自体はおかしくない。だが、夜会の最中に下士官がここへ置かれるのは少し早すぎる。


「誰の指示だ」


「今は王太子付き侍従の口頭指示と考えていただければ」


「曖昧だな」


「王宮の現場はだいたいそんなものです」


 下士官が眉をひそめる。

 気持ちはわかる。


 そこへ、扉の向こうから年配の声がした。


「入れ」


 記録庫付きの老書記官、ドミニク殿だった。

 ありがたい。あの人は紙にしか興味がないので、地位の上下より記録の正しさを優先する。


 私は一礼して中へ入った。

 下士官は聞こえない程度に舌打ちをした。やましいことがあると言っているようなものだ。


 記録庫は静かだった。

 壁際の棚に、夜会ごとの控えや本帳、封緘箱が並ぶ。中央机の上には、今夜すでに提出された分の仮綴じが置かれていた。


「騒がしい夜ですな」


 ドミニク殿がぼそりと言う。


「広間のほうがですか、それとも書類のほうがですか」


「両方です」


「それは重畳」


「よくない意味で、でしょう」


 この人とは話しやすい。

 必要以上に優しくはないが、紙の話が通じる。


「誰か、ここへ来ましたか」


「来た」


「誰が」


「王太子付きの若い侍従が一人。そのあと、夜会雑務の下働きが一人」


「下働き?」


「灯油の補充とやらで」


 私は顔をしかめた。


「記録庫に?」


「私もおかしいとは思いました。断りましたよ」


「それはどうも」


「ただ、その娘」


 ドミニク殿は顎を撫でる。


「ずいぶん慣れていた。灯りではなく、綴じ紐の箱の場所を先に見た」


 やはり黒い。


 私は机上の仮綴じへ視線を移した。

 綴じ紐の箱はその横。封緘蝋も置かれている。記録そのものを盗むのは難しいが、綴じ替えや差し込みなら十分可能だ。


「何か触られましたか」


「私が見ている間は何も」


「見ている間は、ですか」


「人間、瞬きくらいはします」


 それもそうだ。


 私は仮綴じを一つずつめくった。

 招待客名簿、贈答控え、出入り補助記録。どれも見た目には普通だ。だが、普通に見えるものほど面倒なことが多い。


 手を止めたのは、出入り補助記録だった。


「……ああ」


 嫌な声が出た。


「何です」


「追記がある」


 欄外。

 本来なら侍従補が後で整理するための空白に、細い字で一行だけ書き足されている。


 ――ヴァルシエ公爵令嬢付き侍女、青の間へ私的移動


 雑だ。

 そして、ひどくよくできている。


 正式な記録ではない。だが、後から「当夜そういう動きがあった」と言い張るには十分な“種”になる。しかも令嬢本人ではなく侍女を使っているのが嫌らしい。本人が動いた証拠はなくとも、“密会の遣い”に見せられる。


