第10話 侯爵令嬢は、助けを待つ顔をやめられない
* リディア
昔から、待つのは得意だった。
呼ばれるのを待つ。
選ばれるのを待つ。
話が決まるのを待つ。
父が、母が、姉が、家が、何を望むのかがはっきりするまで、私はだいたい大人しくしていればよかった。
そのほうが、波風が立たないから。
だから今日も、本当はただ待つだけで済ませるつもりだった。
エレノア様が来て、
あの文官――アシュレイ様が箱を見て、
変な紙と銀鎖が出てきて、
それで全部が“外から来た嫌なもの”として処理されるのなら、それでよかった。
でも、そうはならなかった。
部屋へ戻って一人になると、私は自分が思っていたよりずっと浅いところで呼吸していたことに気づいた。
胸が苦しい。
涙は止まったのに、喉だけがまだ少し熱い。
「お嬢様」
侍女のマリアが、静かに言う。
「お水を」
「ありがとう」
杯を受け取る。
指先が少し冷たい。いいことのようにも思えるし、悪いことのようにも思える。
私の私室は、侯爵家らしく明るく整えられていた。
窓辺には花。
鏡台には香油。
飾り棚には読みかけの詩集。
誰が見ても、ここに住む令嬢が穏やかで幸福そうに見えるよう、きちんと整えられた部屋だ。
なのに今日は、その整い方が少しだけ息苦しい。
私は杯を持ったまま、窓辺の椅子へ腰を下ろす。
視線を落とせば、指先がわずかに震えている。
さっきはうまく隠せたと思ったのに、やっぱり隠せていなかったのかもしれない。
エレノア様は気づいていた。
アシュレイ様も、たぶん。
そこまで思って、また胸の奥が妙な音を立てる。
あの人は、本当に変な人だ。
慰めるでもなく、過剰に気遣うでもなく、泣いている最中の私に次の確認事項を聞いてきた。
ひどいといえばひどい。
でも、そのひどさに少しだけ救われたのも事実だった。
泣いている私を“壊れ物”として扱わなかったから。
それが、人として当然かのような取り扱い方をしてくれたから。
優しくされるのは、嫌いではない。
でも、優しくされすぎると、余計に惨めになることがある。今日の私は、たぶんそういうぎりぎりのところにいた。
「……お嬢様」
マリアが、控えめに口を開く。
「先ほどの件」
「ええ」
「わたくし、本当に申し訳」
「それはもういいわ」
思ったよりきっぱりした声が出た。
マリアが少し驚いたように瞬く。
「でも」
「あなたが悪いとは言わない。言わないけれど」
私はそこで、少しだけ言葉を探した。
「次からは、わたくしに一度見せて」
「……はい」
「どんな小さな贈り物でも」
「承知しました」
マリアは深く頭を下げる。
それを見て、私はようやく少しだけ落ち着いた。
何かを命じる。何かを決める。そういう形にしないと、気持ちが宙に浮いたままになってしまう。
エレノア様は、これを自然にやる。
私はたぶん、まだ少し遅い。
遅いけれど、やらないよりはいい。
「……マリア」
「はい」
「わたくし、変だったかしら」
「何がでしょう」
「今日」
あまりにも曖昧な問いだったのに、マリアはすぐには答えなかった。
侍女というのは本当に、こういうときに言葉を選ぶのが上手い。
「お嬢様は」
ややあって、彼女は言う。
「少しだけ、安心なさっているように見えました」
その答えに、私は思わず目を上げた。
「安心?」
「はい」
「どこで」
「……あの文官の方がいらしてから」
あまりにもまっすぐで、私はすぐには返事ができなかった。
安心。
そんなふうに見えていたの?
