第22話 終わったはずの縁談は、別の形で噛みついてくる
ひとつ潰したと思った案件が、別の形で戻ってくる。
王宮勤めをしていると、それは珍しくない。
書類を差し戻したつもりが別部署から戻るとか、予算を削ったつもりが交際費へ化けるとか、そういう意味でなら日常である。
ただ、今回戻ってきたのは、もっと性質が悪かった。
「……眠い」
ヴァルシエ邸の実務室で、私は報告の清書をしながら呟いた。
机の上には、今日一日で集めたものが整然と並んでいる。
ミラベル嬢の証言。
ロシュフォール宝飾舗の非公式控え。
修理返却記録。
真珠の欠片。
エマ・クロウの記録補足。
十分だ。
少なくとも、ルヴァンセル家との縁談を止めるには足りる。そう思っていた。
「まだ寝ないの?」
向かいからエレノア嬢が言う。
彼女もまだ起きていた。夜着ではないが、昼よりはずいぶん軽い衣装だ。なのに机の前へ座るとやっぱり“仕事の顔”になるのだから、上流貴族は便利だなと思う。
「清書してからにします」
「明朝でもよくないかしら」
「こういうのは熱いうちに書かないと、後で自分でも腹の立ちどころを見失うので」
「腹は立っているのね」
「まあ、それなりに」
そう答えると、エレノア嬢は少しだけ目を細めた。
「“それなり”で済ませるには、今日のはだいぶひどかったと思うけれど」
「寝覚めが悪い、くらいです」
「便利な言葉ね」
「多用しています」
そこへ、廊下を走る足音が近づいた。
嫌な足音だった。
急いでいるが、慌てているだけではない。知らせたくない知らせを持ってきた人間の足音だ。
扉が開く。
「失礼します」
入ってきたのは、ヴァルシエ家の若い侍従ではなかった。
ベルナールだった。
文書局の外套を着たまま、少し息が上がっている。ここまで本気で走ったのだろう。珍しい。
「お前、何で」
「嫌な報せだ」
挨拶もなく言うあたり、よほどだ。
「景気がいいな」
「よくないほうでだよ」
ベルナールは一礼だけしてから、机へ一枚の紙を置いた。
「王宮の控え室で、もう回ってる」
私はその紙を見る。
正式な文書ではない。
誰かが面白半分に書き散らしたような、いかにも“読まれるための噂書き”だ。貴婦人の茶会や侍従の控えで、こういうものは案外足が速い。
そこに書かれていたのは、実に上品な字で、実に下品な内容だった。
――エルムローズ侯爵令嬢の縁談が止まったのは、ヴァルシエ公爵令嬢の過剰な干渉ゆえ。
――しかもその場には、近頃お気に入りらしい若い文官が常に侍っていた。
――令嬢はその文官に相談を重ね、夜のうちに公爵家へ移ったとも。
――実に行き届いた保護である。
「うわ」
思わずそう漏れた。
感想としては正しいと思う。
「うわ、じゃない」
ベルナールが額を押さえる。
「お前の名前まではまだ出てない。でも“若い文官”ってところでだいぶ絞れる」
「王宮って仕事が早いなあ」
「感心するな」
「感心はしてない。うんざりしてる」
紙の端を指で押さえる。
黒い靄が、そこに薄く絡んでいた。
今までの箱や真珠についた色とは少し違う。もっと乾いている。紙そのものより、人の口から口へ移る汚れに近い。
つまりこれは、もう物ではなく噂の形で来たということだ。
「……向こう、切り替えたな」
私が呟くと、エレノア嬢が静かに頷いた。
「ええ」
「リディア嬢本人を箱で追い込むのは、今は難しい。だから」
「あなたへ寄せた」
その言葉で、ベルナールの顔が強張る。
「やっぱりそうか?」
「たぶん」
私は噂書きをもう一度見た。
「これ、私個人の名誉を潰したいだけじゃない。令嬢たちが、私を庇えなくなる形にしたいんだ」
「どういうこと」
ベルナールが問う。
「下級文官が二人の高位令嬢へ取り入って縁談を壊した、って話になれば」
私は紙を机へ戻した。
「エレノア嬢は“軽率に男を近づけた公爵令嬢”になる。リディア嬢は“文官へ気を移して縁談を嫌がった侯爵令嬢”になる」
部屋が静かになる。
「どっちも、こちらが証言を出しづらくなる」
アルヴァンが低く言う。
「証言を出せば出すほど、“男一人を庇うための言い訳”に見せられかねん」
「ええ」
私は頷いた。
「だから、次は私の名前に噛みついてきた」
嫌なやり方だが、上手い。
非常に上手いから、なおさら腹が立つ。
「……それで?」
ベルナールが問う。
「お前、どうする」
「どうするも何も」
私は肩をすくめた。
「文書局で噂が回るのはいつものことだし」
「今回はいつもの規模じゃないぞ」
「知ってる」
