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第3話 公爵令嬢は先手を打つ

 王太子の前に出る、というだけで人はだいたいろくな顔をしなくなる。


 緊張するか、取り繕うか、媚びるか。

 どれもしないで済むのは、よほど図太い人間か、最初から失うものがない人間だけだ。


 私は後者寄りだが、それでもできれば遠慮したかった。


「顔色が悪いわね、アシュレイ」


 広間へ戻る前、控室の扉の前でエレノア嬢が言った。


「名誉なことに胃が働いております」


「便利な言い回しですこと」


「不調を上品に表現するとこうなります」


「上品かしら」


「王宮基準ではかなり頑張っています」


 彼女は呆れたように息をつき、それからすぐに社交用の微笑を整えた。

 数分前まで細工付きの耳飾りと偽の恋文を見ていた人間とは思えない切り替えの早さである。高位貴族は心臓の作りが違うのかもしれない。


「確認します」


 家令アルヴァンが低い声で言った。


「お嬢様が殿下へ不審物の存在をご報告なさる。私は横で補足する。アシュレイ殿は、問われたときだけ答えること」


「たいへん助かる指示です」


「余計なことも言わぬことだ」


「善処します」


「その言い方は信用ならん」


「よく言われます」


 家令の眉間の皺が深くなった。

 最近、周囲の人間の表情筋に負担をかけすぎている気がする。反省はたまにする。


 エレノア嬢がちらりとこちらを見る。


「あなた、本当に緊張しているの?」


「していますよ」


「見えないわ」


「震えは内臓のほうで処理しています」


「器用なのね」


「不本意です」


 彼女の口元がほんの少しだけ動いた。

 笑ったのかどうかはわからない。わからないほうが平和なので、深く考えないことにする。


 広間へ戻ると、空気は先ほどよりも一段張りつめていた。


 音楽は続いている。人々も笑っている。

 だが王太子の周囲だけ、あからさまに密度が違う。派閥の中心とはそういうものだ。近づけば笑顔のまま息苦しくなる。


 エレノア嬢が進む。

 その半歩後ろに家令。

 さらに少し離れて私とベルナール。私は臨時の家令補佐扱い、ベルナールは文書局の雑務で通すらしい。気の毒な巻き込まれ方だが、同期というものはそういうものである。


「お前、あとで埋め合わせしろよ」


 ベルナールが小声で言う。


「酒でいいか」


「昇進で頼む」


「難易度が高すぎるな。自分でさえ難しいのに」


「じゃあせめて減給は避けろ」


「努力はする」


「だからその言い方がだな」


 そこで会話は切れた。

 王太子の側近らしい侍従が、こちらへ気づいたからだ。


 侍従は一礼し、公爵令嬢へ進み出る。


「ヴァルシエ公爵令嬢。殿下がお待ちです」


「ええ。ただ、その前にご報告すべきことがございます」


 侍従の目がわずかに動いた。

 この場で予定外の言葉を聞く顔だ。


「ご報告、と申されますと」


「不審物が、わたくしの装身具の箱に紛れ込んでおりました」


 周囲の空気が、音もなく変わる。


 大きなざわめきにはならない。

 ならないが、近くにいた貴族たちの視線が一斉にこちらを窺ったのがわかった。王宮とはそういう場所だ。耳は飾りで、目だけがやたらと機敏である。


 侍従は訓練された顔で表情を保ったまま、ただ声だけを少し低くした。


「……殿下へ、直接?」


「ええ。隠す類のものではございませんので」


 上手い。


 この言い回しだけで、隠し事ではないという姿勢を先に押し出した。

 相手に“何を隠していたのか”と考えさせる前に、“隠していない”という形を作る。実にお上品で、実に強い。


 侍従は短く一礼した。


「承ります。こちらへ」


 王太子は広間の奥、春季夜会のために設えられた半円形の壇の前にいた。まだ若いが、すでに“立つだけで周囲が気を遣う人間”の完成形に近い。柔和そうに見えるのに、目だけがきちんと王族だった。


