第7話 写し係は縁談相手を洗う
帰りの馬車は、行きより静かだった。
エレノア嬢は窓際で黙っている。
私は向かいで記録帳を開いている。
車輪の音だけが規則正しく揺れて、会話のきっかけを全部轢き潰していく感じだった。
こういう沈黙は嫌いではない。
ただし、向かいに公爵令嬢が座っていなければ、もう少し気楽に休めたと思う。
「アシュレイ」
先に口を開いたのは、やはりエレノア嬢だった。
「はい」
「さっき、何を書いたの」
何のことかわからないふりをするには、あまりにも具体的だった。
ただ、一応とぼけられる時はとぼけてみる。
「どのあたりの話でしょう」
「リディアの前で、あなたが記録帳に書き足したところ」
見えていたのか。
見えていそうだとは思っていたが、やはり見えていたらしい。
「業務上のメモです」
「その答え方は信用ならないわね」
「信用に足るような内容ではないので」
「なおさら聞きたいわ」
逃げ道がない。
私は小さく息を吐いた。
「……“リディア嬢、要保護”と」
数秒、間が空く。
馬車の揺れだけが続く。
ああ、これは少しまずい言い方だったかもしれない、と思った頃に、エレノア嬢が静かに言った。
「正しい判断ね」
「怒らないんですね」
「怒る要素があるかしら」
「いや、その」
「リディアを一人にするのは危うい、そう見たのでしょう?」
「はい」
「なら正しいわ」
そう言ってから、彼女は少しだけ目を細めた。
「ただ」
「ただ?」
「あなた、見すぎなのよ」
褒められていない。
でも、完全に咎められているわけでもない。難しい温度だった。
「職業病です」
「便利な言葉ね、本当に」
「多用していますので」
すると彼女は、それ以上は追及しなかった。
代わりに、窓の外を見たままぽつりと言う。
「リディアは、昔からああいうところがあるの」
「昔から?」
「周囲の期待に合わせるのが上手いのよ。上手いけれど、あまりに上手すぎて、自分でもどこまでが本音かわからなくなる」
私は記録帳を閉じた。
「よくご存じで」
「社交界は狭いもの」
それだけではない気がしたが、そこは深追いしないでおく。
今はルヴァンセル子爵家のほうが先だ。
「戻ったら、子爵家を洗います」
「ええ」
「文書局の索引だけでは足りないので、周辺記録まで見ます」
「必要なものは?」
「出納の写し、医師の往診控え、奉公人の離職記録、贈答の出入り」
「多いわね」
「人の本性は、だいたい周辺に漏れるので」
「あなた、本当に嫌な才能をしているわ」
「光栄です」
「褒めていないわ」
「はい」
いつものやりとりなのに、今日は少しだけ重かった。
たぶん、リディア嬢の顔がまだ頭に残っているせいだ。
ヴァルシエ家へ戻ると、執務室にはすでに資料が積まれていた。
仕事が早い。
ありがたいが、ありがたすぎて逃げられない。
「準備が整っております」
アルヴァンが淡々と言う。
「整いすぎでは」
「必要でしたので」
知ってた。
机の上には、王都商会名簿の写し、贈答納入の索引、公証人役場の立会記録一覧、そして文書局から取り寄せた婚約関係の周辺帳簿が重なっている。
しかも、その横にはベルナールまでいた。
「お前、何でいるんだ」
「局長が“昨夜から流れを知っている補助が一人いたほうがいいだろう”って」
「流石局長。売られたな」
「お前にだけは言われたくない」
もっともである。
「ちなみに俺は日帰り扱いだそうだ。お前は?」
「十日」
「重いな」
「そうなんだよ」
エレノア嬢は当然のように上座に座り、帳面の一冊を開いた。
「始めましょう」
誰も異議を差し挟まない。
差し挟める空気でもない。
私はまず、ルヴァンセル子爵家の婚約打診周辺索引を広げた。
「表向き、子爵家の嫡男ヴィクトル・ルヴァンセルは評判が悪くない」
「穏やかで、実直で、家の財務も安定している」
エレノア嬢が即座に言う。
「社交界ではそう聞くわ」
「はい。だから嫌なんです」
私は別紙をめくる。
「評判が良すぎる相手って、たいてい“誰がそう言い始めたか”を辿ると薄いんですよ」
「薄い?」
ベルナールが聞く。
「皆がそう言う。でも最初の実例が出てこない、ってこと」
「嫌な見方だな」
「仕事だからな」
私は索引の端へ印をつけた。
「で、前の打診先二件。どちらも短期撤回。理由の記載もこれまた薄い」
「そこまでは見たわね」
エレノア嬢が言う。
