第15話 公爵家の客間で、侯爵令嬢は眠れない
夜の公爵家は、昼より静かで、昼より圧がある。
広い屋敷というのは、人の気配が減るほど本性を出すものだ。昼間は侍女や使用人や書類が行き来して、それなりに“屋敷としての仕事”の顔をしている。だが夜になると、それが急に“家そのもの”の顔になる。
ヴァルシエ家の夜は、整いすぎていた。
廊下の灯りは等間隔。
壁の絵も、置かれた花も、どこまで行っても乱れがない。
静かなのに、少しも気が抜けない。
私は東棟の実務室で、一人、報告のまとめをしていた。
南区で拾った情報。
マルタの供述の断片。
エマ・クロウの証言。
ルヴァンセル子爵家周辺の記録。
紙にすると、どれも急に冷たくなる。
人の声や涙が混じっていたときより、むしろ逃げ道がなくなるのだから不思議だ。
「帰りたい」
誰もいない部屋で呟いても、返事をする相手はいない。
ありがたいことだった。
最近は、この台詞に即座に否定を返す人間が増えすぎている。
私はインクを継ぎ足し、紙の端へ時刻を書き込む。もう遅い。普通の文官ならとっくに寝台に沈んでいていい時間だ。だが私は普通ではないらしい。少なくとも周囲の評価としては。
そのとき、廊下側の扉が静かに叩かれた。
「失礼します」
侍女の声だった。
「アシュレイ様、少々よろしいでしょうか」
様。
この屋敷に来てから、まだその呼ばれ方に慣れない。どうにも背中がむず痒い。
「どうぞ」
入ってきたのは、エレノア嬢付きの侍女ラナだった。夜着ではないが、昼間より柔らかい色合いの衣をまとっている。時間相応の装いだ。
「お嬢様がお呼びです」
「今から?」
「はい」
「何かありました?」
ラナは少しだけ言葉を選んだ。
「……リディア様が、お休みになれないようで」
なるほど。
それ自体は不思議ではない。今日一日であれだけのことがあったのだ。眠れなくて当然だろう。
だが、わざわざ私を呼ぶ理由がある。
「それだけですか」
「それと」
ラナは声を少しだけ落とした。
「先ほど、エルムローズ侯爵家から追加の荷が一箱届きました」
私は顔を上げた。
「今ごろ?」
「ええ。リディア様のお部屋から、必要なものをまとめたと」
嫌な予感がした。
正確には、嫌な予感というより、頭の奥をちり、と小さく引っかかれる感覚に近い。
見てみないと断定はできない。だが、たぶん何かある。
「……行きます」
椅子を引いて立ち上がる。
帳面を閉じ、ペンを置きかけて、少しだけ迷ってから小型灯を一つ持った。
夜は、影の出方が昼と違う。
そういうときほど、あれはよく見える。
案内されたのは東棟の客間だった。
昼間の応接とは違い、今は私的な客を休ませるための部屋になっている。壁紙は柔らかな生成り。寝台の天蓋も淡い色で、窓辺には小ぶりなランプが一つ。上品で、静かで、いかにも“気を落ち着けるための部屋”だ。
その中央に、エレノア嬢とリディア嬢がいた。
エレノア嬢は椅子に座っている。
リディア嬢は寝台の脇に立ったまま。昼よりも簡素な薄い夜着に外衣を羽織っていて、髪も半ば解かれていた。顔色は悪い。笑っていない。たぶん、今は笑う元気もないのだろう。
「遅くにごめんなさい」
エレノア嬢が言う。
「いえ。どうされました」
私がそう返すと、リディア嬢が一歩だけ下がる。
その足元の脇に、問題の箱が置かれていた。
白木の小箱。
上等だが、侯爵家の令嬢の化粧道具入れにしては少し地味だ。運搬用の仮箱に近い。蓋に見覚えのない淡い紐が巻かれている。
そして、その紐の上に。
黒いものが見えた。
墨を薄く溶いて垂らしたみたいな、嫌な色。
