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第5話 笑顔の下の崩れ方

* リディア


 笑っていれば、大抵のことはやり過ごせる。


 そう覚えたのは、いつだっただろう。

 たぶん、まだ子どものころだ。


 愛想がいいわね。

 気が利くわね。

 場が和むわね。


 そんなふうに言われるたび、私はちゃんと笑うようになった。

 誰かの期待に合わせた表情を作るのは、思っているより難しくない。難しくないからこそ、何度でも繰り返せてしまう。


 そして気づけば、本当の顔をいつ使うのか、少しわからなくなっていた。


 だから、箱の中から紙片が出てきたときも、私はすぐには何も感じなかった。


 白い内張りの下。

 髪飾りのすぐ下に隠されていた、小さな紙。


 侍女の指先が震えている。

 エレノア様は何も言わない。

 あの文官――アシュレイ様だけが、静かな顔でこちらを見ていた。


 私はその紙を、自分で取った。


 取ってしまえたのは、まだそれが自分に関わる“現実”だと思えていなかったからだ。


 紙は軽い。

 折り方は雑ではない。むしろ慣れている。

 あらかじめ、見つかることを想定して折られた紙だった。


 開く。


 書かれていたのは、たった二行だけだった。


 ――婚約前に、確認しておきたいことがある。

 ――今夜、北回廊の小階段へ。一人で。


 それだけ。


 それだけなのに、喉の奥が急に冷たくなった。


「……まあ」


 自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえる。


「なんて、ことでしょう」


 笑わなくてはいけない。

 困ったように。

 少し驚いたように。

 でも取り乱してはいけない。


 そう思ったのに、口元がうまく動かなかった。


 紙を持つ指先だけがやけに冷えている。

 視界の端で、侍女のマリアが一歩踏み出しかけて止まった。彼女は私を助けたいのだろう。でも、どう助ければいいのかわからないのだ。


 そういう顔をしていた。


「リディア」


 エレノア様の声は静かだった。


「心当たりは」


「……ございませんわ」


 それは半分だけ本当だった。


 この紙そのものに心当たりはない。

 でも、“婚約前に確認しておきたいことがある”という言い回しには覚えがある。ルヴァンセル子爵家からの話は、最初からずっとそうだった。


 はっきりしない。

 でも逃がさない。


 穏やか。

 でも決めるのは全部向こう。


 家のためだから。

 好条件だから。

 前のご縁が続かなかったのは運が悪かっただけだから。


 そう何度も言われてきた。


 だから私は、うまく笑って頷いていた。

 それが一番面倒が少ないから。


 けれど今、箱からこんなものが出てきた。


 それはつまり、面倒が少ないように見えていた道の下に、最初から別の罠が口を開けていたということだ。


「本当に?」


 エレノア様は責めるようには言わない。

 ただ、確かめるように問うた。


「ええ」


 私は頷く。


「少なくとも、この紙を入れた覚えはありません」


「では、先方からの正式な文でもないのね」


「……正式な文にしては、少々、軽すぎます」


 言いながら、唇の端が少しだけ震えた。


 軽い。

 そう、軽いのだ。


 正式な申し入れなら、もっと綺麗に書く。

 もっと整った文面にする。

 これは違う。もっと近い。もっと下品で、もっと一方的だ。


 まるで、もう断れない相手にだけ送る文みたいに。


「リディア嬢」


 そう呼んだのは、アシュレイ様だった。


 私は顔を上げる。


 不思議な人だと思う。

 目立たない顔をしているのに、こういうときだけ妙に目が離せない。


「一つだけ、確認したいことがあります」


「……何かしら」


「この髪飾り、先方から“直接”届きましたか」


 質問の意味がすぐにはわからなかった。

 けれど少し考えて、私は答える。


「ええ。少なくとも、そう聞いています」


「聞いている?」


「屋敷に届いたものを、侍女が受け取って。わたくし自身が門で見たわけではありませんもの」


「受け取ったのは、どなたですか」


 私はマリアを見る。


 侍女は青ざめたまま答えた。


「わたくしです。ですが、その……正門ではなく、通用口から」


 エレノア様とアシュレイ様の視線が一瞬だけ交わる。


 私はその意味がわかってしまった。


 通用口。

 また。


「どうして通用口から?」


 問いかける私の声は、まだ平静を装えていただろうか。


 マリアは唇を噛む。


「先方の使いだという男が、正門は混んでいるので急ぎでこちらへ、と……」


「馬鹿ね」


 きつい声が出た。

 出してから、しまったと思った。


 マリアの肩がびくりと震える。

 彼女を責めても仕方がない。わかっている。わかっているのに、今は少しでも誰かを責めないと、喉の奥の冷たさに飲まれそうだった。


「……ごめんなさい」


 私はすぐに言い直す。


「今のは、あなたに言ったのではないの」


「お嬢様……」


 マリアの目にうっすらと涙がにじむ。

 駄目だ。これでは駄目だ。私が崩れると、部屋の中の全部が崩れる。


 笑わなくては。

 ちゃんと。


 そう思うのに、今日はそれがうまくできない。


「アシュレイ」


 エレノア様が言う。


「あなたは、どう見るの」


 彼は紙片を見ない。

 私を見てもいない。

 代わりに、髪飾りの箱と、敷布と、リボンの結び目を見ていた。


「先方そのもの、というより」


 少し考えるように言う。


「先方の名を使って“届いたことにした”可能性があります」


「それはつまり、ルヴァンセル子爵家ではないかもしれない、と?」


「現時点では断定できません」


 曖昧な答えなのに、その曖昧さが少しだけありがたかった。


 もしここで、

 “先方が黒です”

