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第14話 会食の席は、令嬢不在で始まる

* エルムローズ侯


 会食の席に、娘はいなかった。


 本来なら中央寄りに置かれるはずの椅子だけが空いている。白い布、磨かれた銀器、未だ触れられていないグラス。そこだけ妙に整いすぎて見えるのは、座るべき人間がいないからだろう。


 私はその空席を見てから、手元の書状へもう一度目を落とした。


 ヴァルシエ公爵家からの正式依頼。

 文面は丁寧で、いっそ腹立たしいほど隙がない。


 慈善会と布施会の準備にあたり、リディア・エルムローズ侯爵令嬢の助力を仰ぎたい。

 ついては今夕より翌朝まで、ヴァルシエ邸へお迎えにあがる。

 急ではあるが、王宮側実務確認も絡むため、どうかご厚意を賜りたい。


 断りにくいよう、完璧に整えられた文だった。


 しかも、私が返答を整えるより先に、娘はすでにヴァルシエ邸へ入っている。


 半刻前、執事補からその報告を受けたとき、私はさすがに額を押さえた。

 許可を待たずに公爵家の馬車へ乗ったのかと問えば、違うという。

 ヴァルシエ家の使者が到着した時点で、リディア本人が「慈善会準備のため参ります」と自ら動いたのだと。


 その言い方をした以上、無理に引き戻すわけにもいかない。


 娘が自分の意思で公の名目を選んだ。

 そう整えられてしまえば、父である私にも扱いは難しい。


「旦那様」


 執事補が静かに告げる。


「ルヴァンセル子爵閣下ご到着です」


「……通せ」


 会食を中止にするには、もう遅い。

 中止は中止で、こちらに何か隠したいことがあるように見える。


 ならば、席は始める。

 娘不在のままでも。


 ルヴァンセル子爵は、いつもどおり穏やかな笑みで入ってきた。

 その後ろに嫡男ヴィクトル。背は高く、整った顔をしている。評判どおり、外から見れば感じのよい青年だった。


 外から見れば、だが。


「お招きありがとうございます、侯爵閣下」


 子爵が一礼する。


「こちらこそ。急な時刻変更にも応じていただき感謝する」


「いえ。良縁のためなら、多少の無理は」


 そう言って彼は、視線だけで席をなぞった。

 娘の不在に気づかないはずがない。


 私は先に言う。


「娘は今夕、急遽ヴァルシエ公爵家へ出向いている」


 子爵の眉がわずかに動いた。

 わずかだが、たしかに。


「ほう」


「明朝の布施会準備に、王宮側の確認が入ったとかでな。公爵令嬢たっての依頼だ」


「それはまた、光栄なことで」


 子爵はそう言って笑う。

 笑うが、目の奥が少しだけ計算に走ったのがわかった。


 ヴィクトルは父ほど上手く隠せなかった。

 一瞬だけ、表情が硬くなる。


「リディア嬢も、ご多忙なのですね」


 嫡男が言う。


 声音は丁寧だ。

 だが、その丁寧さの裏にあるものを、私は今夜初めて少し気にした。


「公の場に関わることだ。断れまい」


 私が返すと、ヴィクトルは小さく笑った。


「もちろん。ですが、今夜少しだけでもご挨拶をと思っておりましたので、残念です」


 残念。

 それは普通の感想だ。


 だが彼の言い方は、娘の体調や都合を惜しむ響きではなく、“予定が狂った”ことを惜しむ音に近かった。


 私は席へ着くよう促し、会食を始める。


 前菜が運ばれ、酒が注がれ、話題は領地の収穫や王都の物価へ流れる。どれも無難だ。無難で、空っぽで、だからこそ腹の内がよく響く。


「ヴァルシエ公爵家とは、以前から親しく?」


 子爵が何気ない調子で問う。


「社交の範囲では」


「リディア嬢と公爵令嬢も」


「それなりに面識はある」


「それは結構」


 結構、と言いながら、子爵はグラスの脚を指で軽く叩いた。癖なのか、苛立ちなのか。おそらく後者だ。


 ヴィクトルが口を開く。


「公爵令嬢は厳しい方だと聞きます」


「そうかもしれぬな」


「リディア嬢のような優しい方には、少し気疲れのするお相手ではありませんか」


 私はそこで初めて、息の入れ方を変えた。


 今のはただの世間話ではない。

 娘の交友をさりげなく値踏みし、相手の影響を軽く扱う言い方だ。


「気疲れするかどうかは、娘が決めることだ」


 そう返すと、ヴィクトルは微笑んだまま頷いた。


「ええ、もちろん」


 もちろん。

 その言葉が、妙に軽い。


 子爵がすぐに話を挟んだ。


「若い者ですので。少々口が先に出る」


「いや」


 私は答える。


「本音は、口が先に出るくらいのほうが見えやすい」


 一瞬だけ、場が静まる。


 子爵の笑みは崩れない。

 だが、ヴィクトルの目はわずかに細くなった。


 そのとき私は、昼間にリディアが言った言葉を思い出した。


 皆さま、そうおっしゃいます。

 穏やかな方だと。


 たしかに今のところ、彼は穏やかだ。

 だが、穏やかさの中に“思いどおりにならないことへの不満”が混じる瞬間を、私は今こうして見ている。


 娘の不安は、家格への臆病さだけではなかったのかもしれない。


 その考えが頭をよぎったところで、給仕が一人、控えめに近づいてきた。


「旦那様」


「何だ」


「ヴァルシエ公爵家より急ぎの追状が」


 追状。

 こんな席の最中に寄越すとは、随分と思い切ったことをする。


「今か」


「公の用向きに関する確認とのことです」


 子爵の前で無視するのも妙だ。私は書状を受け取り、封を切る。


 短い。

 だが、効果は十分だった。


 明朝の布施会席順確認につき、リディア嬢には今夜のうちよりヴァルシエ邸へご滞在願っております。王宮実務補佐宛にも同様の確認を入れておりますので、侯爵家にはご安心いただきたく――


