第20話 前の令嬢は、まだ夜を怖がっている
午後の日差しはまだ高いはずなのに、フォルナー子爵家の客間はひどく薄暗かった。
厚いカーテン。
灯されたままの卓上ランプ。
窓辺に置かれた花だけが、場違いみたいに明るい。
ああ、と思う。
こういう部屋は、たいてい夜を室内へ持ち込んでいる。
外が昼でも、内側の誰かがまだ夜から出られていないのだ。
「急な訪問をお許しください、子爵夫人」
向かいでエレノア嬢が言う。
相手はミラベル・フォルナー子爵令嬢の母だった。顔立ちは娘とよく似ているが、今は頬がこわばっている。突然の公爵令嬢来訪と、同席している得体の知れない文官に対する警戒が半々、といったところだろう。
「いえ……ヴァルシエ公爵令嬢がおいでになるとは思わず、少々驚いております」
「ごもっともです」
エレノア嬢は穏やかに答える。
「ですが、驚きだけで済ませてはいけない話がございますの」
子爵夫人の視線が、わずかに机上の紙へ落ちる。
そこへ置かれているのは、先ほどサヴィル夫人から受け取った控えの写しだった。
婚約前の相互理解のため、夜のうちに令嬢のみでご挨拶を――
短いが、十分に嫌らしい文面である。
「その紙は」
夫人が言う。
「どこから?」
「サヴィル夫人から」
私が答えると、夫人の唇がきつく結ばれた。
「……あの人が」
「ええ」
「今さら」
今さら、か。
その言い方だけでだいぶわかる。
私は部屋の隅を見た。
卓上ランプの足元に、薄い灰黒い靄が絡んでいる。灯を落とした夜ではなく、昼間なのに灯したままの灯り。そこに残る色は、だいたい“まだ終わっていない怖さ”の痕だ。
そしてもう一つ。
暖炉上の飾り棚に置かれた、小さな真珠の髪飾り。
片方の留め具だけがわずかに歪んでいて、そこに赤黒い滲みが見えた。
やっぱりこれだな、と思う。
「子爵夫人」
私はなるべく平坦に言う。
「ミラベル嬢に、一度だけお話を伺えませんか」
「難しいわ」
返答は早かった。
「娘はもう、この話を終えたがっています」
「終わっていません」
私が言うと、夫人の目がこちらへ向いた。
「あなた、失礼ね」
「知っています」
「自覚があるのにやめないの?」
「やめた結果、また同じことが起きそうなので」
子爵夫人は少しだけ息を呑んだ。
責められたのが嫌なのではない。
図星だからだ。
「ミラベル嬢の件は」
エレノア嬢が静かに口を挟む。
「あなた方だけの不運として埋めてしまうには、もう遅いのです」
「ヴァルシエ嬢」
夫人の声が少し硬くなる。
「娘の名誉をこれ以上――」
「守りたいから、来ました」
エレノア嬢は言い切った。
「今止めなければ、次の令嬢も同じ目に遭う。そうわかっているのに、見なかったふりはできません」
子爵夫人は黙る。
黙ったまま、机上の写しと私たちを交互に見る。
「……娘は、夜を嫌がるの」
ややあって、彼女は小さく言った。
「日が落ちる前から、鍵を確かめる。窓を閉める。音に敏感になる。それでも、何もなかったことにしようとしてきたのよ」
私は飾り棚の髪飾りへもう一度目をやった。
あの黒は、まだ濃い。
「だからこそ」
私は答える。
「今、話してもらいたい」
「なぜ今なの」
「次がいるからです」
部屋が静かになる。
「……待っていて」
夫人は立ち上がり、奥へ消えた。
ミラベル・フォルナー子爵令嬢は、十分ほどして現れた。
淡い灰色のドレス。
細い首。
痩せた指先。
綺麗な人だった。だが、華やかな綺麗さではない。強く握った花が、少しずつ水を失ったあとみたいな、静かな脆さがあった。
そして、部屋へ入ってきた瞬間、彼女の視線はまず窓へ走った。
次に扉。
最後に、私たち。
順番がよくない。
夜を怖がる人の癖だ。
「初めまして」
ミラベル嬢が言う。
「……では、ないのかしら」
「会ったことはありません」
エレノア嬢が答える。
「でも、お名前は存じています」
「そう」
ミラベル嬢は小さく笑った。
その笑い方が、妙に乾いている。
「では、私の失敗談も?」
「失敗ではありません」
私が思わず言うと、彼女の目がこちらへ向いた。
「あなたが、文官の方?」
「アシュレイです」
「……変な人だと聞いてるわ」
「最近よく言われます」
ミラベル嬢の口元が、ほんの少しだけ動いた。
