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第4話 侯爵家の笑う令嬢

 侯爵家を訪ねる、という行為は、下級文官にとってあまり日常的ではない。


 正確に言えば、私は普段、侯爵家を“訪ねる側”ではなく“記録の上で名前を見る側”だ。

 どこそこの侯爵家より届出あり、どこそこの侯爵家にて婚約打診、どこそこの侯爵家の支出控えに不備――そういうふうに、紙の上でだけ縁がある。


 それが今は、実際に馬車へ揺られている。


 しかも向かいには公爵令嬢エレノア・ヴァルシエ。

 逃げ場がない。


「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいでしょう」


 窓辺の光を受けながら、エレノア嬢が言った。


「嫌というより、身分の不整合に胃が対応しきれていません」


「大げさね」


「侯爵家訪問に同伴する下級文官の気持ちを、一度お考えになったほうがよろしいかと」


「考えたわ」


「その上でこれですか」


「ええ。必要ですもの」


 必要。

 そう言われると、反論しづらい。実際、ここまで来た以上は必要なのだろう。


 馬車の揺れは静かだった。

 公爵家の馬車は乗り心地まで行儀がいい。腹立たしいくらい快適である。


 私は膝の上の記録帳へ目を落とした。

 表向きは慈善会の打ち合わせ。私の役目はその写し係。名目としては自然だ。自然すぎて怖い。


「緊張しているの?」


 エレノア嬢が問う。


「しています」


「見えないわ」


「その手の評価、そろそろ褒められていない気がしてきました」


「実際、褒めてはいないもの」


 でしょうね。


「ただ」


 彼女は続けた。


「あなたが必要以上に気負っていないのは助かるわ」


「必要以上には、ですね」


「必要な分は気負いなさい」


「難しい注文だなあ」


 すると彼女は、ほんの少しだけ笑った。

 この人、最近本当に笑うな、と私は思う。私のせいなら大変困る。令嬢の自然な笑顔は下級文官程度がおいそれと見てはいいものではない。


 エルムローズ侯爵家の屋敷は、ヴァルシエ家ほど静かではなかった。


 門からして柔らかい。

 花が多く、石より木が目立つ。整ってはいるが、秩序で圧する感じではなく、“人好きのする家”を意識している印象だった。


「雰囲気が違いますね」


 馬車を降りながら私が言うと、エレノア嬢は小さく頷いた。


「ええ。ここは人を招くことに長けている家よ」


「それはつまり」


「外から見るぶんには、とても感じがいい、という意味」


 内側は違うのか。

 聞くまでもなく、たぶん多少は違うのだろう。


 案内された応接間には、すでに侯爵令嬢リディア・エルムローズがいた。


 第一印象は、笑うのがうまい人だ、だった。


 髪はやわらかな蜂蜜色。

 瞳は明るく、声も軽い。立ち上がってこちらへ礼を取る所作はきちんとしているのに、堅苦しさを感じさせない。こういう人が社交界で好かれるのだろう、という見本みたいな令嬢だった。


 ただ、その笑みの端に、ほんの少しだけ疲れがある。


 たぶん、気づかない人のほうが多い。

 でも私は、ああいう“奥行きのある無理”を見るのがあまり得意ではない。


「エレノア様。お会いできて嬉しいですわ」


 リディア嬢が言う。


「急なお誘いなのに、来てくださってありがとうございます」


「こちらこそ」


 エレノア嬢が応じる。

 声音は穏やかだが、昨夜から知っている私はわかる。これは社交用の綺麗な声だ。


「慈善会のこと、以前から一度ゆっくりお話ししたかったの」


「まあ、光栄です」


 そう言ってリディア嬢は笑い、それから私へ視線を向けた。


 その視線が止まる。

 ごく一瞬だけだが、止まり方が自然ではなかった。


「こちらは?」


 柔らかい声のまま、彼女が問う。


 エレノア嬢が答える。


「文書局のアシュレイ。今回、記録の写しを手伝ってもらっているの」


「まあ」


 リディア嬢は少し驚いたように目を丸くした。


「文官の方をお連れになるなんて珍しいですね」


「そうかしら」


「ええ。少なくとも、わたくしは初めて見ました」


 まぁ、普通はそうだろうなと思いながら、私は一礼する。


「アシュレイと申します」


「リディア・エルムローズです」


 丁寧で、感じがよくて、少しも隙がない。

 だが私は、その笑顔の奥で一瞬だけ動いたものを見逃さなかった。


 困惑。

 あるいは警戒。

 そして、ほんの少しだけ――安堵。


 安堵?

