第1話 夜会の耳飾り
夜会というものは、どうにも苦手だ。
煌びやかで、香水が濃くて、笑顔の裏で皆さま平然と人を刺してくる。
剣より礼儀正しいぶん、なお悪い。
宮廷勤めをしていると命の危険より先に胃の不調を覚えるが、その主因はだいたい舞踏会か上司のどちらかである。本日は前者だった。
私は王宮第二広間の脇、入場記録と席次の控えを置いた細机のそばに立っていた。
文書局から駆り出された下級文官らしく、目立たず、邪魔にならず、必要なときだけ存在していればそれでいい。王宮で生き延びるには、だいたいそのくらいがちょうどいい。
もっとも、今夜ばかりはそうもいかなかった。
嫌なものが見えたからだ。
広間の中央。
人々の視線が自然と集まる場所に、公爵令嬢エレノア・ヴァルシエがいた。
深い青のドレスに、真珠の耳飾り。
王都の華と呼ばれるだけあって、遠目にも完成されている。品があって、冷ややかで、隙がない。彼女がそこに立っているだけで、広間の飾りつけまで格が上がったように見えるのだから、上流貴族というのはつくづく便利な生き物だ。
で、その完璧な公爵令嬢の右耳で揺れる真珠に、私の目には赤黒い靄が絡んで見えた。
よろしくない。
たいへんよろしくない。
私の目には、ときどき“兆し”が映る。
煤のような染みだったり、硝子のひびのようなものだったり、相手によって形は違う。ただ一つ共通しているのは、それが見えた先にろくでもないことが起きる、という点だ。
便利かと問われれば、答えは半分だけ肯定になる。
見つけたからといって原因も結末も全部わかるわけではないし、見てしまった以上、放っておくと寝覚めが悪い。結果、私は割に合わない面倒ごとに自分から首を突っ込む羽目になる。
しかも、今夜のそれは、かなり濃かった。
「……帰りたい」
隣で控えの札を並べていた青年が、露骨に嫌そうな顔でこちらを見る。
「始まって早々に言うな、アシュレイ」
「始まったから言うんだよ、ベルナール。まだ手遅れになる前に帰りたい」
「お前のそれは、たいていもう手遅れなんだよ」
ベルナールは文書局の同期である。顔立ちは悪くないのに気苦労で損をしている男で、私の軽口に律儀に付き合ってくれる奇特な人物だった。
彼は私の視線の先を追い、エレノア嬢を認めるなり眉をひそめた。
「まさか」
「まさかだ」
「やめろよ。相手はヴァルシエ公爵家だぞ」
「わかってる」
「その顔はわかってない顔だ」
概ねその通りだった。
公爵令嬢に、下級文官が直接何か言えるわけがない。
話しかけるだけで不敬になりかねないし、まして人前で呼び止めるなど論外である。私が身の程を弁えていないわけではない。今夜の持ち場が壁際の事務机であることにも、ちゃんと納得している。
だが、見えてしまったものは仕方がない。
私は机の上の入場記録を素早く捲った。
招待客名簿、席次補助表、献上品の簡易一覧。夜会では衣装や宝飾も、場合によっては贈答や由来が問題になる。特に今夜は王太子臨席の春季夜会だ。婚約や縁談の空気が濃いぶん、装飾品ひとつで意味が変わる。
エレノア・ヴァルシエ。
装飾記載、真珠耳飾り一対。家蔵品。侍女管理。
私はもう一度広間の中央へ目を向けた。
左の耳飾りは白く澄んで見える。
右だけが濁っている。
「……片方だけか」
「何がだ」
「兆し」
「嫌な言い方するな」
「事実だから仕方ない」
片方だけ。
それなら毒より、すり替えか細工の類だ。
しかも彼女はまもなく王太子へ挨拶する流れにある。この場で問題が表に出れば、公爵令嬢の名誉そのものに傷がつく。
止めるなら、人前でなく、作法の内側で止めるしかない。
「ベルナール」
「嫌な予感しかしない」
「ヴァルシエ家の家令、見えるか」
「奥の柱の横だな」
「呼べ」
「どうやって。俺はただの雑務だぞ」
「文書局から装飾記載の照合が必要になった、と言え」
「そんな権限あるのか」
「今から生やす」
ベルナールが額を押さえた。
「お前、いつか本当に刺されるぞ。主に俺」
「礼儀正しい相手ならまだ助かる」
「助からないよ」
ぼやきながらも、彼は動いた。
持つべきものは真面目な同期である。できればもう少しだけ私に甘い性格だとありがたい。
私は代わりに、広間の導線を見た。
エレノア嬢のすぐ傍には侍女が二人。そのさらに外側に、王宮付きの女官長補佐が立っている。高位令嬢の導線と装いを整える役目の人間だ。あの人なら、私が直接令嬢へ触れずとも動かせる。
