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第16話 封筒の中身は、令嬢に見せるために作られている

 夜更けの公爵家で、公爵令嬢の私室へ呼ばれる。


 文章にすると、かなり見栄えが悪い。

 実態は、細工入りの箱から出てきた封筒の中身を確認するための臨時会議である。色気も夢もない。あるのはだいたい胃痛だけだ。


 案内されたのは、寝室そのものではなく、その手前の小さな書き物部屋だった。


 机。

 灯り。

 封緘箱。

 筆記具。

 そして、白布の上に置かれた例の封筒。


 いかにも“開けるためにここへ持ってきました”という顔をしている。

 たいへん不本意だが、私ももうそういう顔のものは見慣れてきた。


「座って」


 エレノア嬢が言う。


「立ったままでも」


「今夜は長くなるわ」


「そうですか」


「ええ。そうよ」


 断定されたので、大人しく座る。


 エレノア嬢は夜着に薄い上衣を羽織っただけの軽装だった。昼間のようなきっちりした装いではない。なのに、こうして机の向こうへ座ると、結局この部屋の中心は彼女になる。理不尽だと思う。


 アルヴァンも同席している。

 さすがにこの時間でも姿勢が崩れないのは見事だが、少しは疲れてほしい。そうすると親近感が湧く。


「薬師から」


 家令が小箱を一つ机へ置いた。


「粉の見立てが出ました」


「早いですね」


「起きていればいつでも使う、と常々伝えておりましたので」


 公爵家、怖いな。


「中身は?」


 エレノア嬢が問う。


「眠気を誘う粉末に、少量の刺激物が混じっております」


「刺激物?」


 私が聞くと、アルヴァンが頷く。


「目と喉に軽く反応を出す程度です。袋が顔の近くで破れれば、涙と咳が出る。体調不良にも、取り乱したようにも見せられますな」


「……なるほど」


 私は封筒へ目をやった。


「じゃあこれは、“手紙を読ませる前提”じゃなく、“手紙を読んだあとで具合を崩させる前提”でもあるわけか」


「ええ」


 エレノア嬢の声が冷える。


「ひどく丁寧な悪意ね」


「上品な場で人を壊すための手際としては、だいぶ洗練されてます」


 自分で言っていて嫌になる。


 私は白布の上の封筒を見る。


 昼間、箱の紐にも、蓋の合わせ目にも、例の黒い靄が絡んでいた。

 今は封筒の縁に残っている。薄く、乾いた煤みたいに。しかも封の切り口だけ濃い。


 また見えている。


 人には見えない。ろくでもない前兆。


 こういうときは大抵、中身そのものより“それを読んだあとの流れ”がまずい。

 物に残る前兆は、いつもそうだ。


「アシュレイ」


 エレノア嬢が静かに言う。


「また、見えているのね」


 私は少しだけ黙った。


 さっきも、似たようなことを聞かれた。

 そのときより、今の問いはずっと確信に近い。


「……ええ」


 嘘をつく意味も薄いので、そう答える。


「封筒の縁が、嫌な色してます」


 エレノア嬢はそれ以上詳しく問わなかった。

 アルヴァンも何も言わない。ありがたいことだ。ここで説明を求められても、私にできるのは“わかるんです”という不誠実な返答くらいしかない。


「では、開けましょう」


 エレノア嬢が言う。


「今度は糸も粉もないわね?」


「ないです」


 私は手袋をはめ、封筒を慎重に開いた。

 中には便箋が一枚。薄い、上等な紙。香りはついていない。そういうところは妙にまともだ。


「読みます」


「ええ」


 私は一度だけ目を走らせた。


 そこで、思わず顔をしかめた。


「……ひどいな」


「何が書いてあるの」


 エレノア嬢が問う。


 私は便箋から目を離さずに答えた。


「脅しです」


「具体的に」


「朗読していい内容では、あまり」


「構わないわ」


「私はちょっと構いますが」


「読みなさい」


 命令口調だった。

 はいはい、と心の中でだけ返して、私は文面を追う。


「“昨夜、箱を一人で開けなかったのは賢明だった”」


 部屋の空気が少しだけ変わる。


「“今度も人前では笑っていなさい。従順であれば傷は浅い”」


 エレノア嬢の目が静かに細くなる。


「“父君の前で余計なことを言わなければ、婚約は穏やかに進む。侍女のように無駄に泣く必要もない”」


 アルヴァンの声が、低く落ちた。


「侍女、だと」

その声には怒りで満ちている。


「ええ」


 私はさらに読む。


「“次に会うときは、箱の中身を身につけて来なさい。そうすればこちらも手荒な確認は省ける”」


