第8話 南区は口が軽く、足が速い
王都南区というところは、上流貴族が思っているよりずっと忙しい。
治安が悪いとか、貧しいとか、そういう一言で片づけるのは簡単だ。
実際、石畳は欠けているし、建物は近いし、看板の文字は雑だし、鼻の利く犬まで妙に機嫌が悪い。
だが、それ以上に忙しい。
荷車は狭い道を譲らずに通る。
子どもは小銭の音にだけ異様に敏い。
店主は客の足音だけで財布の重さを見分ける。
そして何より、噂が早い。
だから、変に目立つ格好で来るのはよくない。
「……本当にそれでいらっしゃるんですか」
馬車を降りる前に、私は向かいの人物を見て言った。
エレノア嬢はいつもの華やかな装いではなく、深緑の簡素な外套に薄いヴェールを合わせていた。質は明らかにいいが、ぱっと見では上級貴族の娘と断じにくい程度には抑えられている。ぱっと見では。
「何か問題が?」
「問題しかありません」
「でも、昨日よりはましでしょう?」
「比較対象が公爵令嬢全開の状態なので」
「なら進歩ね」
進歩ではない。
時限爆弾がほんの少し延長されただけである。
それでも、昨日の宣言どおり彼女は来た。
アルヴァンも止めた。
ベルナールも止めた。
それでも来た。
ちなみに、私も止めた。
結果として、今この場にいるのは私、エレノア嬢、アルヴァン、ベルナール、そして離れて付く護衛二名である。公爵家の外出としては控えめだが、南区の聞き込みとしてはだいぶ物々しい。
「お嬢様」
アルヴァンが低く言う。
「くれぐれも、先へ出すぎぬよう」
「わかっているわ」
「本当に?」
思わず私が口を挟むと、エレノア嬢がヴェールの奥でこちらを見る。
「何かしら」
「いえ。確認です」
「確認される立場ではないのだけれど」
「本当にそうなんですが、今日に関しては少しだけ譲ってください」
そう言うと、彼女は数秒だけ黙って、それから小さく息をついた。
「……今日は、少しだけ聞いてあげる」
「助かります」
「ただし、少しだけよ」
そこは譲らないらしい。
たいへん公爵令嬢らしい。
最初の目的地は、南区の仕立屋だった。
看板は色褪せ、店先にはほつれた袖や修繕待ちの外套が下がっている。だが中を覗くと、作業机の上はきっちり片づいていた。こういう店は信用できる。表が荒れていても、針山が整っていれば大体まともだ。
「いらっしゃい」
奥から顔を出したのは、四十前後の女主人だった。
手つきが早い。客を見る目も早い。こちらの人数と格好と金回りを一瞬で測った顔である。
「直しなら預かるよ。新調なら裏の若いのに回す」
「今日は少し、別件で」
アルヴァンが前へ出る。
こういう場面では家令が助かる。私が話し始めると胡散臭さが先に立つので。
「少し人を探しておりまして」
「役人?」
「違います」
「なら余計に嫌だね」
女主人が即答した。感じがいい。
そこでエレノア嬢が、あくまで柔らかな声で口を開いた。
「ご安心なさって。こちらにご迷惑をかけるためではありません」
女主人の目が、ほんの少しだけ細くなる。
声でわかったのだろう。身分の高い育ちの人間は、いくら装いを抑えても声の抑揚まで庶民にはなれない。
「……お嬢さん、あんた」
「仕事の話だけさせてください」
私が割って入る。
女主人の視線がこちらへ移った。
「マルタという娘と、エマ・クロウという侍女を探しています」
名前を出した瞬間、女主人の指先が止まった。
それだけで十分だった。
知っている。
「知らないね」
返答は早い。
そして早い否定ほど、だいたい怪しい。
「そうですか」
私は店内を見回した。
棚の端に、青糸の巻きがいくつかある。
そのうち一つだけ、他より少し上等な光沢をしていた。王宮の侍従服や高位家の下働きの袖口に使う、色合わせの細い糸だ。
「いい青ですね」
私が言うと、女主人の目が一瞬だけ動いた。
「は?」
「その糸。南区でそれを買う客は、あまり多くないでしょう」
「糸は糸だよ」
「ええ。でも高い」
私は棚へ手を伸ばしかけて、止める。
触らない。今日はそこを守る。
「それに、この色は王宮勤めか、上位家の使用人服の補修向けです。一般の外套や作業着には少し浮く」
女主人は無言だった。
