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第12話 公爵令嬢は、待たされるのが嫌い

* エレノア


 私は、待つのがあまり好きではない。


 正確には、待つだけで状況が好転すると信じるのが嫌いだ。


 何もしなくても、そのうち相手が折れる。

 時間が経てば自然に片づく。

 善意はいつか伝わる。


 そういうものを信じられるほど、王都は優しくない。


 だから、夜更けにアシュレイから上がってきた報告書を読み終えたとき、私は最初に時計を見た。


 もう遅い。

 けれど、まだ遅すぎるほどではない。


 机の上には、南区で拾った情報の整理が並んでいた。


 エマ・クロウ。

 元ルヴァンセル子爵家付き侍女。

 手首の痣。

 夜の客室から聞こえた泣き声。

 婚約候補だった令嬢の急な撤回。

 そして、“婚約前に従順さを確かめる”という、あまりにも下劣な癖。


 どれも単体なら、まだ逃げ道を残せる。

 けれど、重なれば十分に黒い。


 問題は、黒いだけでは止めきれないことだ。


「お嬢様」


 アルヴァンが静かに声をかける。


「本日の分は、ここまでになさいますか」


「いいえ」


 私は報告書を閉じた。


「リディアのところへ、使いはまだ出していないわね」


「ご指示がありませんでしたので」


「そう」


 私は少しだけ考える。


 リディアの顔を思い出す。

 柔らかく笑って、崩れて、でもまたすぐに整えようとしていた顔。

 あの子はたぶん、今夜父に話している。あるいは、もう話し終えている。


 そして、あまり良い結果にはなっていないだろう。


 根拠はない。

 でも、わかる。


 侯爵家当主のような男は、娘の“不安”より“条件”を先に見る。そういう人間を私は何人も見てきた。むしろ、珍しくもない。


「アルヴァン」


「はい」


「エルムローズ侯爵家へ、今夜のうちに使いを」


 家令の眉がわずかに動く。


「今夜、ですか」


「ええ」


「名目は」


「慈善会の件で、リディアを明日から二泊、うちへ預かると」


「預かる」


「ええ」


 私は当然のこととして言った。


「細工入りの贈答が続いているのだもの。少なくとも、侯爵家の内側だけに置くべきではないわ」


「エルムローズ侯が簡単に了承すると?」


「思っていないわ」


「では?」


「断りにくい形で出すの」


 アルヴァンは何も言わない。

 だが、その沈黙は続きを促している。


「慈善会の準備に加え、王太子殿下臨席予定の布施会の席順確認もある、と添えなさい」


「……大きく出ますな」


「事実になるなら問題ないでしょう」


「なりませんでしたら?」


「するのよ」


 そこで家令は、ほんの少しだけ息を吐いた。

 呆れているのではない。計算を始めたのだ。


「承知いたしました」


「それと」


 私は机上の報告書へ指先を置いた。


「ルヴァンセル子爵家の仲介人、サヴィル夫人へは、別口で明朝」


「内容は」


「今しばらく、侯爵家令嬢の体調が思わしくないので縁談の進行を急がぬように、と」


「体調不良を装うのですか」


「装うのではなく、実際にあの子は消耗しているわ」


 私が言うと、アルヴァンは短く頷いた。


「もっとも」


 私は続ける。


「それだけで止まるなら苦労しないでしょうけれど」


「ええ」


「だから次の手も打つ」


「どちらへ」


「子爵家の商会筋よ。宝飾商と仲介人の線が繋がっているなら、そこを少し濁らせるだけでも、相手は慌てる」


 アルヴァンが淡々と確認する。


「慌てたところで、また粗が出ると」


「そういうこと」


 家令は一礼して下がりかけ、そこでふと立ち止まった。


「お嬢様」


「何」


「一つ、確認を」


「どうぞ」


「今回の件、どこまでを“リディア嬢を助けるため”として、どこからを“相手を潰すため”と見ておられますか」


 私は答えるまでに少しだけ時間を要した。


 助ける。

 潰す。

 どちらも正しい。

 そして、どちらか一つだけでは足りない。


「半々ではないわね」


 私は言う。


「最初は、あの子を助けるためだった。今はもう、ああいう手口を許しておくのが不快なの」


「そうですか」


「不満?」


「いいえ。ただ」


 アルヴァンは珍しく少しだけ言葉を選んだ。


「お嬢様は、昔から“身内認定”が早い」


 私は眉を上げる。


「誰が、身内ですって?」


「少なくとも、リディア嬢はその範囲に入っておられるように見えます」


「……否定はしないわ」


 すると家令は、さらに面倒なことを言った。


「そして、アシュレイ殿も」


 私は表情を変えないよう努めた。

 努めたつもりだが、アルヴァン相手にどこまで成功したかは怪しい。


「どうしてそこで、あの方が出るのかしら」


「本日の報告書をご覧になる速度と、そのあと時計をご覧になった速度で」


「あなた、本当に余計なところを見ているのね」


「家令ですので」


 便利な言葉だ。

 少し腹が立つ。


「とにかく」


 私は会話を切った。


「アシュレイを呼びなさい」


「今から?」


「ええ」


「就寝しているかもしれませんが」


「起こして」


「お気の毒に」


「そう思うなら、もう少し静かに起こしてあげて」


 アルヴァンが下がる。

 扉が閉じると、部屋は少しだけ静かになった。


 私は一人で、アシュレイの報告書をもう一度手に取る。


 字は整っている。

 癖が少なくて、必要なことしか書いていない。読みやすく、乾いていて、だからこそ行間に少しだけ滲むものが見える。


 “穏やかな方、ではなかった”