箱の蓋から流れ落ちるのではなく、むしろ箱へ“指で掴みかかった跡”みたいに絡んでいる。細い靄。乾いた指の跡。どちらともつかない。
まただ、と思った。
また見えた。
最近、この能力にも拍車がかかっている気がする。
人の手首に輪のように。
耳飾りの真珠に、濁りのように。
封蝋の端に、煤のように。
名前は知らない。
知らなくても、意味だけはだいたいわかる。
ろくでもないことが起きる前触れだ。
しかも濃い。
こういう濃さのときは、たいていもう一歩手前まで来ている。
「アシュレイ?」
エレノア嬢の声で、私は我に返った。
「……その箱、誰も触っていませんね」
少し声が硬くなった自覚があった。
リディア嬢が小さく頷く。
「届いたと聞いて、わたくしも少し嫌な気がして」
「開けていません」
エレノア嬢が続ける。
「あなたが来るまで待ったわ」
助かる、と思った。
同時に、そこまで当然みたいに待たれていることに、少しだけ胃が痛くなる。
「誰が運んだんです」
「侯爵家からの使いと、うちの侍女二人」
アルヴァンの声が背後からした。
いつの間にか部屋へ入っている。気配を殺すのが上手い人はやはり少し怖い。
「受け取りは私が確認しました。だが、中身までは触れていません」
「……わかりました」
私は箱の前にしゃがみ込む。
灯りを近づける。黒い靄は、やはり紐の結び目に濃い。
箱そのものより、そこが入口なのだろう。
「リディア嬢」
「はい」
「この箱、心当たりは」
「たぶん、寝間着か……小物ですわ。私室に残したものを詰めたのだと思います」
「箱自体には?」
「見覚えがない……気がします」
曖昧だ。だが充分だ。
私は紐の結びを見ながら言う。
「ほどき方が少し変です」
エレノア嬢が身を乗り出す。
「どういう意味?」
「一度結んでから、結び直してる」
「また?」
リディア嬢の声が少しだけ掠れる。
「ええ。最初の結び目がきつすぎて、上から緩めに被せてある。急いだ人間の手つきです」
私は灯りをもう少し近づけた。
すると、黒い靄のさらに内側に、細い銀色の線がちらりと見えた。箱の隙間、ちょうど蓋と本体の合わせ目だ。普通の人には光の反射にしか見えないだろう。だが私には違う。
あれは、“そこに触れるな”の色だった。
「下がってください」
思ったより強い声が出た。
リディア嬢がびくりとする。
しまった、と思ったがもう遅い。
「……ごめんなさい。少し離れて」
言い直すと、彼女は黙って頷き、エレノア嬢の傍へ下がった。
「何が見えてるの」
エレノア嬢が静かに訊く。
鋭い。
鋭いが、今ここで全部は説明できない。
「たぶん、蓋の内側に何か挟んであります」
私はそれだけ言った。
「紙か、針か、あるいは両方」
リディア嬢の顔色がまた少し悪くなる。
私は内心で舌打ちをこらえた。
言い方がよくなかった。だが、甘く言って開けさせるよりはましだ。
「アルヴァン殿」
「あります」
家令は言い終わる前に、薄手の手袋と細い銀の紙刀を差し出した。準備がよすぎる。ありがたいが。
「感謝します」
手袋をはめ、紐の結び目を切らずに浮かせる。
紙刀を蓋の端へ差し込み、少しだけ持ち上げる。
その瞬間、内側から細い音がした。
かちり。
嫌な音だ。
私はすぐ手を止める。
「……やっぱり」
「何」
エレノア嬢の声が冷える。
「蓋の裏に糸が張ってある」
「糸?」
「ええ。強く開けると、中身ごと引っ張る仕掛けです」
「何を」
「そこまではまだ」
紙刀を少しずつ滑らせ、蓋の隙間を広げる。
内側に張られていたのは、ごく細い絹糸だった。糸の先は蓋裏ではなく、箱の底へ落ちている。
「紙袋」
私は呟く。
「小さな紙袋が吊られてる」
「中身は」
「……粉です」
