第13話 布施会の名目で令嬢を攫う
世の中には、正面からやると角が立つが、名目を一枚かぶせるだけで驚くほど通ることがある。
布施会。
慈善会。
寄付帳の整理。
刺繍布の確認。
上流令嬢が忙しそうにしていても何ひとつ不自然ではない、たいへん便利な言葉たちである。
そして今、私はその便利な言葉たちのために朝から文面を三通書かされていた。
「何、その顔」
向かいからエレノア嬢が言う。
「必要だから書いているの」
「必要なのは文面であって、私本人ではなくないですか」
「その文面を私好みに整えられるのが、今ここではあなたしかいないでしょう」
それを本人へ言うの、ずいぶん効率の悪い褒め方だなと思う。
だが訂正すると余計に仕事が増えそうなので黙っておいた。
机の上には三通の草案。
一通目はエルムローズ侯爵家宛。
布施会準備のため、リディア嬢に二泊三日の滞在を願いたいという正式な依頼。
二通目はサヴィル夫人宛。
侯爵令嬢の体調と日程の都合により、縁談の進行をいったん緩めたいという柔らかな牽制。
三通目は王宮の慈善会実行補佐宛。
ヴァルシエ家とエルムローズ家で共同確認が入る可能性があるという事後承認の種まきである。
見た目はどれも上品だ。
中身はかなり喧嘩腰だが。
「一通目、もう少しだけ侯爵家当主の顔を立てます」
私が赤線を引くと、エレノア嬢が頷く。
「どこを」
「“ご息女をお借りしたい”だけだと主導権が全部こちらに寄りすぎるので」
私は文面の一部を書き換える。
「侯爵家のご厚意に甘え、経験豊かなリディア嬢に布施会準備の実務を助けていただければ、のほうがいい」
「なるほど」
「娘を借りる、ではなく、侯爵家が公の場へ助力する形になります」
「それだと断りにくいのね」
「ええ」
アルヴァンが横から言った。
「加えて、断れば“慈善会への協力に消極的”と見えかねませんな」
「そういうことです」
ベルナールが低く呟く。
「毎回思うが、文面で刺すの好きだな」
「好きではない」
私は答える。
「仕事だ」
「好きなやつほどそう言うんだよ」
ひどい言いがかりである。
とはいえ、実際こういうときに一番強いのは丁寧な文章だ。
怒鳴るより、脅すより、逃げ道の形を整えた依頼書のほうがよほど相手を縛る。
「二通目は?」
エレノア嬢が問う。
「サヴィル夫人向けなら、もう少し曖昧でいい」
私は二通目へ目を落とす。
「侯爵令嬢は繊細であるゆえ、近頃の不規則な訪問と贈答に疲れている。このくらい」
「ずいぶん柔らかいわね」
「仲介人は直接殴るより、“このままだと自分の評判に傷がつくかも”と思わせるほうが効きます」
「それは経験?」
「経験というほど立派ではありませんが、似たような記録は何度も」
ベルナールがげんなりした顔をした。
「文書局って本当に夢がないな」
「最初からそんなに夢のある職場じゃない」
そこへ扉が叩かれ、若い侍女が入ってきた。
「お嬢様。エルムローズ侯爵家への使いの馬が整いました」
「そう」
エレノア嬢は迷いなく立ち上がる。
「一通目と二通目を持たせて。三通目は別の系統で王宮へ」
「かしこまりました」
侍女が下がると、私はようやくペンを置いた。
「これで、侯爵家が素直に頷けば早いんですが」
「素直でなくても頷かせるのよ」
エレノア嬢はさらりと言う。
「怖いなあ」
「今さら?」
「たまに確認したくなるので」
「確認の必要はないわ」
本当にないのだろう。困る。
だが、こちらが文面を飛ばした以上、次は返答待ち――のはずだった。
はずだったのだが、そう穏便にはいかなかった。
その日の昼過ぎ、返ってきたのは書状ではなく人だった。
「リディア・エルムローズ侯爵令嬢がお見えです」
侍女の報告に、部屋の空気が少しだけ止まる。
「……早いですね」
私が言うと、エレノア嬢も珍しく少しだけ目を細めた。
「ええ。思っていたより」
「侯爵が断る前に本人が動いたか、あるいは」
「あるいは?」
「侯爵家の中で、こちらの使いが届いた時点でもう何かあったか」
アルヴァンがすぐに言う。
「お通ししてよろしいですか」
「ええ」
エレノア嬢が答え、私はとっさに机上の報告書を整えた。
見られて困るものばかりではないが、侯爵令嬢本人に今すぐ全部見せていい段階でもない。
数拍後、リディア嬢が部屋へ入ってきた。
昨日より顔色が悪い。
笑ってはいる。笑っているが、頬の血色が薄い。しかも今日は侍女を一人しか連れていない。急いで来たのだろう。
