第2話 耳飾りと偽の恋文
公爵家の家令というものは、たいてい人間の顔をした鉄扉である。
少なくとも、ヴァルシエ家の家令はそうだった。
名をアルヴァンというらしいその男は、小控室に呼ばれた私を一瞥しただけで、
「誰だ、この身の程知らずは」
という感想を、眉一つ動かさずに表現してみせた。職人芸だと思う。
「文書局のアシュレイと申します」
「存じませんな」
「それは光栄です。こちらも先ほど初めてお顔を拝見しました」
隣でベルナールが小さく息を呑んだ。
やめろ、その反応は私が失言したみたいに聞こえる。
アルヴァン家令の視線が少しだけ冷たくなる。
「軽口を叩く立場にあると?」
「ありません」
「結構」
公爵令嬢エレノア嬢が、静かに口を開いた。
「アルヴァン、この方には今夜だけ臨時で動いていただきます。わたくしの指示です」
鉄扉のような家令が、ほんのわずかに眉を動かした。
それだけで十分だった。驚いているらしい。
「お嬢様。しかし」
「耳飾りを見つけたのはこの方です」
「……事情は伺いました。ですが、だからこそなおさら、素性の知れぬ下級文官を近くへ置くべきではありません」
正論である。
私もそう思う。できれば遠くに置いてほしい。机と紙の間くらいが理想だ。
「素性なら文書局でわかることです」
エレノア嬢は淡々と言った。
「少なくとも、今夜この場で最初に役に立ったのはこの方です」
家令は黙る。
言い返したいが言えない顔だ。よくわかる。私も上司相手にたまにそうなる。
「……承知いたしました」
不承不承、と顔に書いてあった。
好感が持てる。無理に好かれようとしない人は信用できる。
「で、私は何を見ればよろしいでしょう」
話を進めようとすると、家令がいっそう胡散臭いものを見る目をした。
「何を見れば、ではない。まず貴殿には、口を慎むことを覚えていただきたい」
「努力します」
「結果を出してから言いなさい」
「はい」
ベルナールが横で顔を覆った。
最近あいつ、私に対する諦めが早くなってきた気がする。
エレノア嬢は白布に包まれた耳飾りを見下ろしながら言った。
「今夜わたくしの装いに関わった者の一覧、それから贈答品の記録を」
「すでに集めております」
「アシュレイに見せて」
家令は数秒ほど本気で嫌そうな間を置いたあと、ようやく書付を差し出してきた。
紙は上等、筆跡は整っている。腹立たしいほど仕事のできる字だ。
私は一覧に目を落とした。
装いに関わったのは、侍女二名、衣装係一名、宝飾保管係一名。
贈答品は今夜の夜会に先立ち、昼から夕刻にかけて複数到着。花、菓子、リボン、香油、そして装身具用の手入れ布。
私は眉を寄せた。
「手入れ布?」
アルヴァン家令が答える。
「王都の高位令嬢には珍しくもない贈答です。装身具そのものではなく、手入れ用品や収納箱を贈る者もおります」
「差出人は」
「ベルトラン男爵夫人」
聞き覚えのある名だった。
第二王子派に近い、という程度には。
「……妙ですね」
「何がです」
家令の声は相変わらず硬い。
「真珠の耳飾りが家蔵品なら、手入れは普段使い慣れた侍女がするはずです。贈られた布を今夜わざわざ使う理由は薄い」
「使ったとは限らん」
「ええ。使われたかったのかもしれません」
室内が少しだけ静かになる。
エレノア嬢がこちらを見た。
「続けて」
「贈答は物そのものより、物を受け取らせる口実になります。布、箱、飾り紐。小さくて、持ち込みやすく、別の物とすり替えやすい」
私は書付を一枚裏返した。
「今夜の耳飾りの箱は、誰が最後に触りました」
侍女の一人、先ほど青ざめていたミレイユが震える声で答えた。
「……わたくしです」
「保管庫から出したあと、すぐ公爵令嬢の控室へ?」
「はい」
「その途中で、誰かに止められた?」
「いいえ……ただ、一度だけ」
ミレイユは記憶を辿るように目を伏せた。
「女官長室の下働きだと言う娘に、裾のほつれがあると伝えられました。ドレスの裾です。わたくしは耳飾りの箱を一度、化粧卓に置いて……ほんの少し目を離して」
「顔は覚えていますか」
「申し訳ありません……」
「いや、責めているわけでは」
「責めております」
アルヴァン家令が冷たく言った。