 側には数名の上位貴族。

 その中に、先ほど話に出た第二王子派の男爵夫人の姿もある。


 厄介だな、と私は思った。

 だが厄介ごとが消えてくれるなら、私はそもそもこんな仕事をしていない。


 エレノア嬢が優雅に礼を取る。


「殿下。お時間を割いていただき、恐れ入ります」


「構わない。ヴァルシエ嬢から報告があると聞いた」


 王太子の声は穏やかだった。

 穏やかで、逃げ道を消す類の穏やかさだ。高貴な人間はどうしてこう、柔らかい声音で人を詰めるのが上手いのか。


「はい」


 エレノア嬢は少しも怯まず、白布で包まれた紙片を家令から受け取った。


「今宵の装身具の箱から、不審な文が見つかりました。わたくしの名誉に関わる可能性があるため、伏せるよりも先に、殿下へお預けするべきと判断いたしました」


 上手い。

 名誉に関わると自分で言っておけば、あとから暴かれた形にはならない。痛みはあるが、致命傷を避けられる。


 王太子が紙を受け取る。

 横に控えた侍従が灯りを寄せ、文面を確かめた。


 沈黙は短かった。


「……これは」


 王太子は表情を変えなかった。

 ただ、その周囲の空気が冷えた。


「殿下には伏せてある。君の真珠が合図だ、か」


 小さく読み上げられた文言に、近くの貴族たちが息を潜める。

 ざわめきは広がらない。広げないよう、皆が必死なのだろう。こういうときの上流階級は実に行儀がいい。


 第二王子派の男爵夫人が、いかにも驚いた風に目を見開いた。


「まあ……なんと悪質な」


 棒読みというほどではない。

 だが私は、ああいう驚き方を信用しないことにしている。だいたい何か知っている人間の顔だからだ。


 王太子がエレノア嬢を見る。


「そなたは、これに心当たりが?」


「ございません」


「真珠の耳飾りは」


「右にのみ細工がされておりました。発覚前に確認できたのは幸運でした」


「誰が見つけた」


 来た。


 私は心の中で深く嘆息する。

 問われたときだけ答えろ、という家令の指示は正しかった。だが問われたので仕方がない。


 エレノア嬢が、ほんの少しだけ首を巡らせた。


「こちらの者です」


 侍従の視線が、私へ向く。

 下級文官が王太子の視界に入る瞬間というものは、できれば一生のうち一度で足りる。


 私は進み出て礼を取った。


「文書局所属、アシュレイと申します」


「そなたが?」


 王太子の問いは短い。


「恐れながら」


「どうして不審に思った」


「記載と細工の差異が見えました」


「記載?」


 そこでアルヴァン家令が一歩出た。


「装身具管理の記録に基づき、照合いたしました。右のみ形状に差がございました」


 助かる。

 家令が補強してくれると、私の胡散臭さが少しだけ薄れる。ほんの少しだが。


「なるほど」


 王太子は紙片を侍従へ渡した。


「他には」


 今度の問いは、エレノア嬢ではなく、家令と私の両方へ向いていた。


 家令が口を開く。


「贈答品の中に、装身具用手入れ布がございました。また、耳飾りの保管箱の内張りに、この文が隠されておりました」


「箱にも細工が?」


「はい」


 侍従の一人が何かを書き留める。

 ああいう筆の速さを見ると、少し親近感が湧く。立場はまるで違うが。


「手入れ布の差出人は」


 王太子が問う。


 家令が答えるより早く、男爵夫人が口を挟んだ。


「あら、それでしたらベルトラン夫人では? 先ほどわたくしもその話を――」


「そなたには聞いてない」


 王太子が静かに遮った。


 声量は変わらない。

 だが一瞬で場が凍る。上に立つ人間の遮り方だった。


 男爵夫人が口を噤む。

 上品な顔で引き下がっているが、目だけは明らかに不満そうだ。よくある。


 王太子はもう一度、家令を見る。


「続けよ」


「……差出人はベルトラン男爵夫人名義です」


「名義、か」


