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第6話 助けられたくないのに、助けを待っている

 人が泣いたあとに取り繕う速度には、育ちが出る。


 これは偏見ではなく、経験則だ。


 リディア・エルムローズ侯爵令嬢は、かなり速い部類だった。

 目元を少し冷やし、声の高さを整え、呼吸を浅くしない。茶杯を置く角度まで崩さない。おそらく何度も、似たようなことをしてきたのだろう。


 できれば、そんな技能は身につけないで済むほうがいい。


「では、香油と手袋を」


 エレノア嬢が穏やかに言う。


「確認してもよろしいかしら」


「もちろんですわ」


 リディア嬢はそう答えた。

 もう笑っている。さっきまで涙が滲んでいたのに、今はまた社交用の柔らかな顔だ。


 ただし、さっきより少しだけ無理がある。


 その“少し”が見えるのは、たぶん見ないほうがいい種類の才能なのだろう。ありがたくない。


 侯爵家の侍女が、香油瓶と手袋箱を運んでくる。


 香油は細身の硝子瓶。封は未開封。

 手袋箱は浅く、薄紫の包み紙が巻かれている。


 私は机へ近づきかけて、途中で止まった。


 自分で触る位置ではない。

 ここではまだ私は写し係で、公爵家の外から来た文官だ。何でもかんでも手を出すのは悪手である。たとえ正しくても。


「アシュレイ」


 エレノア嬢が言う。


「見て」


 許可が出た。

 たいへんありがたいが、許可の出し方が自然すぎて怖い。


「では、失礼して」


 私は香油瓶から確認した。


 瓶の首。封蝋。紐。香りの染み出し。

 見た目に不自然さはない。箱も上等で、表の名義も整っている。こういう“ちゃんとしているもの”は逆に困る。


「こちらは今のところ白です」


 私が言うと、リディア嬢が小さく息を吐いた。


 安心したのだろう。

 その反応だけで少し気が重くなる。人は一つ無事だと、残りまで無事だと思いたくなるからだ。


「手袋のほうは」


 エレノア嬢が促す。


 私は薄紫の包み紙を見た。


 結び目が二重。

 しかも一度解いてから結び直した跡がある。


「……こっちは嫌ですね」


「何が」


 リディア嬢が問う。


「包みをやり直してます」


「贈り直したのではなく?」


「その可能性もあります。ただ、上から丁寧に結んでいるのに、下の折り目が少し潰れている。最初の開け方が雑です」


 私は包み紙の端を示した。


「こういうの、贈る側が屋敷でやり直すならもっと綺麗なんですよ。慣れてる人間がやるので」


「では、途中で誰かが?」


「たぶん」


 侯爵家の侍女が青ざめる。

 申し訳ないが、今は気遣っている場合ではない。


「開けます」


 許可を待つようにリディア嬢を見ると、彼女は頷いた。


「お願いします」


 私は包みを解き、浅い箱を開ける。


 中には手袋。

 乳白色の上品な刺繍入り。婚約前の贈答としても不自然ではない。


 ただし。


「下敷きがありますね」


 箱底に敷かれた厚紙が、わずかに浮いている。

 私はそれを指先で持ち上げかけ、途中でエレノア嬢を見た。


「そのまま」


 短い許可。


 厚紙の下には、紙片はなかった。

 代わりに、ごく薄い銀鎖が巻かれていた。


 全員が黙る。


 鎖は細い。

 装飾としても使えそうだが、手袋箱に入っている意味はない。


「これは……何ですの」


 リディア嬢の声が少し掠れた。


「意味を持たせるための小道具、でしょうね」


 私が言うと、エレノア嬢が視線を寄越す。


「小道具?」


「恋文だけでは、一方的に送られたと言い逃れできます。でも、装飾品まで一緒に出れば、ただの誘いではなく、“そんな品を受け渡す関係だった”ように見せられます。」


 私は鎖を見た。


「しかもこれ、手首に巻ける長さです。相手側が同じものを身に着けていた場合、最悪のシナリオになります」


 リディア嬢の顔色が変わる。

 さっき私が見た灰色の靄と、きれいに重なった。


 やはり、この縁談の“兆し”はここに繋がっている。


「下品ね」


 エレノア嬢が静かに言う。


「ええ」


 思わず同意してしまった。


「非常に」


 そこでリディア嬢が、ほんの少しだけ笑った。


 笑ったといっても、いつもの明るいものではない。

 疲れて、皮肉だけが残ったみたいな笑い方だった。


「まあ」


 彼女は言う。


「婚約前から随分と熱心ですこと」


 それは冗談の体裁をしていた。

 していたが、冗談として扱うには少し痛々しい。


「リディア」


 エレノア嬢が呼ぶ。


「笑わなくていいわ」


 その一言で、リディア嬢の笑みが消えた。


 痛いところを突かれた顔だった。