「お前、本当にわかってるのか?」
「半分くらいは」
「その半分が危ないって何回言わせるんだよ」
もっともだ。
だが、ここで私が慌てても意味はない。
慌てるべきなのは、噂がどこへ流れ、誰の口を塞ぎにいくかのほうだ。
「リディアは」
エレノア嬢が言う。
「まだ知らないわね」
「知らせないほうがいいです」
私は即答した。
「今のあの人に伝わると、自分のせいだと思う」
「ええ」
エレノア嬢の返事は短かった。
その短さの中に、少しだけ冷たいものが混じる。
「でも、隠しきれない」
「わかってます」
「なら?」
「先に潰す」
それしかない。
「噂の出どころを?」
ベルナールが言う。
「それもある」
私は噂書きをもう一度裏返した。
「でもたぶん、これはもう撒かれたあとだ。今さら全部は回収できない」
「じゃあ何を」
「上から折る」
エレノア嬢が目を細める。
「具体的に」
「侯爵家とヴァルシエ家が、私個人ではなく“正式な実務補佐として動いていた”形を先に王宮側へ置くんです」
ベルナールが眉をひそめる。
「そんなの通るのか?」
「通すんだよ」
私は言う。
「少なくとも、“夜のうちに公爵家へ匿われた謎の文官”って噂より先に、王宮実務確認に伴う記録補佐って札を打つ」
「なるほど」
アルヴァンが頷く。
「立場の定義を先に固定するわけですな」
「ええ。噂が人間関係を曖昧に使うなら、こっちは役目で塗り潰す」
エレノア嬢が静かに立ち上がる。
「今すぐ、王宮へ使いを出すわ」
「一つだけ」
私は言った。
「私が一緒に行きます」
「却下」
いつもどおり早い。
「まだ理由を」
「どうせ“自分の名に関わるから”でしょう」
「はい」
「だから却下」
強い。
「あなたが動くと、向こうに“噂が効いている”と教えることになる。これはあなたの受け売りじゃなくて?」
それはその通りだ。
だが、もう一つ問題がある。
紙の端についた黒が、まだ消えない。むしろさっきより濃くなっている。
まだ何か来る。
「……もう一通あるかも」
気づけば、そう口にしていた。
「何が」
エレノア嬢が問う。
「噂書きだけじゃ足りない」
私は紙を指先で押さえた。
「これは広く撒く用です。でも、同時に“刺さる相手へだけ届く紙”も別であるはず」
「リディア宛?」
「それか、私宛」
その言葉が終わるより先に、廊下でまた足音が止まった。
今度は走っていない。
でも妙に急いでいる。
ラナが扉を開ける。
「お嬢様」
彼女の顔も、だいぶよくなかった。
「客間の外に、紙が差し入れられていました」
部屋の空気がまた変わる。
「誰が見つけた」
アルヴァンが問う。
「夜番の侍女です。扉の下から」
私の背筋に、嫌なものが這う。
「リディア嬢は」
「まだご存じありません」
「よし」
私は立ち上がる。
「今のうちに」
「アシュレイ」
エレノア嬢が名を呼ぶ。
「はい」
「顔色が悪いわ」
「そうですか」
「ええ」
たしかに、少し視界が白い。
黒い前兆が近いとき、たまにこうなる。色の濃いものだけ先に目へ入って、他が薄くなる。
嫌な兆候だ。
「紙を」
私が言うと、ラナが白布に包んだ小さな紙片を差し出した。
封はない。
折り畳みだけ。
そして、私の目にはその折り目全部へ黒が滲んで見えた。
濃い。
今までで一番、濃い。
「……読まないほうがいいかもしれない」
思わずそう漏れる。
「あなたがそう言うの、珍しいわね」
エレノア嬢が言う。
「ええ」
私は答えた。
「かなり」
「でも読むのでしょう?」
「たぶん」
白布の上へ置き、紙刀で開く。
中には一枚だけ。短い文。
私は目で追って、そこでほんの少しだけ息を止めた。
「何と」
エレノア嬢の声が低い。
「……“令嬢を守ったつもりか。次はお前一人で来い”」
私は読む。
「“証言が欲しいなら、今夜、旧水門の石段へ。来なければ、令嬢の噂は明日には本物になる”」
ベルナールが、はっきりと舌打ちした。
「最悪だな」
「ええ」
私は紙を見たまま答える。
「だいぶ」
「旧水門」
アルヴァンが低く言う。
「河沿いですな」
「はい」
「罠だ」
「でしょうね」
当然だ。
それでも問題は、向こうがこちらの弱いところをちゃんとわかっていることだった。
証言が欲しいなら。
つまり、エマかミラベルか、あるいは別の誰か。
まだこちらが掴んでいない何かを餌にしている。
そしてもう一つ。
令嬢の噂は明日には本物になる。
それは脅しとして上等だ。
雑な悪意ではなく、こちらが今いちばん嫌がる形をちゃんと選んでいる。