「はい。実物と記録のどちらが正しいかは、まだ確かめておりません」


 私は内心で少しだけ感心した。

 アルヴァン家令は厳しいが、慎重だ。断定を急がない。こういう人がいる家は簡単には崩れない。


 王太子はしばらく考えるように沈黙し、それからエレノア嬢へ向き直った。


「よく先に持ち出したな」


「隠したと見なされるほうが不利益でしたので」


「そうだな」


 短く頷く。

 それだけだが、公爵令嬢側の一手が正しかったと、この場で王太子自身が認めた形になる。大きい。


 周囲の空気が微妙に変わった。

 今この瞬間、これは“公爵令嬢の密会疑惑”ではなく、“公爵令嬢を狙った工作事件”として扱われ始めたのだ。


 大きな差である。

 そしてその差ひとつで、人は修道院送りにも無罪放免にもなる。宮廷とは恐ろしい。


「侍従」


「は」


「青の間を封じろ。今夜の出入りを記した者も全て押さえる」


「承知いたしました」


「それから」


 王太子の目が、今度は私へ向いた。


「アシュレイといったな」


「はい」


「そなたは今夜、この件の記録補助につけ」


 嫌な予感はしていた。

 していたが、やはり現実になると胃にくる。


「恐れながら、私は文書局の下級文官にすぎません」


「だからだ」


 王太子はあっさり言う。


「派閥の色が薄い者のほうがよい場合もある」


 その理屈はわかる。

 わかるが、巻き込まれる側としてはまったく嬉しくない。


「光栄です」


「嬉しそうに見えぬな」


「内心では飛び上がっております」


 その場の何人かが、息を止めた気配がした。

 しまった。今のは少し軽すぎたかもしれない。


 だが王太子は、ほんのわずかに口元を動かした。


「そうか。なら働け」


「承知いたしました」


 どうやら打ち首は免れたらしい。

 基準が低いな、と我ながら思うが、王宮での生存確認は大事だ。


 話が一段落したところで、男爵夫人が慎重に声を挟む。


「殿下、わたくしからも一言よろしいでしょうか」


「簡潔に」


「もちろんでございます。今夜は公爵令嬢への正式なご打診があると、方々で噂になっております。もしこのような紙がその前に出回れば、殿下のお立場にも――」


「だからこそ、先にこちらへ出された」


 王太子が言う。


「その点で、ヴァルシエ嬢の判断に落ち度はない」


 男爵夫人が押し黙る。


 強い。

 やはり王族は、味方するときも敵に回すときも強い。


 エレノア嬢は深く礼を取った。


「ご寛恕かんじょに感謝いたします」


「まだ感謝される段階ではない。今夜はむしろ、こちらの管理の不備だ」


「お言葉、痛み入ります」


 このへんの応酬は綺麗だ。

 まったく感情が見えない。見えないが、その実、互いに盤上の駒を一つずつ正しい位置へ戻している。見ていて少しだけ楽しい。巻き込まれなければもっと楽しかっただろう。


 そこへ、青い顔のベルナールが人混みの外側から視線だけを寄越してきた。

 嫌な顔だった。つまり嫌な報せである。


 私は家令の許可を視線で求め、わずかに頷かれたのを見て下がる。


「どうした」


「一つ良くない話と、もう一つさらに良くない話がある」


「今日は景気がいいな」


「よくないほうでな」


 ベルナールは声を潜めた。


「青の間の出入り、すでに一人いなくなってる」


「誰だ」


「宝飾商ギルド長の息子」


 やはりそこか。


「もう一つは」


「その男の従者が、さっき厨房口から出ようとして止められた」


「持ち物は」


「小さな木箱。内張りつき」


 私は一瞬だけ目を閉じた。

 実にわかりやすい。わかりやすすぎて、逆に囮の可能性まで出てくるくらいにはわかりやすい。


「……参ったな」


「だろうな」


「私としては定時を超えたくないんだが」


「もう三回くらい超えてる気がするぞ」