 笑って流す。それがたぶん彼女の鎧なのだろう。だから、それを外していいと言われると逆に困る。


「……難しいことをおっしゃいますのね」


「慣れていないだけでしょう」


「ええ、まあ」


 リディア嬢は視線を落とした。


「たしかに」


 その横顔を見ながら、私は少しだけ紙へ目を落とした。

 これ以上ここで感情の話に寄ると、たぶん彼女はまた崩れる。崩れるのが悪いとは言わないが、今はまだ早い。


「一つ、実務的な話を」


 私が口を挟むと、エレノア嬢が無言で続きを促した。


「この鎖、侯爵家由来のものでも、子爵家由来のものでもありません」


「わかるの?」


 リディア嬢が訊く。


「留め具が市販品です。贈答用なら普通は細工師の工房印か、せめて合わせの意匠が入る。でもこれは何もない」


 私は箱の中をさらに見た。


「つまり、手袋と一緒に最初から入っていたんじゃなく、途中で差し込まれた可能性が高い」


「先ほどの紙と同じですわね」


 リディア嬢の声はだいぶ落ち着いていた。

 立て直しが早い。やはり、この人はこういうことに慣れすぎている。


「はい」


「なら」


 彼女は私を見る。


「侯爵家に、途中で手を入れられる導線があったということ?」


「あります」


 私は即答した。


「正門を通らない受け取り、仕分け卓の死角、包みの結び直し。どれか一つでもあれば充分です」


「……充分」


「こういうのは、大掛かりな侵入より、日常の中の一瞬のほうが通りますから」


 リディア嬢はしばらく黙っていた。


 その沈黙のあとで、ふと妙なことを言った。


「アシュレイ様」


「はい」


「あなた、見つけるのがお上手なのね」


 褒め言葉ではない。

 もっと厄介な響きがあった。


「職業病です」


「そうかしら」


「そういうことにしておいてください」


 リディア嬢は私を見て、それからほんの少しだけ目を伏せた。

 何かを言いかけて、やめた顔だった。


 嫌な予感がした。


 この手の沈黙は、たいてい“助けて”に繋がる。

 しかも本人は、そんなことを口にしたくないと思っているタイプの沈黙だ。


 案の定、数拍おいて彼女は言った。


「……わたくし、少しだけ席を外してもよろしいかしら」


「もちろん」


 エレノア嬢が答える。


「ラナ、ついて差し上げて」


「かしこまりました」


 リディア嬢は立ち上がり、礼を崩さないまま部屋を出た。

 最後まで綺麗だった。綺麗だが、扉が閉まる直前、足取りがほんの少しだけ速くなった。


 我慢の限界が近いのだろう。


 部屋に残るのは、私、エレノア嬢、侯爵家の侍女と執事補。

 気まずい沈黙を破ったのは、エレノア嬢だった。


「アシュレイ」


「はい」


「率直に」


「縁談の相手、そのものが黒とはまだ言えません」


「まだ、なのね」


「ええ。ただ」


 私は手袋箱を閉じる。


「この侯爵家の中に“途中で差し込める人間”がいるのはほぼ確実です」


「内通者」


「あるいは、無自覚に使われてる人間」


 侯爵家の侍女と執事補の方が少し動く。

 実行犯の動揺というよりは、こんな事態を素通りさせてしまったという後ろめたさに見えた。ただ、今はそういう配慮もできない。


「どちらにしても不快だわ」


 その感想には全面的に同意する。


「それと、もう一つ」


「何かしら」


「リディア嬢ご本人、だいぶ追い込まれてます」


 エレノア嬢の目がわずかに細くなる。


「見ればわかるでしょう」


「見える以上に、です」


 私はなるべく平坦に言った。


「嫌がってるのに断れない方向へ、自分の中で理屈を作り始めてる。ああなると、変な紙が一枚出るだけで自分を疑うんですよ」


 侍女の一人が小さく息を呑んだ。

 たぶん、身に覚えがあるのだろう。


「先ほども、“私が嫌だと思うのが贅沢なのかもしれない”って顔をしてました」


 それを聞いて、エレノア嬢の表情から温度が一段落ちた。


「……そう」


「ええ」


「本当に、下品ね」


 その一言が、部屋の空気を綺麗に冷やした。


 私は少しだけ視線を逸らす。

 怒っている人の真正面はあまり見ない主義だ。相手が公爵令嬢ならなおさらである。


「お嬢様」


 侯爵家の執事補が慎重に言う。


「この件、当家当主へは」


「今すぐはやめたほうがいいでしょう」


 私が先に答えると、また少し空気が止まった。

 最近この場で口を挟みすぎている自覚はある。


「理由を」


 執事補の声音は硬い。


「当主が先方との縁談を重視しているなら、証拠が揃う前に話すと“気のせいだ”“誰かの悪意ある戯れだ”で流される可能性が高いです。そうなると次は、リディア嬢が自分から怯えて縁談を壊そうとしている、って扱いになる」