もちろん、木っ端文官の言葉をそのまま信じるとは思えない。
だが、信じさせる材料ならある。
私は記録札を一枚抜き、足早に女官長補佐の側へ向かった。
無論、正面からではない。人の流れが途切れた瞬間を狙い、あくまで事務連絡の顔をする。こういうとき、目立たずに近づく技術は役に立つ。
「失礼いたします、マルティナ殿」
女官長補佐が視線だけで私を見る。
年季の入った厳しさを顔に刻んだ女性で、下級文官など書類未満に扱いそうな気配がある。
「どなた」
「文書局のアシュレイです。至急、装飾記載の確認をお願いしたく」
「今、この場で?」
「はい。ヴァルシエ公爵令嬢の右耳飾りのみ、記載と細工が異なって見えます」
彼女の目が細くなった。
「そのようなことを、あなたが見てわかるの」
「書類仕事は細かい違いを拾うのが本分です」
「本分で、公爵令嬢の耳元まで見ていると?」
「不審でしょうが、今はご容赦を。王太子殿下へのご挨拶前に右だけ外していただければ、それで済みます」
「理由は」
「左右対の細工が揃っていません。もし記載違いでなければ、侍女管理品に混入があった可能性があります」
私は声を落とした。
「公の場で発覚すれば、令嬢の恥になります」
それで十分だった。
マルティナ殿は一瞬だけ広間の中央を見やり、すぐに決断した。
こういう人は早い。身分が高いというのは、判断を遅らせていいという意味ではないらしい。
「ここで待ちなさい」
「承知しました」
彼女は何事もない顔でエレノア嬢へ近づき、耳打ちする。
エレノア嬢の表情はほとんど変わらなかった。ただほんのわずかに、青い目の温度が下がったように見えた。
次の瞬間、彼女はごく自然な仕草で微笑み、侍女を伴って広間脇の小控室へと下がる。
表向きは装いの手直し。
完璧な淑女の、完璧な一時退出だった。
私は息を吐いた。
たぶん、これで間に合う。
「お前な」
いつの間にか戻ってきたベルナールが、低い声で言った。
「一応聞くけど、何をやった」
「宮廷の作法に助けてもらった」
「その言い方だと絶対ろくでもない」
「安心しろ。今回はぎりぎり合法だ」
「ぎりぎりな時点で安心できないんだよ」
その台詞が終わるより先に、小控室の前に控えていた侍女が顔色を変えたのが見えた。
ほどなくして、マルティナ殿が戻ってくる。
「アシュレイ」
「はい」
「あなた、こちらへ」
終わった。
そう思った。減給で済めばいい。いや、公爵家案件なら減給で済まないかもしれない。左遷だろうか。地方の記録庫は寒いと聞く。寒いのは嫌いではないが、暖炉の質だけは選びたい。
だが逃げる理由もないので、私は素直に小控室へ向かった。
室内にはエレノア嬢がいた。
右の耳飾りは外され、卓上の白布の上に載っている。表情は相変わらず静かだが、何も知らずに広間に立っていた数分前とは明らかに違った。
布の上の耳飾りの裏から、細い針が覗いていた。
やはり、仕込みだ。
侍女の一人が青ざめた顔で立ち尽くしている。どうやら外す途中で仕掛けがずれたらしい。
もしこのまま王太子への挨拶の最中にでも何か起きていれば、彼女の醜聞か不敬に仕立てられていてもおかしくなかった。
「あなたが見つけたの?」
エレノア嬢が問う。
声は穏やかだった。
穏やかだが、油断すると切れる種類の刃物に似ている。
ひとつ回答を間違えただけで、私の首は如何様にもなるだろう。
「見つけた、というより、細工の違和感に気づいただけです」
「それだけで、女官長補佐を動かしたの」
「人前で申し上げるわけにはいきませんでしたので」
「賢明ですこと」
褒められてはいない。
私は白布の上の耳飾りを見た。
真珠の台座の裏に、ごく小さな仕掛け。毒針というほど大げさなものではなさそうだが、肌を傷つけるには十分だ。流血させて騒ぎを起こすのか、それとも別の細工か。どちらにせよ善意の贈り物ではない。
「これは、家蔵品のはずでしたね」
「ええ」
エレノア嬢が答える。
「少なくとも記録上は」
「記録上、ということは」
「保管庫から出した時点では確かにそうだったのでしょう。けれど途中で入れ替えられた可能性はある」
さすがに察しが早い。
私は少しだけ頭を下げた。
「恐れながら、その可能性が高いかと」
「では質問を変えましょう、アシュレイ。あなたはどうして、右だけだとわかったのかしら」