悪くない。少なくとも、完全に閉じた顔ではない。
「お話を伺いたいのです」
エレノア嬢が言う。
「ルヴァンセル子爵家との件について」
「今さら?」
ミラベル嬢は母を見る。
母は視線を逸らした。そこがもう答えだった。
「リディア・エルムローズ侯爵令嬢が、同じ縁談に巻き込まれています」
私が言った瞬間、ミラベル嬢の指先がわずかに強張った。
「……そう」
「ええ」
「まだ続けているのね」
「たぶん、一度もやめていません」
ミラベル嬢は、そこで少しだけ目を閉じた。
その表情を見て、飾り棚の髪飾りに絡んだ黒がさらに濃くなる。
まだここは終わっていない。本人の中では、全然。
「座っても?」
彼女が問う。
「もちろん」
エレノア嬢が答える。
ミラベル嬢は窓から一番遠い椅子を選んだ。背後が壁になる位置。
そこでもう、部屋の中の誰もが何も言わなくなった。
「最初は、普通でした」
やがて彼女は言う。
「皆さんがそうおっしゃるように、穏やかで、丁寧で、礼儀正しい方だった」
「ヴィクトル・ルヴァンセル」
エレノア嬢が確認する。
「ええ」
ミラベル嬢は頷く。
「私の父も母も、悪くない話だと。少し慎重すぎるくらいの青年で、安心だと」
「そして、夜の挨拶?」
私が控えを示すと、彼女の目がそれに落ちる。
「……同じ紙」
「ええ。形式は少し違いますが」
「私のときは、もう少し綺麗な言葉でした」
彼女は笑った。
笑ってはいない。口元だけで形を作っただけだ。
「“相互理解のため、誰にも気兼ねなくお話ししたい”って」
嫌な言い方だな、と思う。
「行ったんですか」
私が訊くと、ミラベル嬢は少しだけ迷ったあと、頷いた。
「ええ。断る理由が、なかったから」
その一言に、リディア嬢の顔が頭へ浮かぶ。
同じだ。誰にも気兼ねなく。相互理解。婚約前の確認。全部、断りにくくするための言い換えだ。
「どこで」
「別邸の小さな客室。父たちは食後の談話へ移って、私は少しだけ、と案内されたの」
「一人で?」
「ええ」
「使用人は」
「外へ」
やはり、と思う。
どこまでも一貫している。
「扉が閉まったあとで、変わった」
ミラベル嬢の声はひどく平坦だった。
「急に何かをしたわけではないの。最初は、本当に話すだけ。好きな音楽は、とか。子どもの頃は、とか。そういうことを」
私は口を挟まない。
こういうときは、語る側の息が途切れないようにするほうがいい。
「でも途中で、“婚約後は夫に恥をかかせない方がいい”って言われた」
ミラベル嬢の指が、膝の上で強く組まれる。
「“夫が望むときに、いちいち嫌な顔をしないほうが可愛げがある”って」
部屋の空気が、静かに冷えた。
「私は、意味がよくわからなくて」
彼女は続ける。
「だから聞き返したの。そうしたら、笑って、手首を掴まれた」
ミラベル嬢は無意識に自分の左手首へ触れた。
そこには今もう痣はない。ないのに、私には灰色の古い輪が見えた。
「痛いほどではなかった。でも、逃がさない力で。私はびっくりして、それで」
「髪飾り」
私が小さく言うと、彼女の目が揺れた。
「……ええ。引っかかって壊れたわ」
飾り棚の真珠の黒が、そこでやっと少し薄くなる。
「そのあと、泣いた?」
エレノア嬢の問いは静かだった。
「ええ」
ミラベル嬢は笑わなかった。
「情けないくらい」
「情けなくありません」
私は思わず言った。
ミラベル嬢がこちらを見る。
「そのとき、部屋の外に誰か」
「いました。侍女一人。でも、扉は開かなかった」
エマだろうか。
いや、彼女の話では“夜番だった”だから、別の使用人かもしれない。
「翌朝には、階段で足を滑らせたことになった」
ミラベル嬢の母が、そこで顔を伏せた。
「お母様は、もうその場で婚約を止めるとおっしゃってくれた。でも父は、“大きくするな”と」
やはりだ。
「結局、“相性の問題”で終わった」
ミラベル嬢は自分の膝を見つめる。
「そうしたほうが、私が傷つかないって」
「違った」
エレノア嬢が言う。
「ええ」
ミラベル嬢は頷いた。
「全然」
短い言葉だった。
けれど、その一言で十分だった。
「……ダリア嬢のことも?」
私が問うと、ミラベル嬢は首を横に振った。
「直接は知らない。ただ、サヴィル夫人が一度、母へ“若い方は少し気位が高すぎると縁談は続きにくい”って」