「はい。その続きを拾います」
私は次に、公証人役場の立会記録へ手を伸ばした。
婚約それ自体ではなく、持参金や贈答、婚資の確認で公証人が立ち会う場面がある。完全に内輪で済ませる家もあるが、金の額がある程度大きければ痕跡は残る。
「……ああ」
「何だ」
ベルナールが身を乗り出す。
「撤回された一件目、立会予定が入ってる。けど前日に取消」
「理由は」
「“先方都合”だけ」
「薄いな」
「ええ」
私は二件目も見る。
「こっちも似てる。立会仮予約だけ入って、三日後に消えてる」
「二度とも?」
エレノア嬢が問う。
「はい。しかも仲介人が同じです」
私は名前を指した。
「サヴィル夫人」
アルヴァンが眉をひそめる。
「聞き覚えがありますな」
「ありますよ。縁談仲介で評判のいい未亡人です。評判がいいんですが」
「またそれか」
ベルナールがうんざりした顔をする。
「ああ、まただ」
私は商会名簿へ手を伸ばした。
「この人、ルヴァンセル子爵家と近い宝飾商の後援人でもある」
「……ロシュフォール?」
エレノア嬢がすぐに言う。
「そうです」
表記揺れのあった宝飾名義。
そこがまた繋がる。
部屋の空気が静かに冷えた。
「つまり」
アルヴァンが低く言う。
「子爵家、仲介人、宝飾商。この三つは同じ輪の中にある」
「今のところは」
「今のところで充分に嫌ですな」
珍しく全面的に同意したい。
「でもまだ弱いですね」
私は別束へ手を伸ばした。
「縁談を止めるなら、“感じが悪い”では足りない。家が動く材料が要る」
「そうなると?」
エレノア嬢が問う。
「傷、金、女、使用人」
ベルナールが顔をしかめる。
「言い方」
「だいたいこの四つです」
「嫌な分類だな」
「世の中はそんなに上品じゃないので」
そこで私は、医師会の往診控え写しを開いた。
王都の上位医師は、貴族邸への往診記録を簡単に残す。守秘はあるが、日時と請求先くらいは索引で拾える。
そして、見つけた。
「……へえ」
「今度は何だ」
ベルナールがもう慣れた顔で聞く。
「ルヴァンセル子爵家、半年で外科医の往診が四回」
「多いのか?」
「嫡男が病弱でもなければ多いですね」
「病弱なのか」
「そこが問題で」
私は請求先欄を指した。
「全部、子爵家本邸。でも患者名が嫡男本人じゃない」
「誰」
「“客人女性”“付添女性”“一時滞在者”」
誰もすぐには喋らなかった。
それからエレノア嬢が、静かに言う。
「……穏やか、ね」
その声が、まったく穏やかではなかった。
「転倒とか、階段から足を滑らせたとか、そういう処理でしょうね」
私が言うと、ベルナールが露骨に嫌そうな顔をした。
「おい」
「ええ。だいぶ嫌です」
「客人女性って、婚約候補か?」
「断定はできない。でも時期が近い」
私は往診日と婚約打診索引を並べた。
「一件目の撤回直前に一回。二件目の仮予約が消える前に二回」
「……黒いわね、かなり」
エレノア嬢が言う。
「それだけではまだ足りませんか」
アルヴァンの問いは、家令らしく現実的だった。
「貴族同士なら揉み消せます。客人が足をくじいた、で終わる」
「では何が要るんでしょう」
「繰り返しと、相手の手口の癖です」
私はさらに奉公人離職記録を開く。
使用人は、よほど大きな家でなければ、出入りの痕跡がどこかに残る。紹介所、保証人、奉公継続の証明。人は消えても、書類は意外と消えない。
「……ああ、これか」
「今度は何だよ」
「ルヴァンセル子爵家付きの侍女、半年で三人替わってる」
「多いの?」
「嫡男付きだけで三人なら多い」
「理由は」
「体調不良、実家都合、奉公替え」
「全部それらしいな」
「ええ。でも」
私は最後の一枚を抜いた。
「奉公替えの一人だけ、次の奉公先が取れてない」
アルヴァンが顎を引く。
「逃げたか」
「あるいは辞めたあと、どこにも戻れなかったか」
ベルナールが黙る。
こういう沈黙は嫌いじゃない。皆が同じ嫌さを見ている証拠だからだ。
私は紙を整え、机上へ並べた。
婚約打診の急な撤回。
同時期の女性客への外科医往診。
嫡男付き侍女の不自然な離職。
宝飾商と仲介人の繋がり。
そしてリディア嬢のところへ届いた偽装贈答。
「……常習だな」
ぽつりとベルナールが言った。
「ええ」
私も答える。
「たぶん一度や二度じゃない」
その言葉に、エレノア嬢はしばらく何も言わなかった。