 執事補が黙った。


 図星なのだろう。

 つまり侯爵家当主は、現時点では頼れない。


「……厳しいことを言うのね」


 エレノア嬢が言う。


「希望的観測で動くと、たぶん間に合わないので」


「そう」


 彼女は短く頷いた。

 否定しないのがありがたい。もしここで理想論を返されたら、私は少しだけ帰りたくなっていた。


「では、どうするの」


「まず、侯爵家の中で箱や包みを扱った人間を絞る」


「その後は?」


「ルヴァンセル子爵家から本当に贈られた品かを、別口で確かめる」


「別口?」


「文書局です」


 私は肩をすくめた。


「婚約打診や贈答は、家の正式帳だけじゃなく周辺の小さな記録に痕が残ります。運送、納入、会計、陪席予定。どこかには」


「つまり、あなたが見るのね」


「見ます」


 ため息みたいに答えると、エレノア嬢はなぜか少し満足そうだった。何がそんなに嬉しいのか聞きたくない。


 そのとき、扉の外でかすかな物音がした。


 人の気配。

 泣き崩れるほどではないが、戻るには少し早い。


 たぶんリディア嬢が、扉の向こうで立ち止まっている。


 戻りたい。

 でも戻る前に、少しだけ聞きたい。

 そんな足音だった。


 私は気づかないふりをして、少しだけ声を落とした。


「あと、これは念のためですが」


「何かしら」


「リディア嬢を、一人にしないほうがいいです」


 エレノア嬢の視線がこちらへ向く。


「そこまで?」


「“助けられたくないのに、助けを待ってる”状態に見えるので」


「……ずいぶん細かいことまで言うのね」


「そう見える人は危ないんですよ」


 私は手袋箱を見たまま続けた。


「自分から助けてって言えない。でも内心では誰かが気づいてくれるのを待ってる。そういうときに変な紙とか変な呼び出しが来ると、判断を間違えやすい」


 扉の外の気配が、ぴたりと止まった。


 たぶん、聞こえている。


「だから」


 私はあくまで箱へ向かって言う。


「今のうちに周りが勝手に動いたほうがいいです。本人の判断力が落ちる前に」


 少し間があってから、エレノア嬢が静かに答えた。


「……そうね」


 そして、その直後。


 控えめなノックが入った。


「失礼してもよろしいかしら」


 リディア嬢の声だった。

 きちんと整っている。少なくとも表面上は。


「どうぞ」


 エレノア嬢が答える。


 扉が開いて、彼女が戻ってくる。

 目元は少し赤いが、先ほどよりむしろ穏やかだった。


「お待たせしました」


「いいえ」


 エレノア嬢が応じる。


「ちょうど話がまとまったところよ」


「どんな?」


 リディア嬢は席へ戻りながら問うた。

 その視線が、一瞬だけ私へ向く。ほんのわずかに、さっきより柔らかい。


 ああ、やっぱり聞いていたな、と思った。

 そして、表情を見るに聞かれていて良かったとも思う。


「あなたのところへ届いた贈答品を、いくつかこちらでも改めて確認するわ」


 エレノア嬢が告げる。


「それと、先方からの正式な贈答経路がどうなっているか、こちらで別途あたる」


「そこまでしていただくの?」


「ええ。慈善会のついでに、少しだけ余計なお節介を焼くことにしたの」


 リディア嬢が笑う。

