第21話 好条件の縁談は、証言の前では鈍くなる
夕方の侯爵家は、朝より静かで、朝より逃げ場がなかった。
書斎へ通された瞬間、私はまず机を見た。
返書はもう端へ退けられている。
代わりに、何も載っていない広い面がきれいに空けられていた。
ああ、と思う。
これはつまり、載せるだけ載せてみろという机だ。
エルムローズ侯爵は、今朝と同じ椅子に座っていた。
だが空気は少し違う。少なくとも今朝のような、“もう半分決めてある顔”ではない。
その代わりにあるのは、計る顔だった。
「一日だと言ったはずだが」
侯爵が言う。
「ええ」
エレノア嬢が答える。
「ですので、日が落ちる前に戻りました」
リディア嬢は侯爵の左手側に立っている。
今朝より顔色はましだ。まだ緊張はしているが、少なくとも目が泳いでいない。
私はそのことに少しだけ安堵した。
「では」
侯爵が私を見る。
「見合うだけのものを出せ」
その一言で、私は持ってきた紙束を机へ置いた。
一つ目。
ロシュフォール宝飾舗の非公式注文控え。
二つ目。
青石髪飾りの修理返却控え。
三つ目。
サヴィル夫人が保管していた“夜のうちに令嬢のみで”という控え文。
四つ目。
ミラベル・フォルナー子爵令嬢の証言。
そして最後に、白布に包んだ真珠の欠片。
机の上へ並べると、ずいぶんと冷たい景色になった。
「まず」
私は口を開く。
「ルヴァンセル子爵家周辺では、正式帳簿に載らない形で婚約候補の令嬢へ贈り物が送られていました」
「贈り物?」
侯爵が眉を寄せる。
「髪飾り、耳飾り、箱、内張り、細紐。表向きの婚約贈答ではなく、“個人的な気遣い”として処理できる程度の品です」
私は最初の控えを示す。
「三件とも、仲介人サヴィル夫人付きの女中名義で発注されています」
「三件、とは」
「ミラベル・フォルナー子爵令嬢」
一人目。
「ダリア・セルウィン伯爵令嬢」
二人目。
「そして、リディア・エルムローズ侯爵令嬢」
三人目。
侯爵の視線が紙の上を動く。
「同じ仲介人が複数の縁談に関わること自体は、別に不自然ではない」
「ええ」
私は頷いた。
「ですが、全部が“正式帳簿に載らない小さな贈り物”で、しかも前二件が急に消えているとなると話は別です」
「まだ弱い」
「でしょうね」
私はあっさり認める。
「なので次です」
修理返却控えを前へ出した。
「一件目、ミラベル嬢の髪飾り。客人使用後、留め具歪み、石欠け一、口外無用」
侯爵の目が細くなる。
「……誰が払った」
「サヴィル夫人です」
アルヴァンが横から淡々と補った。
「子爵家ではなく、仲介人が」
「それだけで、何が言える」
「少なくとも」
私は言う。
「婚約候補の令嬢に渡した品が、使用後に壊れ、しかも仲介人名義で黙って修理されている」
「それは事故かもしれん」
「そうです」
私はまた頷く。
「だから、証言を持ってきました」
ミラベル嬢の証言書を、侯爵の前へ滑らせる。
侯爵は無言でそれを取った。
読む。
部屋が静かになる。
数行。
数行なのに、空気が少しずつ変わっていく。
夜の個別挨拶を求められたこと。
扉が閉まったこと。
手首を掴まれたこと。
翌朝には階段からの転倒という話にされたこと。
侯爵の指先が、紙の端で止まる。
「……ミラベル嬢が、これを?」
「はい」
「自分の意思で?」
「ええ」
エレノア嬢が答える。
「それでもなお、“令嬢側の感情”で済ませますか」
侯爵はすぐには答えなかった。
代わりに、証言書を机へ戻し、白布の包みへ目を移す。
「それは何だ」
「今日届いたものです」
私は白布を解いた。
小さな真珠の欠片。
それと、一行だけの手紙。
忘れられないなら、こちらも忘れません。
リディア嬢が小さく息を呑む。
侯爵の表情は動かない。だが、視線だけが一段深くなる。
「誰に届いた」
「ミラベル嬢へ」
「……今になって?」
「ええ」
私は答える。
「つまりこの件は、終わった縁談の余韻ではなく、今もなお過去の婚約候補へ触れてくる性質のものです」
「脅し、か」
侯爵が低く言う。
「脅しです」
「差出人の名は」
