第17話 侯爵家の朝は、娘の意思を軽く見る
朝の侯爵家は、夜より整っていて、夜より冷たい。
昨夜は少なくとも、空いた椅子が一つあった。
今朝は違う。椅子は埋まり、茶は注がれ、書類まで用意されている。誰がどこへ座るか、何を話すか、どこで話を締めるかまで、もう半分は決まっている空気だった。
こういう朝は嫌いだ。
人が何かを決める前に、部屋のほうが先に決めた顔をしているから。
私はエレノア嬢とリディア嬢の少し後ろ、記録係らしく壁際に控えていた。
アルヴァンは入口寄り。
ベルナールは今回いない。文書局に戻してある。あいつまで毎回巻き込むのもさすがに気の毒だ。
部屋の中央にはエルムローズ侯爵。
落ち着いた顔。あまり揺れない人間の顔だ。隣に侍従はいない。父娘の話として片づけるつもりなのだろう。
「昨夜は、随分と急なことをしてくれたな」
侯爵が、まず娘へ言った。
責める口調ではない。
だが、もう十分に責めている声音だった。
リディア嬢は真っ直ぐに父を見る。
「はい」
「ヴァルシエ家からの依頼が公の名目を伴うものであったことは承知している。だからこそ、こちらもあえて止めなかった」
止められなかった、ではなく、止めなかった。
言い換えはいつだって強い。
「だが」
侯爵は続ける。
「一晩明けた今、縁談そのものを感情で破綻させるつもりなら話は別だ」
感情。
出たな、と思った。
娘の嫌悪や恐怖は、こういう人間の前では便利な一語にまとめられる。感情。あるいは気まぐれ。不安定。そういうものに。
「感情ではありません」
リディア嬢が言う。
「私は、この縁談を見直したいのです」
「理由は昨日も聞いた」
侯爵の声は穏やかだ。
「不安、違和感、贈り物への不信。だが、どれもまだ“止めるに足る材料”ではない」
そう言って、侯爵は机上の書類へ手を置いた。
そこにあるのは、ルヴァンセル子爵家への返書だろう。
見覚えのある形式の便箋。侯爵家の印章台。封緘蝋まで出ている。
そして、その紙の上に。
黒いものが見えた。
まただ、と思う。
人の耳飾りに濁りのように。
手首に輪のように。
箱の縁に煤のように。
犯人は映らない。
答えも出ない。
それでも、“そこへ触れると破滅が一歩進む”ことだけはわかる。
今、侯爵の手元の返書には、それがべったりと張りついていた。
しかも濃い。
令嬢一人の醜聞どころではない。
もっと大きい。家と家の間で、あとから消せない形になる色だ。
頭の奥が少しだけ軋む。
濃い前兆を見ると、いつもこうだ。視界の色がわずかに薄くなる。寝不足の朝みたいな嫌な痛みが、こめかみの裏で鳴る。
「お父様」
リディア嬢が声を整えて言う。
「私は、昨日の箱と手紙を“感情”で怖がっているのではありません。意図があります。仕掛けがあります」
「ヴァルシエ家がそう言ったからか」
侯爵の問いは静かだった。
「違います」
「では、そこの文官が?」
視線がこちらへ飛ぶ。
来たか、と思った。
思ったより早かったな、とも。
「彼はただ、見つけただけです」
リディア嬢が答える。
ただ。
その言い方に、少しだけ苦笑したくなる。皆、結局そこへ落とし込むんだなと思う。
「見つけただけで、人の縁談を止めるには足りん」
侯爵が言う。
「エルムローズ侯」
今度はエレノア嬢が口を開いた。
「“足りん”と断じるには、昨夜の件は少々悪質でした」
「ヴァルシエ嬢」
侯爵は礼を失わない声で返す。
「御厚意は感謝している。だが、これは我が家の問題だ」
「ええ。ですからこそ、急がぬほうが良いと申し上げているのです」
「急いでいるつもりはない」
「急いでいますわ」
その一言で、部屋の温度が少し落ちた。
エレノア嬢は表情を変えない。
「昨夜のうちに、ルヴァンセル家は予定を早めて会食を求めたのでしょう?」
「……耳が早い」
「王都ですもの」
侯爵はわずかに目を細めた。
ああ、この人も少しずつ苛立ってきている。
だが、それでもまだ“話を通す側”の顔だ。
それがまずい。
机上の返書の黒は、まだ消えない。
侯爵の指が、そこへ近づくたびに濃くなる。
嫌な頭痛が一段強くなる。
駄目だ。
今それに印が乗るとまずい。
なぜまずいのか、理屈ではまだ全部は言えない。