 私は書面から目を上げた。


 娘は、今夜こちらへ戻らない。

 しかもそれが、もう王宮側へも流れている。


 きれいに逃げ道を塞がれた。

 いや、正確には、こちらが無理に引き戻して“公務軽視”に見える道だけを塞がれたのだ。


 実に上手い。


「侯爵閣下?」


 子爵が穏やかに促す。


 私は書状を閉じた。


「娘は今夜、公爵家へ泊まることになった」


 さすがに、子爵の表情も一瞬だけ固まる。


「ほう。それはまた、急ですな」


「公の確認が絡む以上、こちらからも強くは言えん」


「……なるほど」


 子爵は頷く。

 頷くが、横の嫡男はそうではなかった。


「今夜、戻られないのですか」


 ヴィクトルが言う。


 その問いは、場にそぐわないほど真っ直ぐだった。

 心配というより、確認。もっと言えば、焦りに近い。


「そう聞いている」


 私が答えると、彼は一拍だけ黙った。

 それからすぐ、笑みを作り直す。


「それは残念です。ぜひご本人にも、私どもの誠意を」


「誠意」


 私はその言葉を繰り返した。


「今夜の会食が、か」


「ええ」


「娘抜きで始まった席に、ずいぶん重い意味を持たせるのだな」


 ヴィクトルの目が、ほんのわずかに冷えた。


 子爵が柔らかく割って入る。


「若い者は急ぎます。ですが、侯爵閣下にご不快があったなら謝罪を」


「不快ではない」


 私は答えた。


「ただ、少し気になっただけだ」


 何が、と聞き返すほど、子爵も愚かではない。


 会食は続く。

 続くが、最初に比べて味が落ちた。料理ではない。場の味だ。


 子爵は取り繕う。

 嫡男は急く。

 私はそれを見ながら、ようやく一つの事実を認めざるを得なくなっていた。


 娘は、ただ臆病になっていたわけではない。


 少なくともこの男は、娘の不在を惜しむより、“今夜会えないこと”に苛立っている。

 それは縁談相手として、美しい反応ではない。


「侯爵閣下」


 子爵が改めて口を開く。


「ご令嬢のご都合は承知いたしました。ですが、縁談そのものは変わらず前向きに考えていただけると」


 私はグラスを置く。


 音は小さい。

 小さいが、十分だった。


「縁談は」


 私は静かに言う。


「娘が戻ってから、もう一度話す」


 子爵の笑みが、そこで初めて少し薄くなった。


「何か問題でも?」


「公爵家と王宮の用向きに急遽呼ばれる程度には、あれも今忙しい」


「ですが、それと縁談は別の」


「別ではない」


 私は言い切った。


「少なくとも、私はそう考えている」


 ヴィクトルが何かを言いかける。

 子爵が手で制した。


「……承知いたしました」


 返答は穏やかだった。

 だが、その穏やかさの底に沈む不快さはもう隠しきれていない。


 結局、その夜の会食は、令嬢不在のまま、妙に整った顔だけを並べて終わった。


 席を立ったあと、私はしばらく一人で書斎に残った。


 机の上には、ヴァルシエ家の追状。

 文面はやはり隙がなく、丁寧で、こちらへ考える余地だけをきれいに残している。


 公爵令嬢の手か。

 それとも、あの文官か。


 おそらく両方だろう。


「旦那様」


 執事補が入ってくる。


「何だ」


「ヴァルシエ家より、もう一通」


「まだあるのか」


「今度は、ご令嬢ご本人より」


 私は眉を上げた。


 リディアからの短い書付だった。

 字は乱れていない。だが、最後の線だけ少しだけ強い。


 今夜はヴァルシエ家に留まり、明朝の布施会準備に立ち会います。これは私の意思です。ご迷惑をおかけしますが、明日戻り次第、きちんとお話しします。


 私はその文を二度読んだ。


 これは、逃げた娘の文ではない。

 少なくとも、今までのあの子が一番選ばなかった書き方だ。


 私の意思。

 そう、書いてある。


「……そうか」


 思わずそれだけが漏れた。


 娘は私に、初めてその言葉を寄越したのかもしれない。


 その背後に誰がいたのかは、考えなくても見える。

 ヴァルシエ公爵令嬢。

 そして、おそらくあの下級文官も。


 私は書付を机へ置く。


 条件はまだ変わらない。

 侯爵家として見れば、ルヴァンセル家との縁は依然として軽くない。

 だが、今夜私は初めて、娘の“不安”を条件の外へ置いて考える必要を感じていた。


 会食の席は、令嬢不在で始まった。

 そしてその不在が、私にようやく一つの事実を突きつけた。


 空いている椅子というものは、ときどき座っている人間より雄弁だ。

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