第11話 侯爵家当主は、娘の不安より条件を見る
* リディア
父の書斎は、昔から匂いが変わらない。
革の表紙。
乾いた木。
古い紙。
それに、インクが乾く前の少しだけ重い匂い。
子どもの頃は、この部屋へ呼ばれるのが少し嬉しかった。
父は忙しい人だったから、書斎へ入ることそのものが“見てもらえている”感じに近かったのだと思う。
今は違う。
この部屋へ呼ばれるときは、だいたい何かが決められる。
それも、私の気持ちより先に。
「入りなさい」
扉越しの声に従って中へ入ると、父は机の向こうに座ったまま書類から目を上げた。
エルムローズ侯爵は五十に近い。
大きな人ではないけれど、目が静かで、よく言えば落ち着いている。悪く言えば、簡単には揺れない人だ。
「座れ」
「はい」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
侍従も母もいない。父と私だけ。こういうときのほうが、かえって話しにくいこともある。
「今日、ヴァルシエ公爵令嬢が来たそうだな」
「はい」
「慈善会の話と聞いているが」
「それも本当です」
父の目が細くなる。
「“それも”」
やはり、そこは拾う。
私は少し息を整えた。
「贈り物の件で、少し気になることがありましたので」
「気になること、とは」
「箱の中に、不審な紙が」
「聞いた」
父はそこで私の言葉を切った。
「侍女からも執事補からも報告は受けている。だが、戯れだろう」
その一言で、胸のあたりが少しだけ冷えた。
ああ。
やっぱりそう来る。
「戯れ、ではありません」
なるべく静かに言う。
「少なくとも、婚約前の令嬢へ送るべきものでは」
「リディア」
父の声は低くも高くもない。
ただ、話を収めるときの声だ。
「夜会や縁談の前後には、そういう悪趣味な戯れが紛れ込むこともある」
「でも」
「ヴァルシエ嬢が気にしすぎたのだろう」
気にしすぎ。
その言葉は、思っていた以上に痛かった。
エレノア様は気にしすぎたのではない。
アシュレイ様も、面倒だから箱を開けたわけではない。
あれはちゃんと、悪意だった。
わかっている。
私はもう、わかっているのに。
「お父様」
私は手を組んだ。
指先が少しだけ冷たい。
「ルヴァンセル子爵家のご子息について、もう一度お考え直しいただけませんか」
言えた。
言えたことに、自分で少し驚く。
けれど父は、驚いた顔をしなかった。
「理由は」
「……不安がございます」
「抽象的だな」
「それ以上は、まだ」
「まだ、何だ」
追い詰められるみたいで、喉が少し詰まる。
不安。
嫌だ。
怖い。
そういう言葉だけでは、父の前では弱い。弱いことを、私は知っている。
「前の二件も、急に消えました」
だから、別の角度から言う。
「今度のお話も、少し急ぎすぎております。相手方の条件や評判だけでなく、周辺の確認を」
「している」
また、あっさりと切られる。
「子爵家の財務は安定している。借財もない。領地の揉め事も表には出ていない。嫡男の評判も、お前が言うほど悪くはない」
表には出ていない。
表には。
その言い方に、胸の奥がざわつく。
「表には、ですね」
私が言うと、父は少しだけ眉を動かした。
「何が言いたい」
「評判は、作れます」
「誰に吹き込まれた」
その問いが、ひどく静かで、ひどく嫌だった。
吹き込まれた。
つまり父は、私が自分で疑っているのではなく、誰かに煽られていると見たいのだ。
「吹き込まれたのではありません」
「では、ヴァルシエ公爵令嬢か」
「違います」
「それとも、今日いたという文官か」
心臓が一つ、強く鳴った。
どうしてそこが出るのだろう。
いいえ、簡単だ。父は人を見る。誰が娘の判断に影響しうるかを。
「……アシュレイ様は、ただ」
「ただ?」
「記録を見ていただけです」
そう答えた瞬間、自分でも少しだけ嫌な気持ちになった。
ただ。
本当にそれだけだろうか。
今日の私は、何度もあの人の言葉を待っていた。
箱をどう見るのか。
紙をどう扱うのか。
次は何を確認するのか。
それを“ただ”の一言で片づけるのは、少しだけ不誠実な気がした。
父は私の迷いに気づいたのか、声を少しだけ硬くした。
「リディア。ヴァルシエ家は大きい。公爵家の令嬢が何を言おうと、それはヴァルシエ家の論理でしかない」
「ですが」
「我が家には我が家の都合がある」
その言葉で、会話の方向が決まる。
都合。
そう、いつだって最後はそこへ戻る。
「お前も知っているだろう」
父は書類へ手を置いた。
「一件目の縁談が消え、二件目も続かなかった。侯爵家の娘にとって、三度目は軽くない」
言われなくても知っている。
「だから、今度こそ慎重に――」
「慎重に進めているからこそ、ルヴァンセル家なのだ」
父は言い切った。
「子爵家とはいえ、財と繋がりがある。母方の縁も悪くない。お前にこれ以上の“好条件”が次に来る保証はない」
好条件。
その言葉を聞いた瞬間、昼の応接室でエレノア様が言った一言が胸の内で響いた。
嫌なものを嫌だと思うことを、誰かの都合で贅沢にされる必要はない。
でも父の前では、嫌だという感情は、すぐに“条件”へ踏み潰される。
「お父様」
声が少しだけ掠れた。
「私は、条件の話をしているのではなく」
「している」
父は容赦なく言った。
「お前が今口にしている不安も、結局は条件の裏返しだ。相手が公爵家嫡男なら、ここまで怯えただろうか」
その問いに、私は答えられなかった。