 そこで便箋を机へ置いた。


「以上です」


 静かだった。

 静かで、逆に耳が痛いくらいだった。


「……そう」


 エレノア嬢が言う。


 声は落ち着いている。

 落ち着いているが、だいぶ危ない。


「ずいぶん自信があるのね」


「自信というか」


 私は便箋を指先で軽く叩いた。


「これは、“どうせ読まれても構わない”書き方です」


「どういう意味」


 私は紙を持ち上げる。


「普通の脅迫なら、本人しかわからない言い回しにするんです。でもこれは違う」


「違う?」


「むしろ、本人が“誰かに見せても、自分の立場が危うくなる”ように作ってある」


 エレノア嬢が少し身を乗り出す。


「説明して」


「たとえば、“箱を一人で開けなかったのは賢明”って一文」


 私はそこを指した。


「これ、自分が箱に何か仕込んだと認めてるようでいて、同時に“令嬢はそういう箱を一人で開ける前提のやり取りがあった”とも読める」


「……なるほど」


「しかも“人前では笑っていなさい”“父君の前で余計なことを言わなければ”って、令嬢本人の振る舞いを“向こうと通じている側の人間”みたいに書いてる」


 アルヴァンが低く言った。


「読んだ相手がどう受け取るかで、いくらでも意味を曲げられる文ですな」


「ええ」


 私は頷く。


「要するにこれは、リディア嬢を怖がらせるための手紙であると同時に、“見つかっても彼女が困る手紙”なんです」


「だから」


 エレノア嬢が静かに言う。


「封筒の中身は、リディアに見せるために作られている」


「そういうことです」


 私は便箋を裏返した。


「しかも、“侍女のように泣く必要もない”が決定打ですね」


「エマのこと?」


「たぶん」


「なぜそう言い切れるの」


「ここで急に“侍女”が出る意味がないからです」


 私は文面を見ながら続ける。


「婚約候補の令嬢に送る文に、“侍女のように”なんて入れない。入れるなら、相手が侍女の件をうっすらでも察してる前提です」


「つまり、知っていることを知っている相手への脅し」


「ええ。エマが何か見た、あるいはエマ自身が対象だった、その両方をリディア嬢へ匂わせてる」


 エレノア嬢は、そこで初めて小さく息を吐いた。


「下品ね」


「非常に」


 私は答える。


「ただの暴力じゃない。“怖くて、しかも誰にも見せられない形”にしてくるのが本当に悪質です」


「……リディアに見せなくて正解だったわ」


「ええ」


 そのとき、廊下側で足音がした。


 ラナだろうと思ったが、ノックの音が少し弱い。

 嫌な予感がして、私は思わず扉を見る。


「何かしら」


 エレノア嬢が声をかける。


「……リディア様が」


 扉の外から、ラナの控えめな声。


「少しだけ、お話をしたいと」


 部屋の空気がまた変わる。


 エレノア嬢は私を見る。

 私は便箋を見る。


 見せるべきではない。

 だが、何も知らないままにもしておきたくない。


「どうする?」


 彼女が問う。


「全部は無理です」


 私は答えた。


「でも、何か来ていたことは伝えたほうがいい」


「中身は?」


「今は要約だけで十分です。“向こうが焦って、脅しの段階に入った”くらい」


 エレノア嬢は少しだけ考えてから頷いた。


「いいわ」


「あと、私がいると話しにくいなら」


「いて」


 その返答は、エレノア嬢ではなかった。


 扉の向こうから聞こえた、細い声。

 リディア嬢だ。


 ラナが静かに扉を開ける。

 そこに立っていた彼女は、さっきより少しだけ落ち着いて見えた。少なくとも立ち方は整っている。


 でも、目は眠れていない人の目だった。


「……入っても?」


「もちろん」


 エレノア嬢が言う。


 リディア嬢は部屋へ入り、机の白布と、その上の便箋に気づく。

 気づいた瞬間、ほんの少しだけ呼吸が止まるのが見えた。


「来ていたのね」


 彼女は言う。


「ええ」


 エレノア嬢が答える。


「でも、あなたに全部を見せる気はないわ」


「どうして」


「今見る必要がないから」


 リディア嬢は少しだけ唇を噛む。


 反発ではない。

 “見たいのに見たくない”顔だ。


 私はそこで、できるだけ平坦に言った。


「脅しです」


 リディア嬢の目が、こちらへ向く。


「あなたが、今夜ここにいるのを嫌がってる」


「……そう」


「それと、こちらが箱を開けたことも、たぶん向こうは気づいてる」


「どうして?」


「文面の癖です」