「突然お邪魔して、ごめんなさい」
最初にそう言った時点で、たぶんもう駄目だった。
ちゃんとしている人は、突然来てしまった時ほど先に整える。
でも今のリディア嬢は、整えるより先にここへ来た。
「どうしたの」
エレノア嬢が即座に立ち上がる。
「何かあった?」
リディア嬢は唇を引き結び、それから私を一瞬だけ見た。
その目が、ひどく頼りない。ああ、もうかなり追い込まれているなと思う。
「先方から」
ややあって、彼女は言った。
「今夜、改めてお話をしたいと使いが来ましたの」
部屋が静まり返る。
「どなたが?」
アルヴァンが問う。
「ルヴァンセル家の使いだと言っていたわ。でも、父は“ちょうどよい機会だ、こちらからも意思を示せ”と」
そこでリディア嬢の声が少しだけ揺れた。
「今夜、父同席で先方を招くそうです」
ああ、と思った。
使いを飛ばすより向こうが速かった。
あるいはこちらの使いを嗅ぎつけて、先に話を固めにきたか。
「紙は?」
私が聞く。
「持ってきてる?」
リディア嬢はすぐ、袖の内側から折った紙を出した。
出し方が早い。もう今は、見せる相手としてこちらを選んでいるのだろう。
私は受け取り、広げる。
文面は丁寧だった。
丁寧だが、妙に急いている。
昨日の行き違いを踏まえ、一度正式にご挨拶を差し上げたく。
今夕、侯爵閣下のお許しがあればご令嬢にもご同席願いたい。
表だけ見れば礼を尽くしている。
だが、昨日あれだけの箱が出た直後にこれを寄越すなら、相手は相当焦っている。
「正式に押し込む気だ」
思わず本音が漏れた。
「やっぱり?」
リディア嬢が問う。
「ええ」
私は紙を机へ置く。
「昨日の件がこちらに見つかったのを知ってるか、少なくとも何かがずれたと向こうは気づいている。だから先に“まともな縁談です”の形を作りに来た」
「父は、それを好都合だと」
「でしょうね」
私は答えたが、その返事が少し冷たくなった自覚はあった。
エレノア嬢が静かに問う。
「リディア。あなたはどうしたいの」
真正面から来た。
リディア嬢は一瞬、息を止める。
「……断りたい」
小さな声だった。
でも、はっきりしていた。
「今夜の席に出たくない」
「なら、出なくていいわ」
エレノア嬢は即答する。
「でも」
リディア嬢の指先が震える。
「父は許さない」
「許す許さないの話ではないでしょう」
「でも、家の中ではそうなの」
その一言に、少しだけ痛みが混じる。
私はペンを置いた。
こういうとき、紙だけ見ているわけにもいかない。
「一つ聞きます」
私が言うと、リディア嬢は頷いた。
「今夜その場に出た場合、向こうは何を取りに来ると思いますか」
彼女は少し考えた。
「……返事」
「それだけ?」
「それから」
唇が少し震える。
「父の前で、従順だと、穏やかだと見せたいのだと思う」
「ええ」
私は頷く。
「なら、今夜出るのは最悪です」
アルヴァンがすぐに続ける。
「エルムローズ侯が同席する場では、ルヴァンセル側は礼を尽くすでしょう」
「表では」
私が言う。
「でも、一度“家同士で前向きに確認した”って形ができると、もう後戻りが難しい」
「そうね」
エレノア嬢が静かに言う。
「では、出さないわ」
その言い方があまりにもきっぱりしていて、リディア嬢が目を見開いた。
「どうやって?」
「攫うのよ」
さらっと言うな、この人。
ベルナールが横でむせる。
気持ちはわかる。
「語弊がありますね」
私は訂正する。
「名目付きで先に連れ出す、です」
「同じようなものではなくて?」
エレノア嬢が言う。
「表現の品位の問題です」
「あなた、本当にそういうところだけ真面目ね」
そこだけと言われるのは不本意である。
「今から、エルムローズ侯へ正式書状をもう一通出す」
エレノア嬢は机へ向かう。
「布施会準備にどうしても今夕からリディア嬢の立会が必要になった、と」
「強い」
思わず言うと、彼女がちらりと見る。
「他に何かある?」
「ありますが、今はそれがいちばんいい」
私はすぐ頭を回す。
「しかも侯爵家へ送り返さず、こちらで泊める理由が要る」
「王宮との朝一の打ち合わせ」
「それも入れましょう」
「なら書きなさい」
はい来た。
そうだろうとは思っていた。書くのはいつも私だ。
私は新しい紙を引き寄せる。
「リディア嬢」
「は、はい」
「今からここで少しだけ無理をお願いします」
「何を?」
「あなたが“行きたい”体裁を作る」