その沈黙に、エレノア嬢が淡々と重ねる。
「その糸を、最近まとめて買った娘がいたのではなくて?」
店の空気が変わる。
柔らかい言い方なのに、逃がす気がない。こういうところは本当に上手い。
ややあって、女主人は鼻を鳴らした。
「……昨夜、うちの店に役人が来たわけじゃない」
「ええ」
「なら、今のうちに言っとく。私は誰かを売りたいわけじゃないんだよ」
「知っています」
私が答える。
「でも、売られかけた娘はいるでしょう」
その一言で、女主人の顔つきが変わった。
当たった。
「……あんた、何者だい」
「地味な文官です」
「嘘だろ」
「そこはだいたい本当です」
ベルナールが横で何か言いたそうな顔をしたが、無視する。
女主人は深く息をつき、店の表戸を半分閉めた。
「長話はしないよ」
「助かります」
「エマは来た。三週間前だ」
私はすぐに記録帳を開いた。
「何をしに?」
「袖口のほつれ直し。それと、手首を隠すための長手袋」
エレノア嬢の気配がわずかに変わる。
「手首?」
「痣があった」
女主人はあっさり言った。
「古いのと新しいのが混じってたよ。言い訳はしなかった。賢い娘だ」
部屋が静かになる。
私はペン先を置いたまま、次を待つ。
「誰にやられたかは言わなかった。ただ、一つだけ」
女主人は青糸の巻きを見た。
「“穏やかな旦那様は、扉が閉まると別の顔をする”ってね」
ベルナールが、低く息を吐く。
たぶん私も同じ顔をしていた。
「ルヴァンセル子爵家?」
私が聞くと、女主人は頷かなかった。だが否定もしなかった。
「エマは今どこに」
「知らないね。言わなかったし、こっちも聞かなかった」
「本当に?」
「本当だよ」
その返答は、たぶん本当だった。
代わりに、別のことは知っている顔だ。
「マルタは」
今度はエレノア嬢が問うた。
女主人はそちらを見て、少しだけ目を細めた。
「あの娘は駄目だ。足が速すぎる」
なるほど。
どうやら比喩表現でもなさそうだ。
「一月ほど前、青糸を買いに来た。二度」
「何の直しだと」
「最初は下働きの袖口。二度目は、もっと上等な服だよ。色を合わせるのに時間をかけてた」
「侍従服?」
「そこまでは言わない」
言わないが、顔には出ている。つまりそうなのだろう。
「それから?」
「金払いのいい男と歩いてるのを見た。痩せた顔、よく整えた靴、爪だけがやたら綺麗だったね」
「侍従風?」
ベルナールが口を挟む。
「そんなところ」
侍従服を着た偽物。
王宮で記録に手を入れた男。
線が重なる。
「マルタはどこへ」
「南の河沿いにある下宿へ移ったって噂は聞いた。でも長くはいなかったね」
女主人はそこで少しだけ声を落とした。
「昨日の朝、路地で見たよ。走ってた」
「誰に追われて」
「知らない。だけど、追う側も慣れてた」
私はペン先を止めた。
「場所は」
女主人が渋い顔で路地の名を告げる。
河沿いの洗濯場に近い、裏階段の多い一角。逃げ足の速い人間が身を潜めるには向いている。
「……ありがとうございます」
「礼はいいよ」
女主人はぶっきらぼうに言う。
「その代わり、エマを見つけたら言っときな。長手袋の代金はもういらないって」
少しだけ胸が詰まった。
私は黙って頷く。
外へ出ると、南区の空気は相変わらず忙しかった。
荷車が鳴り、洗濯物が風を受け、路地の奥で犬が吠える。
「十分だな」
ベルナールが言う。
「ええ」
私は答える。
「だいぶ」
「リディア嬢には」
エレノア嬢が問う。
「まだ早いです」
「そう」
「でも、子爵家が危ないだけじゃなく、“実際に危ない目に遭った女がいる”線は見えた」
私は記録帳を閉じる。
「エマを見つければ決定打になるかもしれません」
「では次は、その河沿いの下宿?」
「その前に一つ」
私は振り返って、通りの向こうを見た。
さっきから同じ帽子が二度、角を曲がっている。
茶色の平帽。浅くかぶって顔は見えない。だが歩幅が一定すぎる。
「……やっぱり見られてる」
ベルナールが顔をしかめる。
「どれだ」
「帽子。三軒先」
アルヴァンが小さく手を上げると、護衛の一人が音もなく離れた。
こういうときの公爵家護衛は本当に仕事が早い。少しだけうらやましい。
「追う?」
エレノア嬢が聞く。