答えられないのは、父が正しいからではない。
問いの立て方がずるいからだ。
たとえ相手が誰であっても、閉じた扉の向こうで別の顔を持つ人は怖い。
でもそれを証明できない以上、父は“家格への不満”へすり替える。
そういう話し方をする人なのだと、私は昔から知っていたはずなのに。
「黙るのか」
父が言う。
「……わかりません」
ようやくそう答えると、父は小さく息をついた。
「リディア。お前は優しすぎる」
違う。
そうじゃない。
「物事を悪く考えすぎるきらいがある。だから、今日のような戯れにも心が引きずられる」
違う。
違うのに。
「少し頭を冷やしなさい」
父の声は、最後まで穏やかだった。
「この縁談は、予定どおり進める」
その一言で、胸の奥がすうっと冷えた。
泣きそうにはならなかった。
もうさっき泣いたからかもしれない。あるいは、ここで泣いても何も変わらないと知っていたからかもしれない。
「……承知しました」
返事だけは、きちんとした。
父はそれで話が終わったと思ったのだろう。
書類へ視線を戻す。そのしぐさは、あまりにもいつもどおりで、私は少しだけ笑いたくなった。
娘の人生が決まる話をしていたのに、最後にはただの書類へ戻る。
そういうところが父らしい。
「もう下がっていい」
「はい」
私は立ち上がり、一礼して扉へ向かう。
その途中で、父が何気なく言った。
「そうだ」
私は振り返る。
「ヴァルシエ家には、あまり深入りするな」
胸のあたりが、また少しだけ嫌な音を立てた。
「どういう意味でしょう」
「意味も何もない。大きな家は、親切も大きい代わりに、借りも大きい」
父は淡々と続ける。
「公爵令嬢が気まぐれで助け舟を出したとしても、それに甘えすぎるな。お前が自分の家を忘れるようでは困る」
私は数秒、何も言えなかった。
家を忘れる。
甘える。
そういうふうに見えるのか。
エレノア様の言葉も、アシュレイ様の働きも。
「……忘れてなどおりません」
それだけ言うのが精一杯だった。
父は頷きもしなかった。
もう会話は終わったのだ。
書斎を出て扉が閉まる。
そこでようやく、息が詰まっていたことに気づく。
廊下の窓は細く、午後の光が白く差している。
手すりに触れた指が、少し冷たい。
駄目だった。
やっぱり、父は止めてくれない。
条件を見る。家を見る。次があるかどうかを見る。
私が嫌かどうかは、そのあとだ。
わかっていた。
でも少しだけ、今日なら違うかもしれないと思っていたのだ。
その“少しだけ”が惨めで、私は唇を噛んだ。
「お嬢様」
少し先で待っていたマリアが、小さく駆け寄る。
「いかがでしたか」
「駄目」
それだけ言うと、彼女はすぐに黙った。
それ以上聞かないのは、良い侍女だと思う。
私は自室へ戻る。
扉が閉まるなり、椅子へ腰を下ろした。立っていられないほどではない。でも、立っていたくなかった。
机の上には、さっき自分で書いた小さな覚え書きがある。
箱は一人で開けない
通用口の受取は必ず確認する
ルヴァンセル家からの呼び出しは即答しない
“嫌だ”を贅沢と呼ばない
最後の一行がやけに目に刺さる。
嫌だ。
私はちゃんと、嫌なのだ。
それを贅沢にするなと、エレノア様は言った。
でも父は、条件の前ではやはりそれを贅沢に戻す。
では、どうすればいいのだろう。
自分で断る?
そんな力はない。少なくとも今の私は、父を正面から押し切れない。
誰かに助けてもらう?
それはもっと嫌だと思っていた。
思っていたのに。
気づけば私は、机の引き出しから便箋を取り出していた。
エレノア様へ向けるべきか、一瞬迷う。
けれど手は、別の名前を書きかけて止まる。
――アシュレイ様
そこまで書いて、私は本気で固まった。
「……何をしているの、私」
マリアがぎょっとした顔で振り返る。
「お嬢様?」
「何でもない」
慌てて紙を裏返す。
何でもなくはない。だいぶ何でもある。
どうして、父に否定された直後に、あの人の名が最初に出るのだろう。
エレノア様ではなく。
もちろん、エレノア様にも助けられている。助けられた。
でも今、私が思い浮かべたのは、箱を開けて、中身を見て、泣いている最中の私に“他の贈り物は”と尋ねてきたあの横顔だった。
たぶん、あの人は父の言う“条件”では話さない。
怖いものは怖い、嫌なものは嫌だ、そして箱の中身は確認する――たぶんそういう順番でしか考えない。
それが少しだけ、今の私にはほしい。
「お嬢様」
マリアが言いにくそうに口を開く。
「もし、必要でしたら」
「何が」
「ヴァルシエ家へ使いを」
その提案に、胸が少しだけ跳ねる。
使いを出す。
つまり、助けを求める形になる。
そんなこと、したくない。
したくないはずなのに。
私は目を閉じた。
助けられたくない。
待ちたくない。
縋りたくない。
でも、待ってしまっている。
もう一度、あの人たちが何かしてくれるのではないかと。
「……少しだけ」
自分でも情けなくなるくらい、小さな声だった。
「少しだけ、考えさせて」
「承知しました」
マリアは頭を下げる。
私は机の上の紙を見つめる。
裏返した便箋の下には、書きかけの名前。
その一行が、まるで自分のほうが先に本音を知っていたみたいで、ひどく居心地が悪かった。
父は止めてくれない。
家も、条件も、次の保証も、全部私より先に並ぶ。
なら私は、どこで止まれるのだろう。
答えはまだ出ない。
でもたぶん、もう一人ではうまく止まれない。
それだけは、認めたくなくても認めるしかなかった。