ミレイユの肩がびくりと震える。
あまり優しい職場ではないらしい。公爵家だから当然か。
私は咳払いした。
「責めるのは後でもできます。先に確認を」
家令がこちらを見る。
とても不本意そうだが、否定はされなかった。進歩である。
「その“下働き”は、本当に女官長室付きでしたか」
今度は女官長補佐であるマルティナ殿が答えた。
「今夜、私のところからそのような者は出していません」
なるほど。だいぶ黒い。
「裾のほつれは?」
「ありませんでした」
ミレイユが小さく俯いた。完全に誘導されたわけだ。
私は白布に包まれた耳飾りへ視線を戻す。
片方だけの細工。短時間のすり替え。狙いは公の場での発覚か、あるいは本人の流血。
そこまで考えて、ひとつ嫌な想像が繋がった。
「……箱は」
「何です」
「今夜、耳飾りの箱そのものはありますか」
家令が侍女へ目配せする。
もう一人の侍女、ラナがすぐに小箱を持ってきた。白木に青い内張り。上等だが、家蔵品としては少し新しい。
私は手を伸ばしかけて止めた。
「触っても?」
「勝手に触れぬことですな」
家令の返事は早かった。
ですよね。
「失礼しました。では、開いていただけますか」
ラナが箱を開く。
左右一対を収める形の窪みがある。右の窪みだけ、わずかに布が浮いていた。
「そこです」
「……何が」
「たぶん、内張りが二重です」
家令が無言になる。
ラナが恐る恐る布の端をめくると、その下から薄く折りたたまれた紙片が現れた。
誰もすぐには動かなかった。
私もしたくなかった。
こういうとき、紙から出てくるものはだいたいろくでもない。
やがてエレノア嬢が言う。
「開けて」
家令が手袋をはめ、紙片を広げる。
短い文面だった。
――今宵、青の間にて。
――約束どおり、殿下には伏せてある。
――君の真珠が合図だ。
沈黙が落ちた。
ベルナールが小さく呟く。
「うわ」
気持ちはわかる。
私も似た感想だった。
内容は露骨ではない。だが最悪に十分だ。
これが耳飾りの箱から出てきたとなれば、公爵令嬢が誰かと密会の約束をしていたように見せられる。しかも“殿下には伏せてある”とある以上、王太子への不実を匂わせるには充分すぎる。
針仕掛けは補助。
本命はこっちか。
広間で耳飾りに異変が起きる。
侍女が慌てて箱を開ける。
中からこの紙が出る。
その場に王太子付きの侍従か、都合のいい目撃者でもいれば――話は完成する。
「雑ですけれど、効きますね」
思わず本音が漏れた。
エレノア嬢の目が細くなる。
「雑?」
「筆跡も文面も、あえて曖昧です。誰が差出人でも通るようにしてある。否定しても、“では誰と会うつもりだったのか”に話をずらせる」
「なるほど」
「令嬢本人が否定するほど、“必死に隠したがっている”ようにも見える」
家令の顔色が変わった。
ようやく全体像が見えたのだろう。
「……悪質ですな」
「ええ。宮廷らしくて結構です」
「感心している場合か」
ベルナールの突っ込みはもっともだった。
エレノア嬢は手紙を見下ろしたまま、静かに問うた。
「アシュレイ。あなたは、これが誰の仕業だと思うの」
「現時点では、少なくとも一人ではありません」
「理由は」
「耳飾りのすり替え、控室周辺の誘導、家令の呼び出し、縁談の噂。複数の導線が同時に動いています。準備も早い」
私は紙の折り目を見た。
「それに、この紙は急いで入れられたものではない。折り筋が深い。かなり前から用意されていたはずです」
「つまり、今夜わたくしがここで失敗する前提で?」
「そういうことになります」
ミレイユが青ざめたまま囁く。
「お嬢様……申し訳ございません……」
「今は謝罪より記憶です」
エレノア嬢の声は厳しく、だがよく通った。
「その娘の背格好、髪の色、声、何でもいいから思い出しなさい」
「は、はい……」
いい主だな、と少し思った。
責めるだけの人間ならここまで綺麗には収まらない。
ミレイユは必死に頭を悩ませた様子で、ようやく一言呟いた。
「あ、青の間。青の間へ向かうところは見ました」
私は小さく首を傾げる。そして一つ思い出す。
「青の間、ですか」
「ご存じ?」
エレノア嬢が問う。