 と断言されたら、私はその場で何か壊していたかもしれない。


 だって、まだ都合よく信じていたかったから。


 穏やかな方だ。

 評判は悪くない。

 家にとって悪い縁談ではない。


 そう何度も言われた。

 だから少なくとも、“完全に終わっている話ではないかもしれない”という逃げ道くらいは持っていたかった。


「ただ」


 アシュレイ様は続ける。


「この紙が“今夜、一人で来い”と書いている以上、少なくとも健全な贈り物ではありません」


 その言い方が妙に冷静で、少しだけ残酷だった。


 健全ではない。

 そう、たしかにそうだ。


 もし私が一人で箱を開けていたら。

 もしこれを誰にも見せずにいたら。

 私はどうしただろう。


 行かない。

 たぶん最初はそう思う。


 でも、“婚約前に確認しておきたいことがある”なんて書かれていたら。

 もしそれが先方からのもので、ここで無視したせいで「協調性がない」「嫁ぐ覚悟が足りない」などと言われたら。


 そう考えて、結局行ってしまうかもしれない。


 そうして何かが起きれば、終わるのは私だ。


 胸のあたりが急に苦しくなった。


「リディア」


 エレノア様が、今度は少しだけやわらかい声で言った。


「座りなさい」


 気づかなかった。

 私は立ったままだったらしい。


 足元が少し危うい。

 椅子に腰を下ろすと、ようやく自分が震えているのがわかった。指先だけではない。膝の奥も、呼吸も、うまく制御できていない。


「お茶を」


 エレノア様が言うと、侍女がすぐに動いた。

 私はその手際の良さに、なぜか泣きそうになった。


 たぶん、誰かがきちんと動いてくれることが、思った以上にありがたかったのだ。


「……ごめんなさい」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。


「謝ることではないわ」


 エレノア様が言う。


「でも」


「謝るべきなのは、あなたをこういう目に遭わせた側でしょう」


 その声音は静かだった。

 静かで、綺麗で、少しだけ怖かった。


 この人は怒っている。

 怒っているけれど、それを上品な言葉の形にしているのだ。


「わたくし」


 私は唇を湿らせる。


「……変だと思っていたんです」


 言ってしまえば、もう止まらなかった。


「最初のお話は、もっと穏当な家からでした。けれど急に消えて、その次も、あまりに早くなくなって。それで、三つ目に今の縁談が来たとき、父は“これ以上は難しい”と」


 喉がひりつく。


「わたくし、断る理由がうまく見つけられなくて。先方は評判が悪いわけではないし、家にとっても悪い条件ではなくて……だから」


「だから?」


 エレノア様が促す。


「だから、嫌だと思っている自分のほうが、贅沢なのだと思おうとしました」


 口にした瞬間、それがあまりにも惨めで、笑いたくなった。


 贅沢。

 そんな言葉でごまかしていたのだ。

 本当はずっと、何かがおかしいと思っていたくせに。


「贅沢ではないわ」


 エレノア様は即座に言った。


「でも」


「違う」


 きっぱりと遮る。


「嫌なものを嫌だと思うことを、誰かの都合で贅沢にされる必要はない」


 私は返事ができなかった。


 そう言われたのは、初めてだったからだ。


 家のためだから。

 今だけ我慢しなさい。

 あなたならできるでしょう。

 そういう言葉は山ほど聞いた。


 でも、“嫌だと思っていい”とは、誰も言わなかった。


 だから、胸のどこかが急に崩れた。


 泣くつもりなんてなかったのに、視界が少しだけ滲んだ。

 駄目だ。こんなところで。エレノア様の前で。まして、あの文官の前で。


 私は咄嗟に顔を伏せる。


 恥ずかしい。

 情けない。

 こんなふうに、たった一言で崩れるなんて。


「……すみません」


「だから、謝らなくていいと言ったでしょう」


 エレノア様の声が、少しだけ近くなる。

 隣へ来たのだとわかった。


 それがまた、駄目だった。


 やさしくされることに慣れていないわけではない。

 でも、都合ではなく、真正面から庇われることには慣れていなかった。


 今までの私は、誰かが決めた“良い子の形”に収まることで守られてきた。

 自分の嫌悪や恐れごと抱えたまま、そのままで守られたことは、たぶんなかった。


「リディア嬢」


 今度は、アシュレイ様の声だった。


 やわらかくはない。

 どちらかといえば平坦で、少しだけ乾いている。

 でも今は、それがありがたかった。


「……何かしら」


 どうにか答えると、彼はいつもの調子で言う。


「今のうちに一つだけ」


「今?」