嫌な予感が当たった。
「香りは」
アルヴァンが問う。
「まだ」
私は顔を近づけすぎないよう気をつけながら、さらに慎重に糸を切る。
紙袋は力なく箱底へ落ちた。蓋を完全に開ける。
中には夜着と小物が数点。
その上へ薄紙の袋が一つ、破れかけた形で載っていた。
「最悪ではない」
思わず漏らす。
「何が」
エレノア嬢が問う。
「これ、強く開けると粉が舞うだけです。針よりは《《まし》》ですね」
「まし、なのね」
「比較対象が悪いだけで、十分に悪質ですが」
私は袋を紙刀の先でつつく。中身は細かな白粉。香りは薄い。目にしみる系統ならもっと刺激がある。となると。
「眠り薬か、気分を悪くする類か」
「断定できる?」
「すぐには」
私は箱の中の夜着を持ち上げた。
その下に、もう一枚紙が挟まっていた。
ああ、やっぱり。
向こうも手口を変えながら本質は変えない。
「読まないで」
不意に、リディア嬢が言った。
私は顔を上げる。
彼女は唇を強く引き結んでいた。
「それ、たぶん」
声がかすかに震える。
「たぶん、見たくないものですわ」
正しい。
たぶんその通りだ。
私は少しだけ迷い、それから答えた。
「わかりました」
「読まないの?」
エレノア嬢が訊く。
「今ここでは」
私は紙を裏返したまま封筒へ滑らせた。
「本人の前で開いて、また余計な波風を立てる必要はない」
リディア嬢が少しだけ目を見開く。
そこまで意外そうな顔をされると、こちらが少し困る。
「……気を遣えるのね」
ぽつりと言われて、思わず顔をしかめた。
「失礼だな」
「だって、泣いてる最中に次の確認事項を聞く方でしょう?」
「必要だったので」
「そういうところが」
リディア嬢はそこまで言って、少しだけ息をついた。
「……ありがたいのですけれど」
その言い方が妙に素直で、私は少し視線を逸らした。
こういうのは困る。本当に困る。
「粉のほうは、薬師に回します」
アルヴァンが言う。
「紙は」
「私が見る」
エレノア嬢が即答する。
私は反射的に口を挟んだ。
「一人ではやめてください」
部屋が少しだけ静かになる。
しまった。
言い方が完全に家令のそれだった。
「……どうして?」
エレノア嬢が、静かに問う。
「中身が誰宛でも、読む人間を選びたい」
私は言葉を整える。
「リディア嬢が見たくないと言ったなら、まず一度こっちで受ける。あなた一人だと、そのまま全部背負うでしょう」
エレノア嬢は少しだけ目を細めた。
怒っているわけではない。
たぶん、測っている。
「では?」
「私もいます」
「あなたを巻き込む話ではないかもしれないわ」
「今さらです」
その返しに、彼女はほんの少しだけ息をついた。
「……そうね」
そこでようやく、部屋の空気が少しだけ動く。
リディア嬢が寝台の縁に腰を下ろした。
さっきより少しだけ顔色が悪い。仕方がない。眠れないところへ、追加の箱でこれだ。
「リディア嬢」
私は少し声を落とした。
「今夜は、この部屋の外に侍女を二人置きます」
「二人も?」
「ええ」
「大げさでは」
「大げさで結構です」
言い切ると、彼女は少しだけ黙った。
「それと、窓は内側から留めて」
「……はい」
「誰かの名前で呼ばれても、扉は侍女越しで」
「はい」
「箱と手紙は、明日あなたが起きてから必要な分だけ説明します」
「必要な分だけ?」
「全部は不要かもしれないので」
リディア嬢は私を見る。
その目が、ひどく疲れているのに、どこか少しだけ安堵している。
困るな、と私は思った。
そういう目を向けられるのは、本当に困る。
「アシュレイ様」
「何でしょう」
「……あなた、怒っているの?」