「いえ」
私は首を振る。
「向こうがこちらを見てるだけなら、追うと散る」
「では?」
「見られてる前提で動く」
そう言った直後、帽子の男は角を曲がって消えた。
足が速い。南区らしい。
「どうするつもり」
「二手に分かれます」
私が言うと、アルヴァンが露骨に嫌そうな顔をした。
「申し上げておきますが、お嬢様を囮にする案なら却下です」
「私もそこまで命知らずじゃないです」
「今ひとつ信用なりませんな」
「心外だなあ」
かなり本心である。
「ベルナール」
「何だ」
「お前はアルヴァン殿と一緒に正面の下宿へ」
「お前は」
「私は河沿いの裏路地から」
「却下」
即答したのはエレノア嬢だった。
「まだ言い終わってませんが」
「どうせ一人で行くつもりでしょう」
「一人が動きやすいので」
「却下」
早いし圧が強い。
「では護衛を一人」
「二人」
「多いですね」
「一人だとあなたがどこかへ消えるでしょう」
「そんな信用のなさあります?」
「あります」
ベルナールが横からぼそっと言う。
「あるな」
味方がいない。
結局、動きはこうなった。
ベルナールとアルヴァンが表通りから下宿を探る。
私と護衛二名が河沿いの裏へ回る。
エレノア嬢は馬車で少し離れた位置に待機――のはずだった。
だったのだが。
「なぜいらっしゃるんですか」
裏路地へ入る直前、外套姿のエレノア嬢が当然のようについてきたので、私は本気で言った。
「待っているだけでは遅いもの」
「そういう問題では」
「問題よ。だから来たの」
理屈になっていない。
だが押し切る気だけは満々である。
アルヴァンが額を押さえている。
気持ちはわかる。
「五歩以上前へ出ないこと」
私は諦めて言った。
「四歩なら?」
「言葉遊びは結構です」
「真面目ね」
「今さらです」
河沿いの裏路地は、想像より湿っていた。
洗濯場から流れた水。
古い木箱。
崩れかけた裏階段。
隠れる場所は多いが、逃げる道も多い。
「こういうところ、詳しいの?」
エレノア嬢が小声で問う。
「詳しくなりたくはありませんでしたが」
「では、どうして」
「文書局の使い走りは、上流から下町まで行かされるので」
「便利ね」
「要するに安く使い回せるんです」
前方、河沿いの下宿が見える。
入口は半開き。洗濯紐が目隠しみたいに張られていて、中は少し見えにくい。
私は護衛へ視線で合図する。
一人が左へ、もう一人が奥へ回った。
ちょうどそのときだった。
二階の窓が勢いよく開く。
若い女が一瞬だけ顔を出し、こちらを見た。
痩せている。
栗色の髪。
そして、右袖口に青い糸。
「マルタ!」
声が出たのは、私ではなくエレノア嬢だった。
驚く。
次の瞬間、女は反射みたいに窓を閉めた。
「しまった」
私は走り出す。
護衛が先に階段口へ飛ぶ。だが、下宿の内側で派手な物音がしたかと思うと、すぐ裏手の細道へ人影が抜けた。
「速いな!」
思わず叫ぶ。
南区は口が軽いが、足も本当に速いらしい。
私は細道へ飛び込み、曲がり角を二つ折れる。
前方に、栗色の髪。裾の短い外套。マルタだ。
「待て!」
待つ人間がいるなら、そもそもこんな路地で走らない。
マルタは振り返りもせず、洗濯桶を蹴飛ばしてさらに路地を折れる。
やめてほしい。追う側の靴が濡れる。
「アシュレイ!」
背後からエレノア嬢の声が飛ぶ。
なぜ来る。本当に来るなと言っただろう。
だが振り向いている暇はない。
前方で、マルタが別の男とぶつかりかけた。
男は痩せていて、靴だけが妙に整っている。
ああ、当たりだ。
「止めろ!」
護衛の一人が叫び、男へ飛びかかる。
男はすぐに身を翻して逃げようとしたが、そこへ反対側から回り込んでいたもう一人が肩を抑えた。
その隙に、マルタの足が止まる。
私はそこへ追いつき、ようやく息を整えた。
「……ずいぶん走るな」
マルタは肩で息をしながら、こちらを睨んだ。
若い。
思っていたよりずっと若い。二十にも届いていないかもしれない。
「離して」
「それは無理だ」
「私は何もしてない!」
「その台詞、だいたい何かしてる人間が言うんだよ」
「文官のくせに」
「文官だからだよ」
マルタの視線が、私の後ろへ動く。
振り向かなくてもわかった。