でも、駄目なものは駄目だ。
私は一歩、前へ出た。
「その返書、今ここで封じないでください」
部屋が止まる。
言ってしまってから、ああまたやったなと思う。
身分秩序とか、場の空気とか、そういうものはたしかに大事だ。だが、いつも手遅れになる直前に限って、あまり役に立たない。
「……アシュレイ」
エレノア嬢が静かに名を呼ぶ。
咎める声ではない。
ただ、続きを言え、という響きだった。
侯爵の目が、はっきりと冷える。
「文官」
「はい」
「今のは、誰に向かってものを言ったつもりだ」
「侯爵閣下へ」
「自覚はあるらしいな」
「あります」
逃げても仕方がないので、そのまま答える。
「では、根拠を言え」
穏やかな声音だった。
だが、中身は完全に刃物だった。
「昨夜の箱と手紙が偶然でないこと」
私は返書から目を離さずに言う。
「前二件の婚約打診が不自然に消えていること。ルヴァンセル子爵家周辺で女性客への外科医往診が続いていること。元侍女の離職が異常に多いこと。元侍女エマ・クロウが、嫡男ヴィクトル殿の振る舞いについて証言の意思を示していること」
侯爵の眉が、そこで初めて大きく動いた。
リディア嬢も息を止める。
「……証言?」
侯爵が低く言う。
「どこまで掴んでいる」
「全部ではありません」
「では今の時点で、返書を止める決定打にはならん」
「ええ」
私は認めた。
「なので、家格や名誉の話をします」
侯爵の視線が鋭くなる。
「ほう」
「今、この返書に侯爵家の印が乗ると、次に何かが出たとき“エルムローズ家は不審を知りながら前向きに進めた”形になります」
私は机上の紙を指した。
「娘の不安を軽く見た、では済まなくなる」
「脅しているのか」
「いえ」
私はようやく侯爵を見た。
「紙の順番の話です」
部屋が静まる。
「箱と手紙と使いの急ぎ方から見て、向こうはもう次の段階に入っています。今朝ここで返書を出せば、主導権を相手に渡したまま、侯爵家だけが正式な前進を記録に残す」
「…………」
「その状態で証言が出るのが最悪です」
侯爵は返さない。
返さないが、視線はもう返書ではなく私に固定されていた。
「閣下」
私は続ける。
「令嬢の意思だけでは足りぬとおっしゃるなら、それで結構です」
自分でも、少しだけ声が冷えていたと思う。
「ですが、侯爵家の損得としても、この返書は悪手です」
長い沈黙。
そのあとで、侯爵がようやく言った。
「……そなたは、何者だ」
昨日も似たようなことを聞かれた気がする。
「文書局の下級文官です」
「文官風情が、よくそこまで言う」
「紙は身分を見ませんので」
言い切った瞬間、頭の奥の痛みが少しだけ強くなる。
濃い前兆はまだ消えない。
だが、侯爵の手が返書から離れた。
少しだけ、黒が薄くなる。
やはりそうか。
この紙が今封じられるのがまずかったのだ。
「お父様」
その沈黙を破ったのは、リディア嬢だった。
声はまだ細い。
細いが、今朝ここへ来たときよりずっとまっすぐだった。
「私は、嫌です」
侯爵の目が娘へ向く。
「条件の話ではなく、嫌なのです」
「リディア」
「家のことはわかっています。わかっていますけれど、それでも嫌だと、今は言います」
彼女の指先は震えていた。
それでも、視線は逸らしていない。
「だから、止めてくださいとは言いません」
そこまで言って、彼女は息を吸う。
「でも、せめて今ここで進めないで」
良い言い方だな、と私は思った。
完全な拒絶ではなく、まずは“今ここで進めるな”に絞る。侯爵相手なら、そのほうが通る可能性がある。
エレノア嬢も同じことを考えたのか、そこで静かに重ねた。
「今必要なのは決断ではなく、猶予です」
侯爵はしばらく動かなかった。
返書。
娘。
私。
エレノア嬢。
その順に視線を置いていく。
「……一日だ」
やがて、侯爵が低く言った。
「返書は今は出さん。だが一日で足りるものを持ってこい」
部屋の空気が、少しだけ動く。
「一日後も、ただの不安と憶測しかないなら、この話は予定どおり進める」
リディア嬢の顔色が変わる。
重い条件だ。
だが、ゼロではない。
「承知しました」
答えたのはエレノア嬢だった。
「一日で結構です」
