第9話 泣いた侍女は、もう戻れない
聖ミレーユ施療院は、南区の外れにあった。
教会附属というほど立派ではない。
かといって路地裏の診療所ほど投げやりでもない。石壁は古く、窓枠は小さく、門扉の鉄はところどころ錆びている。それでも入口脇の薬草箱だけはきちんと整えられていて、誰かが真面目に回している場所なのだとわかった。
こういう場所は嫌いじゃない。
紙の匂いがしない代わりに、努力の匂いがする。
「本当にここなのね」
外套の裾を押さえながら、エレノア嬢が言う。
「そう聞きました」
「その聞いた相手は、つい先ほどまで逃げていた娘でしょう」
「ええ」
「よく信じるわね」
「信じてるわけじゃありません。逃げる人間が、追いつかれた直後に吐く場所の名は、だいたい本当なので」
エレノア嬢が少しだけ黙る。
「……そういう知識、増やすべきではない気がするわ」
「私もそう思います」
思いますが、なぜか増えるのだから仕方がない。
アルヴァンが先に門を叩く。
ほどなくして出てきたのは、三十代半ばほどの修道女だった。白い頭巾、地味な灰色の衣。表情はやわらかいが、こちらの人数と立ち位置を一目で測るくらいには油断がない。
「どなたさまですか」
「ヴァルシエ家の者です」
アルヴァンが一礼する。
「少し、人を探しております。エマ・クロウという娘に心当たりは」
修道女の表情は変わらない。
変わらないが、“ある”顔だった。
「その名の者は存じません」
「では、最近、腕や手首に傷のある若い女性を」
「ここは施療院です」
ぴしゃりと返る。
もっともだ。
私は一歩だけ前へ出た。
「失礼」
修道女の視線がこちらへ移る。
「こちらが守りたいのは、口封じではなく、その娘本人です」
「皆さま最初はそうおっしゃいます」
「ええ、でしょうね」
私は頷いた。
「なので証拠を一つ置きます。私たちは、その娘がルヴァンセル子爵家の周辺で傷を負った可能性を掴んでいます」
修道女のまぶたが、ほんの少しだけ動いた。
「さらに、子爵家付き侍女の離職記録、外科医の往診控え、婚約打診の急な撤回も追っています」
私は続ける。
「口を開かせて捨てるつもりなら、ここまで紙は持ってきません」
アルヴァンがちらりとこちらを見る。
たぶん、“また勝手に積み上げている”という顔だ。知っている。
修道女は数秒、無言でこちらを見ていた。
それから、ゆっくりと言う。
「お名前は」
「文章局の文官をしております。アシュレイです」
「家名は」
「言うほど立派ではありませんが、一応あります」
「では、それも」
私は名乗る。
どうせ隠してもあとで調べられる。こういう相手には、最初から差し出したほうが早い。
修道女は次に、エレノア嬢を見る。
「そちらのお嬢さまは」
「エレノア・ヴァルシエ」
本人がさらりと答えた。
修道女の目がわずかに見開かれる。
そりゃそうだろう。南区の施療院に公爵令嬢が直に立っているとは、あまり考えたくない光景である。
「……そうですか」
その短い返事の中に、納得とため息と、少しばかりの諦めが混じる。
「少々、お待ちを」
修道女が中へ引く。
門の向こうで人の気配が交わる。
短い会話。扉の軋み。やがて彼女は戻ってきて、門を細く開けた。
「お一人だけ」
「私が」
即答したのはエレノア嬢だった。
「いや」
私も即座に返した。
「それは駄目です」
「なぜ」
「なぜも何も」
「では、あなたが?」
「……それならまだ」
言いかけて、アルヴァンの視線が刺さる。
そうだな。どっちも駄目だな。
修道女が静かに言う。
「本人が会うと決めたのは、その文官の方だけです」
全員が少し止まる。
「私?」
思わず聞き返した。
「ええ」
修道女は頷く。
「紙の匂いがする人は嫌いじゃない、と」
何だそれ。
いや、何となくわからなくもないが。
エレノア嬢がこちらを見る。
視線の意味は単純だ。行ってきなさい、だろう。
だが私は、少しだけ迷った。