そこまで言って、彼女は息を吐く。
「私のことだったのだと思っていたけど、たぶん違ったのね。ずっと、同じことを言って回っていたのだわ」
同じ型で、同じ理屈で、令嬢側へ自責を押しつける。
実に綺麗な手口だ。腹が立つほどに。
「証言していただけますか」
私は訊く。
ミラベル嬢の母が、はっと顔を上げる。
「待って。娘は――」
「全部でなくていい」
私は続けた。
「今必要なのは、夜の個別面談の文面が来たこと。会ったこと。翌朝には縁談が止まったこと。その三つです」
ミラベル嬢はしばらく黙り、それから立ち上がった。
「証言文、書くわ」
母が息を呑む。
「ミラベル」
「お母様。もう嫌なの」
その声は細い。
けれど、はっきりしていた。
「私のことで終わったことにされるのも、次の方が同じ目に遭うのも」
彼女は机のほうへ歩く。少しふらついたが、止まらない。
私はとっさに椅子を引いた。
エレノア嬢はすぐインクを寄せる。
ミラベル嬢は座り、ペンを取る。
そのときだった。
彼女の袖口から、細い封緘済みの紙が一枚滑り落ちた。
床に落ちる。
黒い靄が、それにべったり張りついていた。
見えた瞬間、背筋が寒くなる。
「触らないでください」
思わず強く言っていた。
全員が止まる。
ミラベル嬢が青ざめた顔で、その紙を見る。
「それ……」
「何です」
私が訊くと、彼女は唇を震わせた。
「今朝、届いたの」
またか。
「誰から」
「差出人はない。でも、わかるわ。あの家から」
私は手袋を借りて、その封をそっと持ち上げる。
軽い。
だが、中に入っているのは紙だけではない。薄い何かが触れる音がした。
「開けます」
エレノア嬢が頷く。
封を切る。
中から出てきたのは、短い手紙と、小さな欠けた真珠の粒だった。
飾り棚の髪飾りとぴたり合う、片割れみたいな形。
ミラベル嬢の顔から、血の気が引く。
「……返してきたの」
彼女が呟く。
「壊れたのに」
私は手紙を開いた。
そこに書かれていたのは、たった一行。
『忘れられないなら、こちらも忘れません』
嫌な沈黙が落ちる。
脅しだ。
しかも、過去の被害者へ今も繋ぎ直してくる種類の。
「これで充分です」
私は言った。
エレノア嬢が、静かに頷く。
「ええ」
「何が」
ミラベル嬢の母が震える声で問う。
「ルヴァンセル家を止めるのに」
私は真珠の欠片を白布へ包みながら答えた。
「これで、今もなお“終わった話”じゃないと証明できる」
ミラベル嬢はペンを握ったまま、じっとその白布を見ていた。
そして小さく息を吸う。
「……書くわ」
今度は誰も止めなかった。
書き始めた彼女の手は、最初の数行こそ震えていた。
けれど、途中からは少しずつ整っていく。
夜に呼ばれたこと。
扉が閉まったこと。
手首を掴まれたこと。
翌朝には、階段での転倒という話になったこと。
全部を詳しくは書かない。
でも、止めるには十分だ。
私はその文字を見ながら、飾り棚の髪飾りへ目をやった。
黒い靄は、もうほとんど消えていた。
ようやく一つ、終わる。
終わる代わりに、次が始まるのだとしても。
フォルナー家を出たときには、もうだいぶ日が傾いていた。
馬車へ乗り込む前に、エレノア嬢が私へ短く言う。
「アシュレイ」
「はい」
「上出来よ」
「珍しいですね」
「何が」
「そんなに素直に褒めるの」
「今は必要だから」
やはり完全に素直ではないらしい。
それでも少しだけ肩の力が抜けた。
気づけば、こめかみの奥の痛みもだいぶ引いている。
評判を人質に取られた、商人はよく喋り。
仲介人は上品に言い逃れ。
そして前の令嬢は、まだ夜を怖がっている。
https://kakuyomu.jp/my/works/2912051596835145631
全部、嫌な話だ。
でも、材料としては十分近づいている。
「……帰りたい」
馬車へ足をかけながら呟くと、エレノア嬢が横で言った。
「もう少しよ」
「そう言って伸びるんでしょうね」
「ええ。たぶん」
否定しないんだな、と思いながら、私は大人しく乗り込んだ。
次は侯爵家へ戻る。
そして、一日で集めたものを机の上へ全部並べる。
そこまで行けば、たぶんもう“感情”では済まされない。