「ありません」
「なら子爵家と断定はできまい」
「できますよ」
私は机上の別紙を引いた。
「文面の型が同じです。“夜に一人で”“誰にも気兼ねなく”“穏やかに進む”。全部同じ手口の言い換えです」
「言い換えだけでは」
「では、もっと露骨な話を」
私は最後の紙を出した。
エマ・クロウについてまとめた簡易記録だ。
まだ本人の詳細証言そのものではない。そこは約束がある。だが、今ここで必要な範囲は書いてある。
「ルヴァンセル子爵家付き侍女、エマ・クロウ。離職後、手首の痣を隠し、南区の施療院へ身を寄せている」
侯爵の目が上がる。
「本人は、嫡男ヴィクトル殿が“婚約前に令嬢の従順さを確かめる”趣旨の発言を繰り返していたこと、そして夜の個別接触のあとで女性客が取り乱したことを認めています」
リディア嬢の顔から血の気が引く。
だが、今は止めない。ここまで来たら、紙は並べ切ったほうがいい。
「加えて、外科医の往診控え」
私はもう一枚を置く。
「婚約打診が消えた時期に合わせ、“客人女性”“一時滞在者”への外科診療が子爵家本邸で複数回」
侯爵はその紙も取る。
読む。
読んでいる間に、私は侯爵の手元を見た。
今朝あれほど濃かった返書の黒は、もうない。
代わりに、机の端に退けられた返書そのものが、少しだけ色を失ったように見える。
よかった、と胸の奥で思う。
少なくとも今、破滅の前触れはそちらから離れている。
「……リディア」
やがて侯爵が言う。
「お前は、この話をどこまで知っていた」
リディア嬢は少しだけ息を止め、それから答える。
「全部ではありません」
「どこまでだ」
「箱と、手紙と」
そこで彼女は一度だけ視線を落とし、もう一度上げる。
「そして、私が嫌だと思っていることです」
静かな言い方だった。
今朝より、ずっといい。
震えているのに、自分の言葉だ。
「条件の話ではなく」
リディア嬢は続ける。
「嫌なのです。怖いのです。そう思う自分を、私はもう贅沢だとは言いません」
侯爵が、その一言で初めて完全に娘を見る。
部屋が静まり返る。
エレノア嬢は何も言わない。
アルヴァンも動かない。
私も、口を挟まなかった。
ここはもう、紙の外側だ。
親と娘の、ぎりぎりのところだ。
「……誰にそう言われた」
侯爵が低く問う。
リディア嬢は少しだけ迷い、それから答えた。
「私が、そう決めました」
上手いな、と思った。
たぶん半分は違う。エレノア嬢の言葉だし、たぶん少しは私たちの働きもある。
でも今ここでそれを借り物にしなかったのは、彼女自身の強さだ。
「お父様」
リディア嬢が言う。
「私は、家を捨てたいわけではありません」
侯爵の表情はまだ動かない。
「ただ、自分を捨てるような縁談には従えません」
その一言で、侯爵夫人――いや、子爵夫人が後ろで小さく顔を覆った。
たぶん泣いている。声は出していないが、肩がわずかに震えた。
侯爵は長く黙った。
ほんとうに長かった。
やがて、彼は机上の紙を順に見た。
修理控え。
ミラベル嬢の証言。
真珠の欠片。
外科医の往診控え。
エマ・クロウの記録。
そして最後に、娘を見る。
「……この縁談は、白紙に戻す」
リディア嬢が、息を呑む。
エレノア嬢は表情を変えない。
だが、私にはわかる。少しだけ肩の力が抜けている。
「正式な理由は」
侯爵が続ける。
「令嬢の体調不良と、家内事情による再考」
「それでは相手が」
侯爵夫人が震える声で言いかける。
「構わん」
侯爵がはっきりと遮った。
「向こうがなお押すなら、その時は逆に問う。夜の個別面談の文面とは何だ、と」
いい。
それでいい。
私はそこでようやく、胸の奥の張りが少し解けるのを感じた。
「アシュレイ」
不意に侯爵がこちらを見た。
「はい」
「そなたの言うとおりだったな」
それは、妙に真正面から来る言葉だった。
「どのあたりでしょう」
「紙の順番だ」
侯爵が返す。
「今朝あれに印を置いていれば、私は娘の不安を知った上で前へ進めたことになった」
私は少しだけ笑った。
「ええ。なので止めました」
「無礼だが」