 今度の笑みは、さっきより少しだけ本物に近かった。


「……お節介、ですか」


「嫌?」


「まさか」


 彼女はそこで、少しだけ言葉を迷わせた。


「その、実は……少しだけ」


 また止まる。

 けれど今度は、最後まで消えなかった。


「助かります」


 小さな声だった。

 でも、はっきり聞こえた。


 私はその瞬間、少しだけ肩の力を抜いた。

 言えたなら、まだ大丈夫だ。


 助けて、とまでは言えなくても。

 助かる、と言えたなら、まだこちらが先に動ける。


「では決まりね」


 エレノア嬢が言う。


「リディア、今夜からしばらく、届いた贈答品を一人では開けないで」


「ええ」


「不審な呼び出しや伝言も、必ず侍女か執事を通して確認すること」


「わかりました」


「それから」


 エレノア嬢はほんの少しだけ目を細めた。


「変な我慢をしないこと」


 リディア嬢が、そこで少しだけ目を伏せる。


「……努力します」


「努力ではなく、しなさい」


「厳しいですわね」


「今はそういう役目だもの」


 そのやりとりを見ながら、私は記録帳へ小さく書き込んだ。


 リディア嬢、要保護。


 横からリディア嬢の視線を感じる。

 しまった、見られたかと思ったが、彼女は何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ口元を緩める。


「アシュレイ様」


「はい」


「今、何を書いたのかは聞かないでおきます」


「それは助かります」


「でも」


 彼女は柔らかく言う。


「聞かなくても、だいたい想像はつきますわ」


 その言い方が妙に近くて、私は少しだけ視線を逸らした。

 こういうのは困る。本人が脆いとわかった直後に距離を詰められるのは、非常に困る。


 すると隣から、ひやりとした声が飛んできた。


「アシュレイ」


「はい」


「帰りの馬車では、今の記録をきちんと整理しなさい」


「はい」


「返事が早いのは結構ね」


 なぜか少し冷たい。

 理由がわからないのがいちばん困る。


 リディア嬢はそのやりとりを見て、今度は本当に少しだけ笑った。


 さっきまで泣きそうだった人の笑顔にしては、ずいぶん軽い。

 軽いが、むしろそれがよかった。無理に作った社交用の笑みではなく、感情が追いついたあとの小さな笑いに見えたからだ。


 たぶん今日ここへ来た意味は、これで十分あった。


 箱の下の紙と鎖。

 通用口。

 縁談の嫌な気配。

 そして、本人がようやく“助かる”と言えたこと。


 全部、紙にして持ち帰る価値がある。


「では」


 エレノア嬢が席を立つ。


「今日はここまでにしましょう」


 応接は終わる。

 だが、問題はようやく始まったばかりだ。


 ルヴァンセル子爵家。

 消えた下働きマルタ。

 そして、同じ手口で令嬢を追い込んでいる誰か。


 帰りたくなってきた。

 いや、最初から帰りたいのだが、こうなると余計に帰りたい。


 けれど、帰ってもたぶん文書局でまた紙を見るだけだ。

 だったら今は、見えるところまで見たほうが早い。


 嫌な性分である。

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