「増えてますね」


 ドミニク殿が低く言った。


「ええ。最悪な方向に」


「元から?」


「いえ。さっき広間で見た控えにはなかった」


 つまり誰かが、つい先ほど差し込んだ。


 私は紙を灯りへ傾けた。

 筆跡は整えてあるが、急いでいる。線の終わりが少しだけ跳ねている。宮廷育ちの書記ではない。真似は上手いが、習いが浅い。


「消せますか」


 ドミニク殿が問う。


「消すだけなら」


「だけなら?」


「今消すと、“なぜ消した”になります」


 私は欄外の追記を指で示した。


「これを書いた相手は、たぶん後で『記録にも残っております』と言いたいんです。なら、こちらは残した上で、いつ差し込まれたかを押さえるべきです」


「面倒ですな」


「紙はたいてい面倒です」


 私は棚の上から、提出時刻控えを引っ張り出した。

 仮綴じの束がいつ、誰の手で、記録庫へ渡されたかを記す控えだ。地味だが強い。こういうときだけ急に光る。


 あった。


 出入り補助記録の提出は、六つ鐘二刻。

 受け取ったのはドミニク殿本人。


「その後、誰が触りました」


「私と、さっきの若い侍従だけです」


「下働きは」


「触らせていません」


「侍従は」


「見ただけだと言っていたが、紙の端を持った」


 十分だな、と思った。


 そのとき、廊下の向こうから急いだ足音が近づいてきた。

 ベルナールだった。珍しく本気で走ったらしい。


「アシュレイ」


「どうした」


「特徴が取れた」


 肩で息をしながら、彼は言う。


「ミレイユが見た“下働き”、髪は栗色。声は低め。右の袖口に青い糸のほつれ」


「他には」


「盆は持ってない。なのに、運ぶような歩き方をしてたって」


 私は頷いた。


「つまり普段は何かを持ち歩く側の人間だ」


「使用人じゃなく?」


「少なくとも、ただの下働きではない」


 そこでベルナールが、机上の出入り補助記録に気づいた。


「……何だこれ」


「相手の次の手」


「消すか?」


「まだ」


「まだって、お前」


「泳がせる」


 ベルナールは嫌そうな顔をした。


「また面倒なこと考えてるだろ」


「考えてる」


「やめろよって言って効くか?」


「効かない」


「だろうな」


 話が早い。


 私は追記の位置と筆圧をざっと頭へ入れてから、紙を元の場所に戻した。


「ベルナール、頼みがある」


「またか」


「さっきの若い侍従の名、取ってこい」


「王太子付きの?」


「うん。あと、記録庫前の下士官が誰の指示で立ってるかも」


「それ、俺が聞いて答えると思うか?」


「お前は真面目だから、相手が油断する」


「褒めてないよな、それ」


「褒めてる」


 ベルナールは深いため息をついたが、結局また動いた。

 ほんとうに良い同期である。いつか埋め合わせしたい。昇進以外で。


 ドミニク殿がこちらを見る。


「若いの」


「はい」


「顔が楽しそうです」


「気のせいです」


「そういう顔で紙を触る者は、だいたいろくでもない」


「よく言われます」


「でしょうな」


 否定はしない。


 記録は、燃やされるとは限らない。

 静かに一行足されるだけで十分なこともある。今日のこれは、まさにその類だった。


 ならこちらも、燃えた痕跡ではなく“足された痕跡”で首を絞める。


 私は仮綴じの隣に置かれた封緘蝋を見た。

 まだ固まっていない赤が灯りを返している。


「……なるほど」


「何かわかりましたか」


「相手、焦ってますね」


「なぜ」


「本来なら本帳へ移されてから混ぜるほうが自然です。わざわざ仮綴じの段階で差し込んだのは、今夜中に話を作りたかったからだ」


 つまり、王太子の前で公爵令嬢の嫌疑を潰されたせいで、急いで別の“裏付け”を作りに来た。


 焦りはありがたい。

 焦った人間は、たいてい紙の端に癖を残す。


 廊下で、また足音が止まる。


 今度はベルナールではなかった。

 扉の外から、抑えた声がする。


「文書局のアシュレイ殿は、こちらに?」


 侍従の声だ。

 若い。おそらく今話に出た本人か、そうでなければ同類。


 ドミニク殿が目を上げる。


「知り合いですか」


「できれば違っていてほしい相手です」


 私は小さく息を吐き、扉へ向き直った。


「何か御用で」


 返ってきた声は丁寧だった。


「ヴァルシエ公爵令嬢より。至急、お戻りいただきたいとのことです」


 エレノア嬢からの呼び戻し。

 しかも至急。


 嫌な予感が、また一段階育つ。


「理由は」


「公には申し上げかねます」


 つまり、人前では言えない類の問題だ。


 私はドミニク殿へ一礼した。


「この仮綴じ、誰にも触らせないでください」


「命令口調ですな」


「お願いです」


「そのくらいはわかります」


 助かる。


 私はベルナールの不在を少しだけ惜しみつつ、扉へ向かった。

 開けると、そこに立っていたのは見覚えのない若い侍従だった。整った顔、整った礼、整いすぎていて逆に印象に残らない。


 そういう人間もまた、王宮には多い。


「案内いたします」


「どうも」


 私は一歩踏み出しかけて、ふと止まった。


 侍従の袖口。

 右にだけ、ごく細い青糸のほつれがあった。


 ……ああ、なるほど。


 私は顔には出さず、心の中でだけ嘆息した。

 犯人そのものではないにせよ、少なくとも同じ線の上にはいる。


「どうかされましたか」


 侍従が問う。


「いえ」


 私はにこりともせず答えた。


「少し、帰りたくなっただけです」


 もちろん、帰れる気はまったくしなかった。

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