「知っています」
「役に立つ無礼というのもあるらしい」
その言い方が、ほんの少しだけ苦くて、ほんの少しだけまともだった。
リディア嬢はそのやりとりを見て、やがてゆっくりと椅子へ座った。
緊張の糸が切れたのだろう。今にも崩れそうだが、泣きはしない。まだ、その段階ではないらしい。
「リディア」
侯爵の声は、今朝より少しだけ低かった。
「……すまなかった」
部屋がまた静かになる。
侯爵夫人が、はっきりと息を呑む。
リディア嬢も目を見開いた。
この父親が娘へそう言うのは、たぶん簡単なことではないのだろう。私にもそれはわかる。
「お父様」
リディア嬢が、やっとそれだけを言う。
「一度で済むと思わないことだ」
侯爵は苦い顔で言った。
「信頼というものは、もっと手間のかかるものだ」
それはたぶん、自分自身へ向けた言葉でもある。
「……はい」
リディア嬢が頷く。
今度は泣くかと思った。
だが彼女は泣かなかった。ただ、握った手が白くなるほど力が入っている。
そのとき私はふと、机の上の紙束を見た。
黒い靄は、もうほとんど残っていない。
ほんの薄く、真珠の欠片にだけ尾を引くような灰があるくらいだ。
終わったのだと思った。
少なくとも、この縁談は。
侯爵家を辞したあと、馬車へ戻るまでのあいだ、誰もすぐには喋らなかった。
最初に口を開いたのは、意外にも侯爵家の門前で見送りに出たリディア嬢だった。
「アシュレイ様」
「はい」
「私、今日はちゃんと自分で立っていられたかしら」
その問いに、私は少しだけ考えた。
「ええ」
それから答える。
「だいぶ」
リディア嬢は、そこでようやく少しだけ笑った。
昨日までの、誰かに合わせるための笑いではない。疲れていて、まだ少し泣きそうで、それでも自分で選んだあとの顔だった。
「なら、よかった」
小さな声だった。
エレノア嬢が隣で静かに言う。
「ええ。上出来よ、リディア」
「今日は皆さん、それを言うのね」
「本当だもの」
リディア嬢はほんの少しだけ目を伏せ、それからまた顔を上げた。
「……お礼は、改めて。お父様と縁談についてまだお話がありますので、終わったらそちらに伺います」
「お礼は今いらないわ」
エレノア嬢が答える。
「今は休みなさい。そして、しっかり話してきなさい」
「はい」
そうして彼女は下がる。
門が閉まり、馬車へ乗り込むころになって、私はようやく大きく息を吐いた。
「終わりましたね」
アルヴァンが言う。
「ええ」
私は答える。
「ひとまず」
「“ひとまず”なのね」
エレノア嬢が横から言う。
「ルヴァンセル家が、これで大人しく引くなら苦労しません」
「それもそうね」
彼女はあっさり頷いた。
「でも少なくとも、リディアは守れたわ」
「ええ」
そこは素直に認める。
私は馬車の背へ体を預けた。
疲れた。頭も少し重い。能力がどうとか言う以前に、普通に睡眠不足だ。
それでも、今は少しだけましだった。
「……帰りたい」
いつものように漏らすと、エレノア嬢が言った。
「今日は少しだけ、近づいたのではなくて?」
「何にです」
「平穏に」
私は少し考えてから、首を横に振った。
「いえ」
「どうして」
「こういうの、一件きれいに片づくと、そのぶん次の面倒が来るので」
エレノア嬢は数秒、私を見ていた。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「……本当に、寝覚めの悪い人」
「知っています」
「でも」
彼女は窓の外へ視線を向けたまま言った。
「そういう人だから、助かったのでしょうね」
その言葉は、いつもの調子より少しだけ静かだった。
私は返事に困って、結局何も言わなかった。
こういうときに皮肉を挟むと、たぶん今は少し違う形になる。
だから黙る。
黙ったまま、窓の外を見る。
侯爵家の門はもう遠い。夕方の光が石畳に細く残っている。
ひとまず一つ、縁談は鈍った。
鈍ったというより、止まった。
証言の前では、好条件もさすがに少しは鈍るらしい。
それで十分だと思っていた。
このときまでは。