彼女が困惑した顔をする。
「私が?」
「ええ。完全にこちらが奪う形だと、あとで侯爵家の中で立場が悪くなる。だから“慈善会の責任上、自分からヴァルシエ家へ向かう”名目が必要です」
エレノア嬢が頷く。
「そのとおり」
「でも、父はそんなこと」
「押し切るの」
静かな声だった。
「そのために、文面も、使いも、私の名前も使うわ」
リディア嬢はエレノア嬢を見て、それから私を見た。
その視線が少しだけ揺れる。
「……そんなこと、できるの」
「できます」
私が答える。
「少なくとも、“今夜の会食に出る”よりはずっとましです」
少し間が空いて、やがて彼女は小さく頷いた。
「わかった」
「本当に?」
エレノア嬢が問う。
「ええ」
リディア嬢は息を整え、少しだけ背筋を伸ばした。
「私、行くわ。布施会の準備のために」
その言い方は、まだ少し借り物だった。
でも、昨日よりはずっと自分の声に近い。
私はすぐ文面を書き始める。
本日夕刻より、明朝の布施会準備打合せに向け、令嬢同士の事前確認が急遽必要となりました。つきましては、ご令嬢リディア様を今夕よりヴァルシエ邸へお迎えし、明日午前中までお預かりしたく――
丁寧に。
逃げ道を塞ぎすぎず。
だが断りにくく。
「そこ、“お迎えし”ではなく“ご足労願い”のほうがよくないかしら」
エレノア嬢が言う。
「侯爵家の顔を立てるなら」
「いえ、今回は迎えに行く形のほうがいい」
私は即座に答える。
「こっちから馬車を出す理由になります」
「……なるほど」
ベルナールが低く呟く。
「本当に攫う気だな」
「品よく言え」
「品よく言っても内容は同じだろ」
その通りだが、そこは大事である。
アルヴァンが書状を受け取る。
「すぐに」
「それと」
エレノア嬢が重ねる。
「侯爵家へは私の名で別便も。リディアの支度は最低限でいい、こちらで整えると」
「徹底してるなあ」
思わず言うと、彼女は当然のように返した。
「待たされるのが嫌いなの」
知ってる。
だいぶ知ってきた。
リディア嬢はそのやりとりを見て、ほんの少しだけ笑った。
昨日より軽い。だが、まだ不安は消えていない。笑いながらも指先が冷えている顔だ。
私は文面の最後を整え、封へ回す。
「これで、侯爵家が渋っても返答を引き延ばしにくくなります」
「今夜の会食には?」
リディア嬢が問う。
「間に合わないようにする」
私が答えると、エレノア嬢が静かに頷いた。
「ええ。気づいた時にはもう、あなたはこちらにいる」
「それ、本当に攫うのでは」
ベルナールがまた言う。
「表現」
私は釘を刺した。
「表現の問題ではない気がするわ」
リディア嬢が小さく言って、今度は少しだけ本物に近い笑い方をした。
それが見られただけでも、たぶん今日ここへ来た意味はあった。
「アシュレイ様」
不意にリディア嬢が呼ぶ。
「はい」
「……ありがとう」
ひどく真っ直ぐな声だった。
私は少しだけ視線を逸らす。
「礼はまだ早いです」
「でも」
「今夜を抜けてからにしてください」
「そう」
彼女は頷く。
「では、そうします」
その返しが妙に素直で、少しだけ困る。
そのとき、部屋の外で慌ただしい足音がした。
侍女が一人、顔色を変えて駆け込んでくる。
「お嬢様」
その“お嬢様”が誰を指したのか、一瞬迷う。
だが侍女はリディア嬢を見ていた。
「エルムローズ侯爵家より急使が。ルヴァンセル家が予定を早め、今夕ではなく一刻後に伺うと――」
部屋の空気が、一瞬で張り詰める。
「早いな」
ベルナールが言う。
「向こうも嗅いだな」
私が答える。
エレノア嬢は、ほんの少しも取り乱さなかった。
「アルヴァン」
「はい」
「今すぐ馬車を出しなさい」
「すでに」
家令は淡々と言う。
「半刻前に整えております」
抜かりがない。たいへん結構である。
「リディア」
エレノア嬢が立ち上がる。
「行くわよ」
「今、ここから?」
「ええ。待たない」
リディア嬢は一瞬だけ固まったあと、私を見た。
その目が、また少しだけ“待ってしまっている”顔をしている。
やめたくても、やめられない顔。
「……はい」
やがて彼女は頷いた。
私は書状をまとめ、立ち上がる。
布施会の名目で令嬢を攫う。
だいぶひどい話だが、今日に限ってはそれがいちばんましだ。
つくづく、この周囲はお上品な顔で強引な人間ばかりだなと思う。
そしてたぶん、私もその中へ少しずつ引きずり込まれている。
できれば気づきたくなかった。