「はい。泣いているときのほうが、あとで格好をつけなくて済むので」


 私は思わず顔を上げた。


 何を言っているの、この人。


 そんな気持ちと、あまりの場違いさに、逆に涙が少し引っ込む。


 アシュレイ様は本当に真面目な顔で続けた。


「この箱、最近届いた贈答品の中で“自分では開けていないもの”は、他にもありますか」


 ああ。

 そういうこと。


 エレノア様が小さく息をついた。呆れているのかもしれない。

 でも、私は少しだけ救われた。


 泣いている最中の私を、慰めるべきものとして扱わない。

 代わりに、今聞くべきことだけを聞く。


 ひどく不器用で、でも優しいやり方だと思った。


「……あります」


 私は袖口で目元を押さえながら答える。


「二つ。香油と、刺繍入りの手袋」


「どちらも先方から?」


「名目上は」


「今どこに」


「香油は化粧室。手袋は、まだ贈答卓のはず」


 アシュレイ様が頷く。


「では、それも確認しましょう」


 あまりにも当然のように言うので、私は少しだけ可笑しくなった。


「あなた」


「はい」


「人が泣いているときでも、ずいぶん容赦がないのね」


「手を止めると相手が喜ぶので」


 その答えに、私は笑ってしまった。


 笑うつもりなどなかった。

 けれど、涙の残ったまま、変な声が出るみたいに笑ってしまった。


 エレノア様が、ほんの少しだけ目を細める。


「……あなた、本当に変わっているわね」


 その言葉が誰に向けられたのか、一瞬わからなかった。

 私か、アシュレイ様か。たぶん両方だ。


 侍女が持ってきたお茶は少しぬるくなっていた。

 でも、そのぬるさがちょうどよかった。


 私は茶杯を持ち直し、ゆっくりと息を整える。


 目の前にはエレノア様。

 横には、記録帳を持った文官。

 そして机の上には、私の人生を壊しかけた紙片。


 なのに、さっきより少しだけ呼吸が楽だった。


 不思議だった。


 私を助けようとする人なんて、もっと綺麗に言葉を選ぶものだと思っていた。

 もっと優雅に慰めて、もっとわかりやすく“味方ですよ”という顔をするものだと。


 でもこの人たちは違う。


 エレノア様は、私の代わりに怒ってくれる。

 アシュレイ様は、泣いている最中の私に次の確認事項を聞いてくる。


 たぶん、どちらも正しい。

 正しいのに、今まで私の周囲にはあまりいなかった種類の人たちだ。


 だからだろうか。


 私は自分でも少し嫌になるほど、簡単に思ってしまった。


 ――ああ、助けてほしい。


 その願いが頭へ浮かんだ瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


 駄目だ。

 それは危ない。


 誰か一人へそんなふうに縋るのは、たぶんとても危ない。

 それでも、一度そう思ってしまうと、もう後戻りが難しいことも知っていた。


 私は茶杯の縁に視線を落とす。


 もう笑える。

 笑えるけれど、昨日までみたいには笑えない。


「……エレノア様」


「何かしら」


「今日、お誘いくださって、ありがとうございます」


 ちゃんとした感謝の言葉にしたかった。

 でも、少しだけ掠れた。


 エレノア様は穏やかに頷いた。


「礼はまだ早いわ」


「では、いつなら」


「あなたが無事にこの縁談を見直せるところまで行ってから」


 その一言が、私にはやけに重かった。


 無事に。

 見直せるところまで。

 そんな未来を、もう想像していなかったからだ。


 私はゆっくりと頷く。


 そのとき、視界の端でアシュレイ様が小さく記録帳へ何かを書き足した。


 無意識に気になって、目で追ってしまう。


 書かれていたのは、きっと業務上のことだ。

 でも、その横顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ変な音を立てた。


 この人は、さっきから一度も大丈夫だとは言わない。

 慰めの言葉も、ありふれた優しさも、ほとんど寄越さない。


 なのに、いる。

 ずっといる。

 逃げないで、紙を見て、状況を見て、必要なことを積み上げている。


 そういう人は、ずるいと思った。


 気づいたら、また見てしまっている。

 名前も、顔も、声も、もうちゃんと覚えてしまっている。


 これはたぶん、恋ではない。

 そんな綺麗なものではない。


 もっと切実で、もっと情けなくて、もっと危ないものだ。


 助けてほしいと思ってしまった相手のことを、たぶん人は簡単には忘れられない。

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