「一人で?」
「中には私がおります」
修道女が答える。
「それでも足りぬと?」
言い方が少しだけ棘を帯びる。
気を悪くさせたらしい。まずいな、と思うより先に、エレノア嬢が静かに口を開いた。
「アシュレイ」
「はい」
「行ってきなさい」
「ですが」
「ここであなたが躊躇うのは、優しさではなく逃げよ」
その一言は、だいぶ効いた。
ひどい言い方だと思う。思うが、正しい。
「……了解しました」
私は門をくぐる。
背後でエレノア嬢が、ほんの少しだけ声を落として言った。
「無理はしないで」
その言い方が意外で、私は振り返りかけてやめた。
今そこで何か返すと、たぶん余計な顔をする。
だから手だけ軽く上げて、前へ進む。
施療院の中は静かだった。
薬草を煎じた匂い。
石壁の冷え。
足音を吸う古い板張り。
修道女に導かれて奥へ進み、洗濯場の裏手にある小部屋へ入る。狭い。簡易寝台と、折り畳みの机と、椅子が一つ。窓は高くて小さい。
その寝台に、若い女が座っていた。
痩せている。
髪は暗い栗色。肩にかかるあたりで雑に切られている。顔色はよくない。何より、両手首を無意識に袖の中へ隠していた。
エマ・クロウだろう。
彼女は私を見ると、少しだけ肩を強張らせた。
「……あなたが」
「アシュレイです」
私は椅子ではなく、少し離れた壁際に立つ。
「座らないんですか」
彼女が先に言った。
「座ると長話になりそうなので」
「変な人」
「よく言われます」
そう返すと、エマの口元がほんの少しだけ動いた。笑ったわけではない。ただ、“変な返しだ”と認識した顔だ。
悪くない。
少なくとも完全に閉じてはいない。
「あなた、マルタを捕まえたの?」
「正確には護衛が」
「でも聞いた。紙を見てた人だって」
「見てました」
私は素直に認める。
「それで、ここを」
「はい」
「……そう」
そこで沈黙が落ちる。
こういうとき、私は気の利いた慰めの言葉を持たない。
持たないし、たぶん今それを言っても逆効果だ。
だから先に置く。
「ルヴァンセル子爵家の件で来ました」
エマの指先がぴくりと動く。
「あなたが、前の侍女の一人だと記録にあります」
「元、です」
「ええ」
「もう戻りません」
「でしょうね」
その返しに、彼女が少しだけ顔を上げた。
責めない。
慰めない。
ただ事実だけ返す。そういう相手は、たぶん珍しいのだろう。
「私は、証言がほしい」
私は言う。
「でも、無理やり引っ張り出したいわけじゃありません」
「違いがわからない」
「無理やりだと、後であなたが潰れる」
「……潰れる」
「ちゃんと説明する以上、貴女に起きたことを順番に言い直すことになるので」
エマは何も言わない。
ただ、袖の端を握る指に力が入る。
「だから、先に聞きます」
私は続ける。
「あなたは今、ルヴァンセル子爵家の縁談を止めたいですか」
彼女はすぐには答えなかった。
代わりに、私を見る。
試すような目だ。この問いにどういう意味があるのか、本気で測っている。
「止めたいって言ったら」
「止める材料を集めます」
「言わなかったら」
「別の材料を探します」
「……優しくないのね」
「そのつもりはないですが」
「そういうところ」
エマは小さく息をつき、やがて絞るように言った。
「止めたい」
そこで初めて、声が少しだけ崩れた。
「……あんなところに、もう誰も行ってほしくない」
私は頷く。
それで十分だった。
「では、聞きます」
「はい」
「あなたは、ルヴァンセル家の嫡男ヴィクトルに、何をされましたか」
エマの顔色が、少しだけ変わる。
「いきなりね」
「回り道をすると、途中でしんどくなるので」
「……本当に、紙みたいな人」
そんな感想は初めて聞いた。
エマは袖を握ったまま、ゆっくりと口を開く。
「最初は、何もありませんでした」
よくある始まりだと思った。
「穏やかで、言葉も丁寧で。侍女にまで礼を言う人でした」
「ええ」
「でも、扉が閉まると違うの」
