第18話 一日で潰すなら、商人がよく喋る
商人というものは、基本的に口が重い。
正確には、得にならないことは喋らない。
それだけだ。
だから逆に言えば、損をしそうになった瞬間はよく喋る。
「一日しかないなら、まず商会筋です」
ヴァルシエ邸へ戻るなり私がそう言うと、エレノア嬢は迷わず頷いた。
「サヴィル夫人ではなく?」
「仲介人は最後まで言い逃れる顔を持ってます」
「商人は違うと?」
「評判と取引が傷つくと、急に記憶力が良くなるので」
アルヴァンが低く言う。
「嫌な言い方ですな」
「だいたい事実です」
結果として、午前のうちに私とアルヴァンは王都の商業区へ出された。
エレノア嬢は別口からサヴィル夫人へ圧をかけるらしい。怖いので、具体的なやり方は聞かない。
向かったのは、表記揺れの出ていた例の店――ロシュフォール宝飾舗だった。
表通りに面した、上等だが趣味の良い店だ。
大きすぎず、小さすぎず。高位貴族の贈答にも使えるが、成金趣味には見えない。そういう店はだいたい繁盛する。
「いらっしゃいませ」
店主は五十前後の男だった。
髭は整えられ、指輪は二つだけ。金回りは悪くないが、見せびらかすほど下品でもない。商人としてはかなり優秀な部類だろう。
そして、ヴァルシエ家の家令章を認めた瞬間、笑顔の端だけが少し硬くなった。
「ヴァルシエ公爵家より」
アルヴァンが名乗る。
「少々、帳簿の確認を」
「帳簿、でございますか」
「ええ」
店主の視線が一瞬だけ、奥の事務机へ流れた。
ああ、そこだなと思う。
「当店は真っ当な商いを」
「それは何より」
私が言う。
「では、真っ当である確認はすぐ済みますね」
店主の笑顔が少しだけ薄くなる。
「そちらは?」
「地味な写し係です」
「写し係」
「今日はよく喋る係も兼ねています」
アルヴァンが横で咳払いした。
注意だろうが、今は無視する。
店主は観念したように、奥の小机へ私たちを通した。
帳簿が三冊。受注控え、修理控え、贈答用意の仮記録。どれもよく使われていて、しかもよく整っている。整いすぎた帳簿は好きではない。人間の手つきが綺麗すぎると、どこかを削っていることが多いからだ。
私は一冊目を開き、頁を繰る。
上等な紙。滑らかな筆。
そして、三頁目で手が止まった。
見えたからだ。
頁の端、ある注文の行だけに、黒い靄が薄く巻いていた。
濃くはない。だが、確かに“そこだ”とわかる色だった。
「……これ」
私が指した途端、店主の指先がわずかに揺れた。
「何か問題でも?」
「問題というほどでは。ただ」
私は注文欄を読む。
「青石髪飾り一式。納品先、サヴィル夫人仲介。受取口、子爵家私用便――」
そこまで読んで、次の頁を開く。
また同じ黒がある。
青石髪飾り、修理返却。留め具歪み。石欠け一。
修理控えの端に、小さく注記があった。
客人使用後。至急。口外無用。
「へえ」
思わず声が漏れた。
「何ですかな」
店主が言う。
「よく残してましたね」
「何のことで」
「“口外無用”の注記です」
私が言うと、店主は一瞬だけ完全に黙った。
アルヴァンの視線が冷たくなる。
「説明を」
店主は笑おうとして失敗した顔になった。
「修理職人の癖でしてな。注文主が妙なことを言うと、つい」
「つい、書き残す?」
「商いは記録が命ですから」
それは本音だろう。
商人は全部を燃やさない。いつか自分を守る札になるからだ。
「この青石髪飾り」
私は修理控えを軽く叩く。
「リディア・エルムローズ侯爵令嬢のところへ届いたものですね」
「……断定は」
「できますよ」
私は受注と修理の二冊を並べた。
「同じ石、同じ留め具、同じ細工師。しかも納品口が妙に私用寄りだ。これ、正式贈答じゃないでしょう」
店主は深いため息をついた。
「公爵家は、どうしてこう嫌なところばかりよく見つけますかね」
「公爵家ではなく文官です」
私が言うと、アルヴァンが横で、
「どちらでも大差ありませんな」
と低く付け足した。ひどい。
「話していただけますね」
家令の声音は穏やかだった。
穏やかで、店主にとってはたぶん最悪だったろう。
「……あれは正式な婚約贈答ではありません」
やがて店主が言った。
「サヴィル夫人付きの女中が、現金で持っていきました。“先方に名は出さぬ”“箱だけ上等にしろ”“細工は控えめだが、青が目につくように”と」
「仲介人が、自分で箱を?」
「ええ」
「子爵家は」
「知っているかどうかまでは」
店主はそこで少しだけ目を逸らす。
「ただ、同じ形式の注文は初めてではありません」
来たな、と思った。
「前の二件も?」
「……はい」
店主は小さく頷く。
「一件目の令嬢には青ではなく真珠。二件目には薄紫の石。どちらも正式帳簿には載せない形で出しました」
「修理返却は」
「一件目だけです」
私は修理控えをもう一度見る。
留め具歪み。石欠け一。口外無用。
「どう壊れていました」
「乱暴に引かれたような歪みでしたな」
店主が言う。
「髪から無理に外したか、どこかへ引っかけたか。あと、薄く赤い汚れも」