「王宮に労務管理を導入してほしい」


「その前に今夜を生き延びろ」


 もっともだった。


 顔を上げると、少し離れた位置でエレノア嬢がこちらを見ていた。

 微笑は崩していない。だが目だけで、何かあったのだと問うている。


 察しのいい人は怖い。

 しかもその人が高位貴族だと、怖さに実害がつく。


 私は小さく息を吐き、再びその輪の中へ戻った。


「殿下」


 王太子が視線を寄越す。


「何だ」


「追加で、耳飾りの流れに関わったかもしれない者が出ました」


「誰だ」


「宝飾商ギルド長の息子、その従者です」


 場の空気がまた一段階冷える。


 男爵夫人の目が、ごくわずかに泳いだ。

 ほんの一瞬だけだ。見間違いかもしれない。だがこういう“かもしれない”は、王宮ではだいたい当たる。


 王太子が侍従へ命じる。


「押さえろ。だが表立てるな」


「は」


「広間の空気を壊すな。今宵はまだ終わっていない」


 侍従たちが音もなく散る。

 訓練されている。見事なものだ。うちの文書局にも少し分けてほしい。


「ヴァルシエ嬢」


 王太子が言う。


「予定どおり、今宵の挨拶は続ける」


「承知いたしました」


「そなたが下がれば、相手の思う壺だ」


「ええ」


 エレノア嬢は一点の揺らぎもなく頷いた。


「わたくしは、何事もなかったように振る舞います」


「それでよい」


 その言葉で、ひとまずこの場の処理は終わった。


 だが、終わったのはあくまで“表向き”だけだ。

 裏では誰かが走り、誰かが捕まり、誰かが口を封じられようとしている。夜会というのは、踊るための場であると同時に、そういうものでもある。


 王太子の前を辞して下がる途中、エレノア嬢が小さく言った。


「アシュレイ」


「はい」


「あなた、少し役に立ちすぎではなくて?」


「不本意です」


「こちらは助かっているのだけれど」


「それは光栄ですが、たぶん後で疲れます」


「もう疲れているように見えるわ」


「ええ、主に胃が」


「では、それが潰れない程度には働きなさい」


「無茶を仰る」


 すると彼女は、ほんの少しだけ笑った。

 今度こそ、たぶん気のせいではない。


「安心なさい」


 青い瞳が、静かに私を捉える。


「少なくとも今夜、あなたを無駄死にさせるつもりはないわ」


「それはたいへんありがたいんですが」


「何かしら」


「公爵令嬢の庇護というのは、あまり軽く受け取っていいものではない気がします」


「その通りよ」


 やはり怖い。


 広間の音楽がまた変わる。

 人々は笑い、グラスを傾け、夜会は何事もなく続いていく。


 けれど、その綺麗な表面の下で、もう盤面は完全にひっくり返っていた。


 偽の恋文は先に出された。

 耳飾りの細工も潰れた。

 青の間は封じられ、宝飾商の従者は押さえに向かわれている。


 つまり相手は、次の手を打つしかない。


 私は人混みの向こう、男爵夫人の白い扇を見た。

 その開き方が、さっきより少しだけ浅い。緊張している人間の手つきだった。


 ああ、なるほど。


 まだ終わらない。

 終わるどころか、ようやく本番に入るところらしい。


「ベルナール」


「何だよ」


「悪い予感が更新された」


「聞きたくない」


「賢明だな」


「でも言うんだろ」


「言う」


 私は小さく息をついた。


「次はたぶん、人じゃなくて記録のほうを潰しに来る」


 ベルナールの顔色が変わる。


 その反応だけで十分だった。

 相手が恋文を仕込み、耳飾りをすり替え、青の間に誘導するような手合いなら、失敗した証拠を消すために次に狙うのは、だいたい帳簿か名簿か記録類である。


 そしてそういうものは、たいてい私の担当だ。


 ……本当に、帰りたい。

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