たしかに、箱の中から紙が出てきたときは苦しかった。
鎖まで出てきたときは、吐き気がするほど嫌だった。
でもそのあと、アシュレイ様が当たり前みたいに“次の贈り物も確認しましょう”と言って、エレノア様が“変な我慢をしないこと”と命じてくれたあたりから、呼吸が少しだけ楽になったのは事実だった。
それを、安心と呼ぶのだろうか。
「……そう」
私はそれだけ答えた。
マリアはそれ以上何も言わない。
言わないけれど、その沈黙が逆に少しだけ恥ずかしい。
助けてもらえて安心した。
そんな顔を、私はしていたのだろうか。
だとしたら、ずいぶん情けない。
助けを待つ顔なんて、したくなかった。
待っていればどうにかなると、そんなふうに期待しているみたいで。
でも。
今日は、たしかに待ってしまっていた気がする。
エレノア様が何か言ってくれるのを。
アシュレイ様が、次に何を見つけるのかを。
その“次”を待っている間だけ、自分で全部を決めなくてよかったから。
それはひどく危ないことだと、頭ではわかる。
一人の相手に、そういう意味で心を預けるのは危ない。
しかもあの人は、預けられていることにすら、たぶんまだ気づいていない。
……それもまた、ずるい。
考えを振り払うように、私は立ち上がった。
「筆記具を」
「はい」
マリアがすぐに小机の上を整える。
紙、ペン、インク。
私はそこへ座り、少しだけ迷ってから一通の便箋を引き寄せた。
「どちらへ?」
「エレノア様へ」
マリアが意外そうに目を瞬かせる。
「今日のお礼だけ」
そう言いながら、私は最初の一行を書く。
拝啓。
本日は突然のご訪問、まことにありがとうございました――
そこで、手が止まる。
違う。
そんな文章では足りない。
助かった。
怖かった。
ありがとう。
まだ少し怖い。
そういうことを書きたいのに、便箋の上へ出てくるのは、社交界で使い慣れた無難な文ばかりだ。
「……嫌になるわね」
思わず呟くと、マリアが困ったようにこちらを見る。
「お嬢様?」
「いいえ」
私はペンを置いた。
今は駄目だ。
こういうときに綺麗な文を書くと、たぶん全部が薄くなる。
代わりに、新しい紙を一枚取る。
今度はエレノア様宛ではなく、自分用の覚え書きだ。
箱は一人で開けない
通用口の受取は必ず確認する
ルヴァンセル家からの呼び出しは即答しない
“嫌だ”を贅沢と呼ばない
最後の一行を書いたところで、私は少しだけ息を止めた。
エレノア様の言葉。
あれは効いた。
嫌なものを嫌だと思うことを、誰かの都合で贅沢にされる必要はない。
あんなふうに言われたのは初めてだった。
だから、胸の奥のどこかがまだじんじんしている。
私は紙を折り、小箱へしまう。
誰にも見せない。
でも、捨てない。
そのとき、扉の向こうで小さな物音がした。
少し遅れて、執事補が声をかける。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
来た、と思った。
当然だ。
今日の応接のことが、完全に何もなかったことになるはずがない。
「……今行きます」
答える声は、どうにか平静だった。
マリアが不安そうに言う。
「ご一緒しましょうか」
「いいえ」
私は首を振る。
「ここは一人で行くわ」
そう言って立ち上がる。
膝は震えていない。大丈夫。呼吸も整っている。大丈夫。
扉へ向かいかけて、私はふと振り返った。
「マリア」
「はい」
「もし今夜、新しい箱や包みが届いたら」
「はい」
「わたくしが不在でも、絶対に開けないで」
「承知しました」
「誰かが“急ぎだから”と言っても」
「はい」
「アシュレイ様がいらっしゃるまで待って」
言ってしまってから、自分で少しだけ固まった。
なぜ今、そこでその名前が出るのだろう。
マリアは何も言わなかった。
でも、その沈黙が少しだけ長かった気がする。
「……はい」
ややあって返ってきた返事に、私は頷いた。
そう。
待つのだ。
でもそれは、ただ何もしないで待つのとは違う。
少なくとも、そういうことにしておきたい。
廊下へ出る。
侯爵家の灯りは明るく、暖かく、綺麗だ。綺麗すぎて、少しだけ空虚に見える。
父の書斎へ向かう途中で、私は胸元へ手を当てた。
まだ少し苦しい。
でも、朝よりはましだ。
エレノア様が来て、
アシュレイ様が箱を開けて、
変な紙と変な鎖が出てきて。
それだけなのに、私はもう自分の中の何かが変わり始めているのを感じていた。
助けられたくない。
そんな情けない立場にはなりたくない。
なのに同時に、もう少しだけ待ってしまっている。
あの人たちなら、次も見つけてくれるのではないかと。
その顔を、やめられない。
たぶんそれが、一番危ない。