やがて、ごく静かな声で告げる。
「リディアに渡すには、まだ足りないわね」
「はい」
「侯爵に突きつけるにも」
「ええ。まだ“嫌な偶然”で逃げられる」
「なら、あと一つ」
彼女は真っ直ぐ私を見る。
「刺さるものが要る」
私は頷いた。
「要ります」
「何が一番いい」
「生きた証言」
即答だった。
「前の婚約候補か、辞めた侍女か、外科医か。誰か一人でも口が割れれば決まる」
「でも、そう簡単には」
ベルナールが言う。
「ええ。だから難しいんですが」
私は離職記録の一枚を指した。
「この、行き先の取れてない侍女。まずはここです」
「名は」
「エマ・クロウ」
名前を書き留める。
細い字。けれど、今はかなり重く見えた。
「紹介所の保証人が南区の仕立屋になってる。たぶんそこから辿れる」
「南区」
エレノア嬢が小さく復唱する。
「マルタと同じね」
「ええ」
「なら」
彼女の目が静かに冷える。
「そこは同じ網の内側だわ」
たぶんそうだ。
私は椅子に少し深く座り直した。
ずっと紙を見ていたせいで目が乾く。だが、ここで止めるわけにもいかない。
「アシュレイ」
「はい」
「今日はもう遅いわ」
エレノア嬢が言う。
「南区へ行くのは明日にしましょう」
意外だった。
この人なら、今からでも行くと言うかと思っていた。
「止めるんですね」
「あなたが今から行きたい顔をしているから」
「してます?」
「ええ。嫌そうなのに、少しだけ前のめり」
見抜かれている。困るな。
「危ない?」
私は聞いた。
「危ないわ」
「私が」
「あなたも、相手も、両方よ」
今日何度目だろう、この言い回し。
だが反論はできない。夜の南区で、縁談絡みの裏を一人で嗅ぎ回るのは、さすがに少し自殺的だ。
「……賢明ですね」
「でしょう?」
「でも、明日は行くんですね」
「もちろん」
エレノア嬢はそう言って、迷いなく続けた。
「私も」
私は顔を上げた。
「いや、それは」
「却下」
「まだ何も言っていませんが」
「どうせ危ないから来るな、と言うのでしょう」
「はい」
「却下」
早い。
しかも二度目だ。
「お嬢様」
アルヴァンが口を開く。
「南区はあまり好ましい場所では」
「知っているわ」
「でしたら」
「だから護衛を増やす」
家令が黙る。
黙ったということは、完全な否定ではないらしい。公爵家、時々感覚が物騒だなと思う。
「ベルナール」
私は縋るように同期を見る。
「何だよ」
「君は理性側の人間だろう」
「たぶんな」
「止めてくれ」
「無理だな」
「どうして」
「お前一人で行かせるよりはマシだから。ほら、理性側の意見だろ?」
おかしい。
全員の理屈がじわじわとこちらを包囲してくる。
エレノア嬢は満足そうに言った。
「決まりね」
「まだ私の意思が」
「聞いていないわ」
知ってた。
私は机へ突っ伏したい衝動をぐっと堪え、離職記録を揃える。
「……では、明日」
「ええ」
「南区の仕立屋と、紹介所と、下宿の線を洗います」
「その前に」
エレノア嬢が言う。
「今日は休みなさい」
「本気で?」
「本気よ」
「珍しいですね」
「あなた、使い潰すには惜しいもの」
その言い方が、どうにも物騒だった。
でも、彼女なりに気遣っているのはわかる。わかるから余計に困る。
「休めるかどうかは別として」
私は立ち上がった。
「とりあえず紙をまとめます」
「そこは変わらないのね」
「紙は勝手にまとまらないので」
するとエレノア嬢は、ほんの少しだけ笑った。
「そういうところよ」
「何がでしょう」
「自分でもわからないなら、そのままでいいわ」
その言葉の意味は、あまり深く考えないほうがよさそうだった。
私は記録を抱え直す。
ルヴァンセル子爵家は黒に近い。
リディア嬢は追い込まれている。
南区にはマルタと、消えた侍女エマの線がある。
ずいぶん材料は揃った。
揃ったが、そのぶん嫌な予感も濃くなっていく。
明日、たぶん何か出る。
出てほしくはない。
けれど出るだろう。
そういう勘は、だいたい外れない。
「帰りたい」
ぼそりと漏らすと、ベルナールが即座に言った。
「今日は帰れるだろ」
「そういう意味じゃないんだよなあ」
すると、エレノア嬢が静かに笑った。
「ええ、知っているわ」
その“知っている”が妙にやわらかくて、少しだけ居心地が悪かった。
どうにもこの公爵令嬢は、私が嫌がる方向へばかり察しがいい。