アルヴァンの目が、静かに細くなる。
「血か」
「そこまでは申せません」
「申しているようなものだ」
家令の声は低い。
店主は黙った。
黙ったが、否定はしない。
「それで、修理代は誰が」
「サヴィル夫人です」
「子爵家ではなく」
「ええ」
それで充分だった。
前の婚約候補。
仲介人。
非公式贈答。
破損修理。
口外無用。
綺麗に並び始めている。
「あと一つ」
私は頁をさらに繰った。
別の注文欄。青糸飾り紐、箱内張り、細紐交換。注文主の名はない。ただ、受取人の欄に小さく、
ガスパール
とだけある。
「こっちもですね」
店主がついに顔をしかめた。
「それまで見ますか」
「見ますよ。仕事なので」
「嫌な文官だ」
「最近よく言われます」
私は注文欄を示した。
「ガスパール。痩せてて、爪が綺麗な男ですか」
「……知っているのなら聞かないでいただきたい」
「確認です」
「確認が好きですな」
「ええ。紙より人を信じていないもので」
店主は観念したように肩を落とした。
「その男が、箱の内張りや細紐だけを持ち込みました。贈答品を“整える”仕事だと言っていた」
「贈答品を整える」
私が繰り返すと、店主は苦い顔になる。
「商人にそんな言い方をする客は、だいたい碌でもありません」
「全面的に同意します」
アルヴァンが一歩前へ出る。
「写しを」
「まるごとですか」
「必要な箇所を」
「それだけで済みますか」
「済ませるかどうかは、あなたの協力度次第でしょう」
店主はほんとうに嫌そうな顔をした。
だが、こうなると商人は早い。
「……待ってなさい」
奥から控え用の薄紙と、もう一冊の小さな帳面を持ってくる。
「何です、それ」
私が聞くと、店主は鼻を鳴らした。
「焼かなかった分ですよ」
小帳面には、正式帳簿に載せない現金注文の簡易控えがびっしりと詰まっていた。
そこにもある。真珠。薄紫。青石。全部、サヴィル夫人付きの女中名義で。
「助かります」
「助かるのはこっちだ」
店主が言う。
「さっき来たんですよ、サヴィル夫人の使いが」
私は顔を上げる。
「いつ」
「一刻も経ってない」
「何を」
「“古い控えを整理したい”と」
来たな、と思った。
「断ったんですか」
「商人が“整理したい”って言われて素直に出すと思います?」
それはそうだ。
少しだけこの店主が好きになってきた。
「ただ」
彼は声を落とした。
「断ったら、今度は子爵家の名で圧をかけると言われた」
「誰が」
「ガスパールです」
十分だった。
私は小帳面を受け取り、アルヴァンと視線を交わす。
「急ぎましょう」
「ええ」
家令が頷く。
「サヴィル夫人が、証拠を消す前に」
店主が最後に言った。
「一つだけ、文官殿」
「何でしょう」
「あの真珠の控え、一件目の令嬢の名、ちゃんと見なさい」
私は頁を戻す。
そこに、小さく書かれていた名を読む。
ミラベル・フォルナー子爵令嬢
ミラベル。
エマが言っていた名だ。
「……やっぱり」
「知ってたのか」
「ええ。半分は」
店主は妙な顔をした。
「何だそりゃ」
「そういうことがあるんですよ」
答えになっていないが、私にもこれ以上は言いようがない。
「それでは」
店主は吐き捨てるように言った。
「今度うちの店名がどこかに出たら、真っ先に文句を言いに行く」
「その前に、公爵家が守ってくれますよ」
私がそう返すと、アルヴァンが小さく頷いた。
「そのくらいは」
店主はそこでようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
店を出ると、昼の商業区は相変わらず騒がしかった。
馬車までの短い道を急ぎながら、私は小帳面を抱え直す。
「これで足りますか」
アルヴァンが問う。
「だいぶ強い」
私は答える。
「前の二件の婚約候補とサヴィル夫人が非公式贈答で繋がる。しかも修理返却まである」
「だが、まだ子爵嫡男本人へは少し遠い」
「ええ」
私は頷く。
「だから次は、サヴィル夫人です」
「喋りますかな」
「喋らせるんでしょう」
そう言うと、アルヴァンは珍しく少しだけ笑った。
「お嬢様が、ええ」
それはだいぶ怖い。
でも、頼もしいのも事実だった。
「……帰りたい」
ぼそりと呟くと、アルヴァンが即座に言った。
「まだ早いのでは?」
「最近、皆さん同じことしか言わないですね」
「寝覚めが悪いのでしょう?」
その返しに、思わず顔をしかめる。
「感染りましたね」
「近くで見ておりますので」
家令までそれを使うのは反則ではないだろうか。
馬車へ乗り込む直前、通りの向こうを一瞬だけ黒い靄が横切った気がした。
人ではない。
行き先だ。
細く、尖って、絡みつくような色。
サヴィル夫人の屋敷がある方角へ、まっすぐ伸びている。
ああ、また見える。
今度はそっちか。
「アシュレイ殿?」
アルヴァンが怪訝そうに振り返る。
「いえ」
私は馬車へ乗りながら答えた。
「急ぎましょう。たぶん、向こうも急いでる」