 その一文は、あの人にしてはだいぶ感情が出ていた。

 ほんの少しだけ。

 でも、たしかに。


 あの人は、自分が腹を立てていることをあまり上手に認めない。

 面倒だとか、帰りたいとか、寝覚めが悪いとか、そういう形でしか表に出さない。


 それを知ってしまうと、たまに腹が立つ。

 なぜもっとはっきりしないのかと。

 けれど同時に、それがひどく危うくも見える。


 怒りも、献身も、本人が軽く言うほど周囲は軽く受け取れない。

 それがわかっていないようで、半分くらいはわかっているのだから、なお悪い。


 やがて扉が叩かれた。


「失礼します」


 入ってきたアシュレイは、さすがに少し眠そうだった。

 普段より髪が乱れていて、外套も適当に羽織った感がある。なのに一応、一礼はきちんとする。そこがいかにも彼らしい。


「お呼びと聞いて」


「こんな時間にごめんなさい」


「いえ。もう慣れました」


 その返答が少しだけ不満だった。


「慣れたの?」


「最近、お嬢様が夜に私を呼ぶ頻度が高いので」


「言い方」


「事実です」


 たしかに事実だが、表現というものがあるでしょうに。


「座って」


「長くなりますか」


「なってもらうわ」


「ですよね」


 アシュレイは観念したように椅子へ座る。

 寝起きで少し気が緩んでいるのか、いつもより表情が素直だった。


「リディアの父は、たぶん止まらない」


 私が本題から入ると、彼はすぐ目を覚ました顔になる。


「やはり」


「ええ」


「使いが来たんですか」


「まだ。でも、そういう顔をしていたから」


 アシュレイは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。


「そうですか」


「驚かないのね」


「侯爵家当主が、娘の不安より条件を取るのは珍しくないので」


 そこで私は、つい口元を緩めそうになった。

 この人と話していると、ときどき“珍しくない”の基準が世間とずれている。


「ですから、待ちません」


 私は告げる。


「明日からリディアをうちへ預けさせる」


「強いなあ」


「感心している場合かしら」


「いえ。合理的です」


 アシュレイは少しだけ姿勢を正した。


「侯爵家の内側に置いておくより安全だし、時間も稼げる。子爵家側は急に接触できなくなる」


「ええ」


「そのあいだに、商会筋と仲介人と、証言の三つを固める」


「そういうこと」


「なら、いい手です」


 “いい手”。

 その評価が思ったより嬉しかったのが少し癪だった。


「ただし」


 彼が続ける。


「リディア嬢ご本人が、これを“逃げ”だと思うとまずい」


「どうして」


「嫌だと思っているのに、自分で止められなくて、周囲に運ばれる形になるからです」


 私は少し黙った。


 そこまでは考えていなかった。

 いや、考えてはいたけれど、言葉になっていなかった。


「では?」


「預かる、じゃなくて“仕事を頼む”形にしたほうがいい」


「仕事」


「ええ。慈善会でも布施会でも何でもいい。彼女が自分の意思で侯爵家を離れる名目を与えるんです」


 なるほど、と私は思った。


 保護されるだけでは、あの子は自分の無力さばかりを見る。

 でも役目があれば、逃げるのではなく“動く”になる。


「……本当に、そういうところばかりよく見えるのね」


 私が言うと、アシュレイは肩をすくめた。


「紙の外側は苦手なんですが」


「どこが」


「だいぶ頑張ってますよ、これでも」


 眠そうな顔でそう言うから、少しだけ可笑しい。


「では、明日の文面は変えるわ」


 私は机上のメモへ手を入れる。


「リディアを布施会の準備責任者補佐として招く。こちらで泊まり込みの作業が必要、と」