思いもよらないことを聞かれた。
「何に」
「わたくしのことで」
部屋の空気がまた止まりかける。
エレノア嬢でさえ、少しだけこちらを見た。
私は数秒、言葉に迷った。
怒っている。
たぶんそうだ。
だが、私はそれをあまり上手に名前で呼ばない。
「寝覚めが悪いだけです」
結局、そう答えると、リディア嬢は少しだけ笑った。
「それ、便利な言い方ですのね」
「多用しています」
「知ってるわ」
そこでエレノア嬢が立ち上がる。
「では、今夜はここまで」
彼女はリディア嬢の前まで来て、ごく自然に髪へ手を伸ばした。頬へかかった一房を、そっと耳の後ろへ流す。姉が妹にするみたいな手つきだった。
「もう誰にも箱は開けさせない」
静かな声。
「だから、あなたは寝なさい」
「……眠れるかしら」
「眠れなくても、横になっていればいいわ」
リディア嬢は少し迷うようにしてから、小さく頷いた。
「ええ」
「明日のことは明日考える」
「はい」
やりとりは短い。
なのに、見ているだけで少し胸の奥が重くなる。
たぶんリディア嬢は、こうやって言い切ってもらうのに慣れていない。
私もあまり慣れていない。
だから少し、眩しいのかもしれない。
部屋を出る直前、リディア嬢がまた私を呼んだ。
「アシュレイ様」
「はい」
「明日も……います?」
その問いに、エレノア嬢の視線が先にこちらへ飛んでくる。
妙な圧がある。なぜだ。
「たぶん」
私は答える。
「たぶん、まだ帰れないので」
リディア嬢はそこで、ようやく少しだけ安心したみたいに頷いた。
「よかった」
その一言は、寝台の上で丸まるようにして座っている彼女には、あまりにも無防備だった。
私は一礼だけして部屋を出る。
廊下へ出ると、静けさが戻ってきた。
アルヴァンは薬師の元へ向かう。
ラナは客間の外へ残る。
ベルナールは眠そうな顔で目をこすっている。もうだいぶ限界だろう。私も人のことは言えないが。
残ったのは、私とエレノア嬢だった。
「あなた」
彼女がぽつりと言う。
「本当に、こういうことになると目が変わるわね」
「そうですか」
「ええ」
「不本意です」
「そういうところが変なのよ」
変と便利の間を、私は日々往復している気がする。
「紙、見ますか」
私が封筒を示すと、エレノア嬢は短く頷いた。
「私の部屋で」
「はい」
「それと」
彼女は少しだけ間を置いた。
「今夜の箱、見た瞬間に何かわかったのでしょう」
やはり、そこを見ている。
私はすぐには答えなかった。
答えられないというより、どこまで言葉にしていいか測っていた。
「……わかることがあるんです」
「何が」
「ろくでもないものが近いときに、少し」
エレノア嬢は黙って聞いている。
追及しないのがありがたい。今はまだ、それで充分だ。
「今回は濃かった」
「そう」
「ええ」
「なら、覚えておくわ」
それだけだった。
多くを聞かない。
でも、忘れない。
その返し方が、いかにもこの人らしかった。
私は少しだけ息をつく。
今夜はまだ終わらない。
封筒の中身も見なければならないし、粉の正体も待たなければならない。
けれど少なくとも一つだけ、はっきりしている。
リディア・エルムローズ侯爵令嬢は、もう“待つだけの場所”から半歩出た。
ほんの半歩だが、大きい。
その半歩を、向こうが見逃してくれるとは思えない。
「帰りたい」
また小さく呟くと、隣でエレノア嬢が言った。
「駄目よ」
「知ってます」
「ええ。知っているでしょうね」
その返しが少しだけやわらかくて、私はほんの少しだけ苦い顔をした。
どうにも最近、この公爵令嬢の“駄目”は前ほど嫌ではない。
それが一番よくない気がしている。