声が少しずつ細くなる。
「自分の思いどおりにならないと、笑ったまま怒るの。声は荒げない。だから最初は怒られているって気づきにくい」
私は黙って聞く。
相槌は最低限。
この手の証言は、語っている本人の流れを邪魔しないほうがいい。
「物を投げることもありました。でも、人前では絶対にしない。あとは……触る」
彼女の指が白くなる。
「手首を掴む。痛くても、痕が見えにくいところを選ぶ。侍女は衣替えで隠せるでしょう、って」
胸の奥が少し冷えた。
嫌な想像はしていた。
だが実際に言葉になると、また別だ。
「婚約候補にも?」
私が問うと、エマは少しだけ迷ってから頷いた。
「見たわけじゃない。でも、いたの」
「誰が」
「前の令嬢。お客様として泊まった方」
「名前は」
「……ミラベル様」
私はすぐ記録帳を開く。
前の婚約打診先だ。
「その方は、何か」
「翌朝、階段で足を滑らせたってことになった」
エマが言う。
「でも私は、夜のうちに泣いてる声を聞いた」
部屋が静まり返る。
「どこから」
「西棟の客室」
「確かか」
「私、夜番だったの」
それなら十分だ。
「他には」
「二人目の方も来た。長くは泊まらなかった。でも、やっぱり次の日から急に空気が変わった。奥様が“ご縁がなかった”って」
「ヴィクトル本人は」
「穏やかなまま」
エマはそこで、ひどく嫌そうに笑った。
「そういう人なの」
その笑い方は、うまく笑えなくなった人の顔だった。
「……私、馬鹿だったのよ」
「それは今必要な話ですか」
思わずそう返すと、エマが少しだけ目を見開く。
「必要じゃないですね」
「ええ」
「でも、言いたくなるの」
「でしょうね」
私は壁にもたれたまま答えた。
「言いたくなるなら、後で別枠で聞きます。今は先に止める材料を」
エマが、ほんの少しだけ笑う。
今度のは本当に少しだけだったが、最初よりはましだった。
「……わかった」
彼女は息を吐く。
「ヴィクトル様は、婚約前に“確かめたい”って言うの」
私は目を上げた。
「何を」
「従順さ」
短い一言だった。
「呼び出す。断らないか見る。断ったら、あとで“協調性がない”とか“気位が高い”とか言う」
ああ、と思った。
リディア嬢の箱から出た紙片の文面とぴたり重なる。
「その紙を書いたのは本人?」
「違うと思う。たぶん、側の男」
「痩せた、爪の綺麗な?」
エマが一瞬だけこちらを見る。
「見たの?」
「捕まえました」
「……遅いわよ」
その言い方に責める色はなかった。
ただ、遅かった時間のぶんだけ疲れていた。
「名前は」
「ガスパール」
「侍従?」
「今は違う。前は、王宮勤めの下働きだったはず」
また王宮か。
嫌な線がさらに太くなる。
「マルタは」
「箱を運んだだけ。ほんとに最初はそうだったと思う。あの子、根は弱いから」
マルタの顔を思い出す。
たしかに、主導している人間の目ではなかった。
「証言できますか」
私は聞く。
ここが一番大事だ。
エマは長く黙った。
袖の中に隠していた手首を、少しだけ出す。
薄い痣。新しいのは消えかけ、古いのは色が変わっている。
「これだけじゃ、足りない?」
「足ります。でも」
「でも?」
「あなたの言葉があると、もっと強い」
エマは苦く笑った。
「結局、言わせるのね」
「ええ」
「優しくない」
「知ってます」
しばらくして、彼女は小さく頷いた。
「……条件がある」
「何でしょう」
「侯爵令嬢には、今すぐ伝えないで」
私は少しだけ考えた。
「理由を」
「私の口から、ちゃんと話す前に、変なふうに届いてほしくない」
その言い方に、少しだけ胸が重くなる。
リディア嬢の顔が浮かんだ。
あの人は今、“嫌だと思ってしまう自分”を贅沢だと誤魔化しかけている。そこへ他人の崩れた話が断片で入れば、たぶんろくな方向へ考えない。
「……わかりました」
私は頷く。
「でも完全には伏せません。縁談を止めるための実務は先に動かす」