「強い」


「褒めてるの?」


「今回はだいぶ」


 その返事に、少しだけ満足する。

 単純だなと自分でも思う。


「それと、もう一つ」


 私は言う。


「サヴィル夫人と商会筋には、別で圧をかける」


「はい」


「あなたは、何をするの」


「明日、文書局へ戻ります」


「戻す気はないのだけれど」


「戻らせてもらわないと困ります」


 即答だった。


「ルヴァンセル子爵家の周辺記録は王宮側のほうが早い。あと、前の婚約候補ミラベル様の家にも、文書局経由なら自然に近づける」


 私は頷いた。

 たしかにその通りだ。


「では、朝から?」


「ええ。できれば早く」


「起きられるの」


「そこは頑張ります」


 珍しく弱気な答えだと思ったら、すぐに彼は机上の茶差しへ視線をやった。


「……お茶、あります?」


 私は瞬きをした。


「あるわよ」


「温かいですか?」


「ええ」


「ください」


 あまりにも率直で、私は少しだけ笑ってしまう。


「本当に、遠慮がないのかあるのかわからないわね」


「眠いときは判断力が落ちるので」


「今、落ちているの?」


「たぶん少し」


 私は自分で茶を注いで彼の前へ置いた。

 侍女を呼ぶまでもないと思ってしまったのは、たぶん今日が長かったせいだ。


 アシュレイはそれを受け取り、一口飲んで、少しだけ表情を和らげた。


「生き返る」


「大げさね」


「文官にとっては重要です」


「そう」


 その顔を見て、ふと思う。


 この人は疲れている。

 眠い。

 帰りたいとも思っている。

 それでも呼べば来るし、紙を置けば読むし、次の一手を考える。


 それが役に立つからだけではないのを、私はもう知っている。


「アシュレイ」


「はい」


「あなた、明日は一人で動くつもり?」


 彼は一瞬だけ止まり、それから素直に答えた。


「本音を言えば、少し」


「却下」


「でしょうね」


 即答されても、もうあまり驚かないらしい。


「あなたが一人で動くと、見つけるでしょうけれど、そのあとが雑になるわ」


「ひどい評価だ」


「事実でしょう?」


「否定はしにくいですね」


「だったら、せめて一人はつけなさい」


「ベルナールを巻き込むと怒られそうなんですが」


「怒らせればいいでしょう」


「公爵令嬢の発想だなあ」


 そう言って彼は、少しだけ笑った。


 その笑い方が、ほんの少しだけ素直で。

 夜更けだからなのか、お茶のせいなのか、あるいは別の何かなのかはわからない。


 ただ私は、その顔を見たときに一つだけはっきり思った。


 やはり待つのは嫌いだ。

 相手が動くのを、状況が整うのを、証拠が完璧に揃うのを、ただ待っているのは性に合わない。


 だから先に囲う。

 先に置く。

 先に手を打つ。


 リディアも。

 そして、たぶんこの男も。


「何かしら」


 視線に気づいたのか、アシュレイが顔を上げる。


「いえ」


 私は静かに言った。


「明日も忙しくなりそうねと思っただけ」


「それは間違いないですね」


「帰りたくなった?」


「だいぶ」


「でも帰らないのでしょう?」


 彼は一拍だけ黙って、それから小さく肩をすくめた。


「……寝覚めが悪いので」


 私はそこで、少しだけ笑う。


 やっぱり、この人はそう言うのだ。


 正しい名をつければ、もっと楽になるかもしれないのに。

 でもその不器用さごと、今は手元に置いておきたいと思ってしまう。


「ええ」


 私は頷いた。


「知っているわ」

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