エレノア嬢がそこまで来ていた。
外套姿でも、立ち方でわかる。
身分の高い人間は、追ってくるときまで姿勢がいいのだから理不尽だ。
「……公爵令嬢」
マルタが呟く。
「なんで、あんたがここに」
「あなたが、うちの名前を使って遊んでいたから」
エレノア嬢の声は冷えていた。
マルタの肩が小さく震える。
強がっているが、完全に怯えている。
私は一歩だけ前へ出た。
「マルタ」
「何」
「エマはどこだ」
その名を出した瞬間、彼女の目が揺れた。
当たりだ。
「知らない」
「嘘だな」
「知らない!」
「知ってる顔だ」
私が言うと、マルタは唇を噛んだ。
追い詰め方がよくないのはわかっている。
でもここで逃がすと、次はもっと深く潜る。
「エマに何をした」
エレノア嬢が問う。
マルタはすぐには答えなかった。
代わりに、捕まった痩せた男を見る。男は護衛に押さえ込まれたまま、口を閉ざしている。
「……あいつが」
やがてマルタが絞るように言った。
「私は、箱を運んだだけ」
「紙は」
「知らない」
「青糸は」
「袖を直しただけ」
「侍従服も?」
「……っ」
沈黙。
そして、否定しない。
私は少しだけ声を落とした。
「マルタ。最後に聞く。エマはどこだ」
彼女の目に、一瞬だけ何かが浮かんだ。
恐怖。
罪悪感。
それと、少しだけ羨望に似たもの。
意味がわからなかったが、次の言葉で少しだけ腑に落ちた。
「……なんで、あの人ばっかり」
「誰だ」
「助けてもらえて」
それは問いの答えではなかった。
でも本音ではあった。
エマは助かった。
少なくとも、彼女の中ではそう見えているのだろう。
「どこだ」
私はもう一度だけ聞いた。
マルタは肩を震わせ、それから小さく吐き出した。
「聖ミレーユ施療院の裏。洗濯場の小部屋」
エレノア嬢と私の視線が同時に動く。
聖ミレーユ施療院。
南区の外れ、女の保護施設に近い小さな施療院だ。逃げた奉公人や、身元を伏せたい女が紛れるには都合がいい。
「本当だな」
「……本当」
「なぜ隠した」
「口止めされてたから!」
マルタが叫ぶ。
「私だって、最初はただの運びだけだって言われた! 紙を入れるだけ、袖を直すだけ、箱をすり替えるだけだって! なのに、あの人が泣いても誰も止めなくて……!」
路地がしんとする。
あの人。
誰のことかは、もう聞くまでもない。
エマだ。
私は息を吐いた。
「……わかった」
エレノア嬢が静かに命じる。
「この二人は屋敷へ。別で取り調べる」
護衛が頷く。
マルタは力が抜けたみたいに座り込みかけたが、すぐに支えられた。
痩せた男のほうはまだ黙っている。だが、黙っていられる時間も長くはないだろう。
私はふと気づいて、エレノア嬢を見た。
「怪我は」
「ないわ」
「本当に?」
「あなたこそ、靴が濡れているじゃない」
「それは大したことでは」
「大したことよ」
そう言って彼女は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
怒っているというより、気に食わないらしい。私の靴が濡れたことが。意味がわからないが、今は聞かない。
「施療院へ行く」
彼女は続けた。
「今から」
「ええ」
「それは賛成ですが」
「ですが?」
「今度こそ、前へ出ないでください」
エレノア嬢は数秒黙り、そして静かに答えた。
「……今日は、三歩までにしておくわ」
譲歩としては破格なのだろうか。
たぶんそうなのだろう。感覚が少し麻痺してきた。
私は濡れた靴先を見て、小さく息をついた。
南区は口が軽い。
そして足も速い。
そのおかげで、ようやくエマの居場所が見えた。
問題はここからだ。
泣いた女は、必ずしもすぐ話してくれるとは限らない。
むしろ、ひどい目に遭った人ほど、口を閉ざすことがある。
だから次は、紙ではなく言葉の仕事になる。
正直、そっちはあまり得意ではない。
「アシュレイ」
エレノア嬢が呼ぶ。
「はい」
「顔がまた嫌そうよ」
「だいたい当たっています」
「でも行くのでしょう?」
「……行きますよ」
そう答えると、彼女はほんの少しだけ目元を和らげた。
それが少しだけ腹立たしくて、少しだけ安心でもあるから困る。