「夜会で人目を避けたい連中がよく使う小広間です。便利なんですよ。出入口が二つあって、片方は回廊につながっている」
「詳しいですこと」
「王宮勤務が長いと、嫌でも」
正確には、書類を届けに行く途中でやたら逢引きの気配に遭遇するだけだ。
知りたくて知ったわけではない。
家令が腕を組む。
「では、犯人はそこへ誘い出すつもりだった?」
「あるいは、すでに“誘われていた”ことにするつもりだったか」
私は手紙を顎で示した。
「この文面だと、実際に誰かが行かなくても、紙が見つかった時点で十分です」
「……なるほど」
家令はようやく、少しだけ私を見る目を改めた。
ほんの少しだけだが。贅沢は言うまい。
そのとき、扉の向こうでまた足音がした。
ベルナールがすぐ反応する。
「誰だ」
「王太子付き侍従より、ヴァルシエ公爵令嬢へお声がけの時刻を早めるとのこと」
外から聞こえたのは、知らない男の声だった。
室内の全員が止まる。
家令が低く呟いた。
「早すぎる……」
「ええ」
エレノア嬢は一拍置いて、私を見た。
「アシュレイ」
「はい」
「どうするのが最善かしら」
下級文官に公爵令嬢が意見を求める。
身に余るにも程があるが、ここで身の程を言っている余裕もない。
部屋中の視線を感じながら、私は指を三つ立てた。
「三つあります」
「言って」
「一つ。手紙も耳飾りも、今ここで握り潰して、何もなかったことにする」
「却下」
「二つ。夜会を離脱して病を装う。安全ですが、噂は残ります」
「却下」
「でしょうね」
「三つ目は?」
私は息を吐いた。
「相手が仕掛けた舞台に、逆にこちらから上がる」
「具体的には」
「偽の恋文が出るはずだったなら、出してしまえばいい。ただし、こちらが“最初に”」
家令が目を見開いた。
「正気か」
「半分くらいは」
「半分では足りぬ!」
それは本当にそう。
私は続ける。
「今ここで、お嬢様ご自身が“妙な紙が紛れ込んでいた”と先に王太子側へ報告するんです。隠したあとで見つかるから致命傷になる。先に出せば、ただの不審物になる」
エレノア嬢の目が、静かに鋭くなる。
「わたくし自ら、ですって?」
「はい。密会の証拠は、隠した側が一番怪しい。先に開示した側は、少なくとも主導権を握れます」
「……確かにその方法は面白い」
家令が低く唸る。
「だが、殿下の御前にそんなものを持ち出せば、お嬢様の品位に傷が」
「すでに傷をつけるために作られた紙です」
私は肩をすくめた。
「なら、使い方くらいはこちらで決めたほうがいい」
静寂。
それから、エレノア嬢がゆっくりと微笑んだ。
さっき広間で見せていた社交用の笑みとは少し違う。温かくはないが、よく切れる顔だ。
「本当に、下級文官なのね」
「信じていただけて何よりです」
「気に入らないわ」
「それも光栄です」
「褒めていないと何度言わせるの」
「本日三度目ですね」
ベルナールが天を仰いだ。
すまない。たぶん今夜はまだ増える。
エレノア嬢は立ち上がる。
「アルヴァン。侍従へ伝えて。少し遅れて参ると」
「は」
「そして王太子殿下には、わたくしから直接ご報告する不審物があると」
家令が目を見張る。
「お嬢様」
「先手を打たれたなら、打ち返します」
その言葉は静かだった。
けれど、部屋の空気をきれいに塗り替えるだけの強さがあった。
さすが公爵令嬢。
王都の華は伊達ではないらしい。
私は小さく息をついた。
どうやら今夜は、まだ帰れそうにない。
「アシュレイ」
「はい」
「あなたも来なさい」
「やはりそうなりますか」
「当然でしょう」
「私はできれば物陰で震えていたいんですが」
「却下します」
「本日二度目ですね」
「まだ増えるかもしれません」
たいへん不穏なお言葉だった。
扉の外では、夜会の音楽が変わらず流れている。
だがもう、今夜の主旋律は舞踏ではない。
偽の恋文と、耳飾りの針。
それを誰が置いたのかはまだわからない。
ただ一つ確かなのは、
この公爵令嬢は、黙って傷つく側ではないということだった。
そして私は、そんな人の隣でまた一つ、余計な仕事を抱え込んでしまったらしい。
まったく、定時という概念を王宮にも導入してほしいものである。