「行かないで」
小さな声がした。
振り向くと、いつの間にかリディア嬢が扉口に立っていた。
夜着の上に薄い上衣を羽織ったまま。たぶん眠れず、廊下の気配を聞いていたのだろう。顔色は悪いが、目だけは冴えている。
「起きてたんですか」
私が言うと、彼女は頷いた。
「ごめんなさい。でも、聞こえたの」
「気にしなくていいです」
「よくないわ」
リディア嬢は部屋へ入る。
「それ、私のせいでしょう」
「違う」
エレノア嬢が即座に否定する。
「でも」
「違うわ」
その一言が強かったので、リディア嬢はそこで口を閉じた。
私は手元の紙を見た。
黒い靄が、まだびっしりと張りついている。
これをそのまま無視するのは、たぶんまずい。
だからといって、一人で行くのはもっとまずい。
なら答えは一つしかない。
「……行きます」
私が言うと、部屋の全員が止まる。
「一人ではないですよ」
すぐに続ける。
「罠なのはわかってる。だから、向こうが“来る”と想定してる形だけ利用する」
「具体的に」
エレノア嬢が問う。
「まず、私が行きます。見えるように一人で」
「却下」
「最後まで」
「却下」
「……最後まで聞いてください」
珍しく少し強めに言うと、エレノア嬢は黙った。
怒ってはいない。だが、今のでだいぶ気に入らなかっただろう。
「私は行く」
もう一度言う。
「でも一人に見せるだけです。実際は、周囲に人を置く。旧水門は見通しが悪い代わりに、逃げ道が限られる」
アルヴァンがすぐに地図を頭で描いた顔になる。
「橋下と、上段の見張り台跡」
「ええ」
私は頷いた。
「あと、水路脇の崩れた石垣。そこに二人」
「待ちなさい」
リディア嬢が言う。
「本当に行くつもり?」
「たぶん」
「たぶん、じゃないでしょう」
「行くつもりです」
言い直すと、彼女は顔を強張らせた。
「駄目よ」
「ええ。私もあまり行きたくはないです」
「そういう問題ではなくて!」
珍しく強い声だった。
その一瞬だけ、彼女の目がはっきりとこちらへ向く。
怖いのは自分の噂だけじゃない。私が行くことそのものを怖がっている顔だ。
ああ、困るなと思う。
そういう顔を向けられると、本当に困る。
「リディア」
エレノア嬢が静かに言う。
「あなたは下がって」
「でも」
「下がって」
二度目の声音で、リディア嬢は唇を噛み、うつむいた。
「……わかったわ」
だが下がる前に、彼女は私を見る。
「必ず戻ってきて」
その言葉が、部屋の空気を少しだけ変えた。
誰もすぐには何も言わない。
私も一瞬だけ返事に困る。
「たぶん」
反射でそう言いかけて、さすがに飲み込んだ。
「……戻ります」
そう答えると、リディア嬢は少しだけ目を閉じた。
それが安堵なのか、まだ不安なのか、両方なのかはわからない。
彼女が出ていったあと、エレノア嬢が私を見る。
「本気なのね」
「ええ」
「私も行くわ」
「でしょうね」
「止めないの?」
「止めても来るでしょう」
「そうね」
あっさり認めるなと思う。
「ただし」
私は続けた。
「今回は、前へ出ないでください」
「三歩まで?」
「二歩」
「厳しいわね」
「命に関わるので」
そう言うと、エレノア嬢は数秒だけ私を見て、それから小さく頷いた。
「……二歩までにしておくわ」
譲歩としては破格だろう。感覚がもうよくわからないが。
アルヴァンがすでに具体の配置を詰め始めている。
ラナは黙って侍女頭へ伝令を回しに出た。
ベルナールは、なぜかまだここにいた。
「お前」
私が言うと、彼は嫌そうな顔をする。
「何だ」
「もう帰っていいぞ」
「帰れる空気だと思うか?」
「思わないな」
「だろうな」
ありがたい同期である。たまに本当に。
私は黒く滲む紙をもう一度見た。
今までの前兆は、箱や耳飾りや返書に張りついていた。
でも今回は違う。
これはもう、私自身を噛みに来ている色だった。
ようやくわかった。
ルヴァンセル側にとって、今いちばん邪魔なのは、令嬢たちの意志だけではない。
その意志を紙にし、証言にし、順番に並べてしまう私みたいな人間なのだ。
それは光栄でも何でもない。
ただ、たいへん面倒なだけである。
「……帰りたい」
またぼそりと漏らすと、今度はエレノア嬢ではなく、アルヴァンが言った。
「戻ってからになさい」
家令にまで言われるようになったか、と私は少しだけ遠い目をした。
今夜は長くなる。
そしてたぶん、旧水門ではもう一つ、はっきりと能力が要る。
見たくはない。
でも、見えてしまうなら仕方がない。