そこを聞くか。
聞くだろうなとは思っていた。
「……左右の留め具の角度が違って見えました」
「人混みの向こうから?」
「書類仕事は目が悪いと務まりませんので」
「便利な答えですね」
「事実でもあります」
彼女はしばらく私を見た。
見透かそうとする類の視線だった。さすがに居心地が悪い。
「あなた、わたくしに直接声をかけなかったわね」
「かけられる身分ではありません」
「正しい認識です」
「光栄です」
「褒めておりません」
「存じています」
ほんの少しだけ、侍女が顔を上げた。
今のやり取りのどこかに気が抜ける要素でもあったのだろうか。私にはよくわからない。
エレノア嬢は布の上の耳飾りから目を外し、静かに言った。
「今回の件、広間では装いの不調として処理します」
「賢明かと」
「侍女も家令も、そういうことにするでしょう。けれど、その先は別です」
青い瞳がまっすぐこちらを捉える。
「あなたには、少し話を伺う必要があります」
「できれば穏便にお願いしたいところです」
「穏便に済ませた結果が今です」
「返す言葉もありません」
「あるように見えましたけれど」
ある。
だが余計なことを言うと本当に首が飛ぶので、ここは黙っておく。
そのとき、小控室の外から足音が近づいた。ベルナールだ。珍しくノックの音が固い。
「失礼いたします」
「何かしら」
マルティナ殿が応じると、扉の向こうから抑えた声が返る。
「ヴァルシエ家の家令が、王太子付きの侍従に呼ばれました」
室内の空気が変わった。
エレノア嬢の表情は動かない。
だが、侍女たちの指先が強張るのが見えた。
私は小さく息を吐く。
やはり、耳飾りだけでは終わらないらしい。
「理由は」
エレノア嬢が問う。
扉の向こうでベルナールが一拍置いた。
「……今夜、殿下の御前で、縁談に関する打診があるという噂が回っています」
なるほど。
縁談の打診の夜に、公爵令嬢の耳飾りへ細工。偶然にしては出来すぎている。
私が黙っていると、エレノア嬢がこちらを見る。
「アシュレイ」
「はい」
「あなた、どこまでわかっているの」
「正直に申し上げますと、ろくでもないことが起きかけている、という程度です」
「曖昧ですこと」
「下級文官の勘は、だいたい曖昧なものです」
「では、その曖昧な勘に基づいて、次に何をなさるつもり?」
私は少し考えた。
本音を言えば帰りたい。
机に戻って、記録札の陰で気配を消していたい。できれば温い茶も欲しい。
だが、ここまで首を突っ込んでしまった以上、それはもう無理だろう。
「まず、今夜届いた贈答品と、装いに触れた人間の一覧を確認します」
「その後は?」
「誰が、どのタイミングで、右の耳飾りだけを入れ替えられたかを追います」
「追えるの?」
「書類の不整合と、人の嘘なら多少は」
エレノア嬢は黙った。
数秒。
それから、ごく静かに告げる。
「いいでしょう」
「ありがとうございます」
「ただし条件があります」
「嫌な予感しかしませんね」
「今夜のあいだ、あなたは文書局の机に戻らず、ヴァルシエ家の家令補佐として動きなさい」
思わず瞬きをした。
「……ずいぶんと強引では」
「公爵家の臨時の事務手伝いなら、少なくとも人前でわたくしに近づく口実になります」
「近づく予定は極力減らしたいんですが」
「あなたが減らしたいかどうかは聞いていません」
「でしょうね」
「それとも、お嫌かしら」
「嫌というより、身の丈に合わない仕事です」
「今さらです」
ごもっともである。
私は諦めて頭を下げた。
「承知しました、公爵令嬢」
「結構」
彼女はそう言ってから、ほんのわずかに目を細めた。
「それと、アシュレイ」
「はい」
「今夜わたくしを救ったことについて、感謝はまだいたしません」
「賢明です。まだ何も終わっていませんので」
「ええ。ですが」
そこで一度、言葉が切れる。
「少なくともあなたは、愚かではないようですね」
それはたぶん、この人なりにかなり好意的な評価だった。
できれば公爵令嬢の好意的評価など、今後の人生で必要にならないことを願いたい。たいてい碌な方向へ転ばないからだ。
扉の外では、まだ夜会の音楽が続いている。
けれど私にはもう、あれが祝宴の音には聞こえなかった。
今夜の王宮は、どうやら耳飾りひとつで終わるつもりがないらしい。