「癖」


「ええ。見つかる前提で書いてる」


 リディア嬢はしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ頼りない声で言う。


「私、やっぱり見ないほうがいい?」


 正直に言えば、見せたくない。

 でも、ここで子ども扱いすると逆に崩れる気もする。


 私は少しだけ考えて、便箋の一部を指で隠した。


「一行だけなら」


「どこ」


「ここ」


 私は読み上げる。


「“父君の前で余計なことを言わなければ、婚約は穏やかに進む”」


 それだけ。


 リディア嬢は、その一行を聞いて、少しのあいだ何も言わなかった。


 やがて、笑いそうな、泣きそうな、どちらでもない顔で言う。


「……私が、父に何か言うと困るのね」


「ええ」


 私は答える。


「それだけで、もう十分です」


 リディア嬢は小さく息を吸い、それをゆっくり吐いた。


「わかったわ」


 それから、思いのほかまっすぐな目でエレノア嬢を見た。


「明日、父に話す」


「ええ」


「そのとき、あなたたちにもいてほしい」


 エレノア嬢は一拍も置かずに頷いた。


「もちろん」


 リディア嬢の視線が、今度は私へ移る。


「アシュレイ様も」


「私も?」


「ええ」


「……理由を聞いても」


 すると彼女は、少しだけ困った顔をした。


「あなたがそばにいると、どんなふうに言われても、“そうじゃないんだ”ってちゃんと踏ん張れるから」


 それはどういう評価なのだろう。

 ありがたいような、ありがたくないような。


「便利な使い方をされてる気がします」


 思わずそう言うと、リディア嬢は小さく笑った。


「そうかもしれません」


「否定しないんですね」


「今は、否定する余裕がありませんもの」


 その言い方のほうがずっと危うかった。


 エレノア嬢が静かに口を挟む。


「リディア」


「はい」


「今夜はもうこれ以上考えない」


「でも」


「考えても、夜のうちは悪いほうへしか転がらないわ」


 その言葉は、たぶん彼女自身にも向けているのだろうと思った。


「明日の朝、私たちがいる前で話す。いいわね?」


「……ええ」


「箱も、手紙も、こちらで預かる」


「わかりました」


 リディア嬢は頷く。


 その頷き方が、昨日より少しだけ自分のものに見えた。

 たぶん、“待つだけ”からもう一歩だけ動いたのだろう。


「では、寝なさい」


 エレノア嬢が言う。


「今度は本当に」


「努力します」


「努力ではなく」


「寝ます」


 ようやく、少しだけまともな笑みが返る。


 リディア嬢が部屋を出ていく。

 扉が閉まると、静けさが戻る。


 私は便箋を封筒へ戻しながら、小さく息をついた。


「……明日ですね」


「ええ」


 エレノア嬢が答える。


「侯爵家で話す」


「父親が素直に聞いてくれるといいんですが」


「聞かせるの」


 知ってた。

 やはりこの人は待たない。


「アシュレイ」


「はい」


「あなた、明日は侯爵の前でも今みたいに話しなさい」


「今みたいに?」


「ええ。余計な飾りをつけないで」


「侯爵相手にそれを求めますか」


「求めるわ」


「だいぶ無茶ですよ」


「でも、できるでしょう?」


 そう言われると、少しだけ困る。


 できるかどうかで言えば、たぶんできる。

 問題は、そのあとで私の胃がどうなるかだ。


「……胃と社会的寿命を犠牲にすれば」


 結局そう答えると、エレノア嬢は少しだけ笑った。


「ええ。頼もしいわね」


 その返しが、前よりずっと自然だった。


 どうにもよくない。

 私は最近、この公爵令嬢に自分の厄介な性分を知られすぎている気がする。


 けれど、今はそのことを深く考えないほうがよさそうだった。

 明日の侯爵家訪問のほうが、よほど目の前の問題だからだ。


 私は白布の上の封筒を見る。

 黒い靄は、まだ薄く縁に残っている。


 でももう、最初ほど濃くない。


 たぶん、次に起きることがはっきりしたからだ。

 前触れは、行き先が定まると少しだけ形を変える。そういうものだ。


「帰りたい」


 ぼそりと漏らすと、エレノア嬢が言った。


「明日が終わったら、少しは近づくかもしれないわね」


「帰宅がですか」


「平穏が」


 私はそこで、ほんの少しだけ笑った。


「それはだいぶ遠そうだなあ」

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