「ヴァルシエ嬢」
侯爵の声は硬い。
「これはあくまで、我が家への厚意に対する礼儀として与える猶予だ」
「ええ」
「それを越えて娘を囲い込むつもりなら、話は別になる」
エレノア嬢は少しも揺れずに頷いた。
「肝に銘じます」
絶対に銘じるだけで終わらない返事だな、と思ったが口には出さない。
侯爵はそれ以上言わず、返書を机の端へ押しやった。
黒い靄が、そこでようやくほとんど消える。
頭痛も少しだけ引いた。
私は小さく息をつく。
疲れる。能力というほど大層なものではないが、こういうときに濃く見えると本当に疲れる。
「話は終わりだ」
侯爵が言う。
「リディアは今日いっぱいヴァルシエ家にいてよい。だが明日には戻せ」
「承知しました」
エレノア嬢が答える。
「アシュレイ」
侯爵の視線がまたこちらへ向く。
「はい」
「一日だぞ」
「ええ」
「言ったことに見合うだけのものを出せ」
私は少しだけ笑いそうになった。
上等だな、と思う。下級文官に向けるにはだいぶ重い言葉だが、嫌いではない。
「努力します」
「その返しは信用ならんな」
侯爵が初めて、ほんのわずかに口元を動かした。
気のせいかもしれないが、さっきまでよりはましな顔だった。
侯爵家を出たあと、馬車へ乗り込むまで誰もすぐには口を開かなかった。
最初に息を吐いたのは、リディア嬢だった。
「……一日」
「ええ」
エレノア嬢が答える。
「取れたわ」
「取れた、けれど」
リディア嬢は自分の膝の上で手を組む。
「短いわね」
「だから急ぐのよ」
私は言った。
すると彼女がこちらを見る。
「さっき」
「はい」
「どうして、お父様が返書に触る前に止めたの」
来たか、と思う。
エレノア嬢も何も言わない。
この問いはたぶん、二人とも待っていた。
私は窓の外を一度見てから、答える。
「……見えることがあるんです」
「何が」
「破滅の前兆だけ」
言葉にすると、やはりどこか間抜けだなと思う。
だが、嘘ではない。
「誰がやったかも、どうすれば防げるかも、見えない」
私は続ける。
「でも、“そこに触れるとまずい”ってときだけ、変な色が見える」
リディア嬢が目を見開く。
エレノア嬢は、逆に静かだった。
やっぱり、半分くらいは察していたのだろう。
「今日の返書もそうだった」
私は言う。
「今あれに侯爵家の印が乗るのだけは、駄目だと思った」
少しの沈黙。
それからリディア嬢が、ひどく小さな声で言う。
「……だから、耳飾りも」
「ええ」
「箱も」
「はい」
「私の手首も?」
そこは、少しだけ迷った。
「見えてました」
認めると、彼女は数秒黙り、それからふっと笑った。
「ずるいわね」
「何がでしょう」
「それを今さら言うの」
その言い方は責めているようで、少し違った。
安堵と、呆れと、少しだけ拗ねたものが混じっている。
エレノア嬢が静かに言う。
「それで、今日の私は何色に見えたの」
不意打ちみたいな問いだった。
私は思わず彼女を見る。
「……聞きます?」
「聞くわ」
「やめたほうが」
「聞く」
強いなあ。
「今は何も」
私は正直に答えた。
「少なくとも、あなた自身には」
エレノア嬢は少しだけ目を細めた。
満足したのか、物足りないのかはわからない。
「そう」
「ええ」
「なら結構」
何が結構なのかはわからない。だが、今はそれでよかったのだろう。
馬車が動き出す。
一日。
証言を固めて、商会筋を押さえて、仲介人を揺らして、父親の条件をひっくり返すには短い。
でもゼロではない。
そして、ようやく少しだけはっきりした。
私の妙な目は、ただの観察眼ではなかったらしい。
今さら自分で言うのも何だが、だいぶ不便な能力だ。
「……帰りたい」
また呟くと、リディア嬢が今度は先に言った。
「駄目ですわ」
思わずそちらを見る。
彼女は少しだけ笑っていた。
まだ不安そうで、まだ疲れていて、でも昨日よりは少しだけ自分の声で。
「それ、移るんですね」
私が言うと、エレノア嬢が横で小さく笑った。
「ええ。いいことだわ」
どこがだろうなあ、と思いながら、私は窓の外へ目をやった。
一日は短い。
短いが、動くには十分だ。
問題は、その一日のうちにどこまで“次”が見えるかだろう。