「それでいい」
「あと、施療院から移ってもらうかもしれません」
エマが眉をひそめる。
「どうして」
「見つかりやすい」
「ここが?」
「マルタが知ってる時点で」
その一言で、エマの表情が固まった。
「そう、ね」
「だから保護先を変える」
「保護」
彼女はその言葉を少しだけ噛みしめるみたいに繰り返した。
「……そんなもの、まだあるの」
私は返事に困った。
ある、と即答するには軽すぎる。
ない、と言うには諦めさせすぎる。
だから少しだけ考えてから答える。
「少なくとも、エレノア嬢はその気です」
「公爵令嬢が」
「ええ」
「どうして」
「怒ってるからでしょう」
率直に言うと、エマは目を丸くした。
「そんな理由で?」
「怒る理由としては充分では」
数秒。
それからエマは、初めて少しまともに笑った。
「変な人ばっかり」
「私もそう思います」
「あなたも含めて」
「それは光栄です」
そこへ、扉が静かに叩かれる。
修道女が顔を出した。
「時間です」
「ええ」
私は頷き、記録帳を閉じる。
「また来ます」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん、なのね」
「断言すると外れることがあるので」
エマは呆れたように息をついた。
「じゃあ、たぶん待ってる」
その言葉は、ひどく細かった。
でも、ちゃんと届いた。
私は一礼して部屋を出る。
門の外へ戻ると、エレノア嬢が真っ先にこちらを見た。
「どうだった」
私は少しだけ迷った。
だが、エマとの約束もある。
「黒です」
まずそれだけを言う。
「どのくらい」
「かなり」
エレノア嬢の目が静かに冷える。
「証言は?」
「取れます。ただし、今すぐ全部は駄目だ」
「理由を」
「本人の口からリディア嬢へ話す前に、断片だけ先に届いてほしくないそうです」
エレノア嬢は数秒考え、それから頷いた。
「いいわ」
あっさりした返答だったので、少しだけ拍子抜けする。
「いいんですか」
「ええ」
「もう少し押すかと」
「押したいのは山々だけれど」
彼女は静かに言った。
「その娘が、そこまで自分で言えたのなら待つ価値があるでしょう」
思っていたより、ずっと真っ当だった。
いや、真っ当すぎて少し困る。
「ただし」
エレノア嬢は続ける。
「そのあいだに、縁談を止めるための盤面は作る」
「はい」
「ルヴァンセル子爵家へは、別口で圧をかける」
アルヴァンがすぐに応じる。
「商会筋と仲介人の線を切りますか」
「ええ。それと侯爵家当主にも、“今は急がぬほうが良い”と思わせる材料を」
家令が頷く。
話が早い。こういうときの貴族は本当に早い。
「アシュレイ」
「はい」
「あなたは帰ったら、今日の話を全部書いて」
「全部ですか」
「全部よ」
「嫌だなあ」
「嫌でも書くの」
「はい」
そこは逆らえない。
ベルナールが横でぼそりと言う。
「で、結局どうだったんだ」
「言える範囲で言うと」
私は濡れた石畳を見下ろしながら答えた。
「穏やかな方、ではなかった」
ベルナールの顔が曇る。
「そうか」
「ええ」
「リディア嬢、間に合うか」
その問いには、少しだけ間が空いた。
間に合わせる。
そう言いたかった。
だが、こういうときに軽く断言するとたいていろくなことにならない。
「……間に合わせるよう動く」
だから、そう答えた。
エレノア嬢は何も言わなかった。
ただ、私の返事を否定しなかった。
それで十分だと思うことにする。
南区の風は少し冷たかった。
けれどその冷たさの中で、ようやく一つだけはっきりしたことがある。
リディア・エルムローズを狙った箱の中身は、戯れではない。
あれは前置きだ。
本番は、その先にある。
なら、そこへ行く前に折るしかない。
帰りたい。
心の底からそう思う。
でも、こうなってしまった以上、帰っている場合ではないのも知っている。
つくづく、寝覚めの悪い性分だ。