 なぜだろう、と私は思った。


 応接が始まる。


 茶器は軽やかで、菓子は可憐で、会話も当たり障りがない。慈善会の布施先、春の寄付帳、孤児院向けの刺繍布。上流令嬢らしい柔らかな話題が続く。


 私は後ろで記録帳を開き、写し役に徹した。

 徹しながら、部屋の中を見ていた。


 リディア嬢の後ろには侍女が一人。

 控えめで、よく訓練されている。

 壁際には侯爵家執事補。

 机上には花。

 窓辺には、新しいらしい小箱が一つ。


 そして。


 リディア嬢の左手首に、薄い灰色の靄が見えた。


 ……ああ。

 来てよかった、とは思いたくなかったが、来なければ見落としていた。


 耳飾りでも、恋文でもない。

 今度は手首。

 細い輪のように靄が巻いている。拘束、契約、あるいは“逃げ場のない約束”に近い兆しだ。


 嫌な形だった。


「アシュレイ」


 不意にエレノア嬢から名を呼ばれて、私は顔を上げた。


 リディア嬢が、こちらを見ていた。


「はい」


「そんなに真面目に書かなくても大丈夫ですよ。慈善会のお話なんて、あまり厳密な記録は似合いませんもの」


 笑っている。

 けれど、その言葉には少しだけ探りが混じっていた。


 この人、こちらが“ただの写し係ではない”可能性を探っている。


「習性でして」


 私は無難に返した。


「後から見返して、自分でも読めないのがいちばん困るので」


「ふふ」


 リディア嬢は笑う。


「そういう方、嫌いじゃありません」


 その台詞は、何気なく流すには少しだけ近かった。

 エレノア嬢の視線が、わずかに私を掠める。見なかったことにする。


「リディア」


 エレノア嬢が、自然な調子で話題を差し込んだ。


「最近、縁談が忙しいと聞いたけれど」


 空気が少しだけ変わった。


 本当に少しだ。

 だが、変わった。


 リディア嬢の笑顔は崩れない。崩れないまま、ほんの半拍だけ間が空く。


「……そんな噂まで回っておりますのね」


「王都だもの」


「困ったものです」


 困っている人間の顔ではなかった。

 困っていることを、もうずっと表に出さないでいる人間の顔だった。


「進んでいるの?」


 エレノア嬢が問う。


「ええ、まあ」


 リディア嬢は茶杯へ指を添える。


「家の意向もございますし」


「先方は」


「ルヴァンセル子爵家です」


「穏やかな方だと聞くわ」


 その一言に、リディア嬢の指先がほんの少し止まった。


 それだけで十分だった。


 穏やか。

 少なくとも彼女は、その評判を信じていない。


「……そうですね。皆さま、そうおっしゃいます」


 柔らかい声のまま、少しだけ温度が落ちる。


 私は記録帳に線を引くふりをして、その手首をもう一度見た。

 灰色の輪は消えていない。むしろ、さっきよりも少し濃い。


 この縁談、やはりまずい。


「ところで」


 リディア嬢がふいに私へ向いた。


「アシュレイ様は、普段はどのようなお仕事を?」


 様。

 わざわざそう付けるところが、少しだけ意地が悪い。相手を持ち上げることで逆に立場を浮かせる話し方だ。感じのいい人ほどたまにやる。


「地味なものです」


 私は答える。


「記録の照合や、字の読みにくい書類との格闘などを」


「格闘」


「ええ。酔った方の字は剣より鋭いので」


 リディア嬢がくすりと笑う。

 本当に、笑うのがうまい。


「では、人の嘘を見つけるのもお得意なのかしら」


 軽い調子で投げられた問いだった。

 けれど軽くはない。


 私は少しだけ首を傾げた。


「嘘にもいろいろありますので」


「たとえば?」


「悪意のある嘘は、意外と見つけやすいですね」


「では、見つけにくいのは?」


 その問いには、少しだけ間を置いた。


「本人が、自分でも本当だと思いたがっている嘘です」


 リディア嬢の笑みが、一瞬だけ止まる。


 本当に一瞬だった。

 だが、今のは確実に刺さった。


 ややあって、彼女はまた微笑んだ。


「……怖い方」


「文書局ですので」


「それ、便利な免罪符ですのね」


「多用しています」


 今度はエレノア嬢が、ほんの少しだけ息をついた。

 呆れているのか、諦めているのかは聞かないほうがいい。


 会話はそのまま慈善会の話題へ戻った。

 けれどもう十分だった。


 リディア嬢は縁談に不安がある。

 しかもそれを一人で抱え込んでいる。

 そして、誰かがその状況に乗ろうとしている気配がある。


 問題は、彼女自身がどこまで気づいているかだ。


 やがて応接がひと段落し、エレノア嬢とリディア嬢が庭の花の話へ移る。侍女たちも少しだけ緩む。


 その隙に、私は窓辺の小箱へ目をやった。


 新しい。

 淡い青のリボン。

 端にごく細い金糸。

 ただし、色彩豊かな箱とは正反対のどす黒い色を纏っている。


 ああ、もう。

 そういうことか。


 私は咳払いして、一歩だけ前へ出た。


「失礼」


 全員の視線が集まる。

 できればあまり集めてほしくない。


「その箱ですが」


 リディア嬢が瞬きをする。


「これ?」


「ええ。もし差し支えなければ、どなたからのものか伺っても」


 侍女がわずかに動いた。

 エレノア嬢の目が細くなる。


 リディア嬢は笑みを保ったまま、小箱を見た。


「……昨日、先方から届いた髪飾りです」


「ルヴァンセル子爵家から?」


「ええ」


 その答えに、私は内心で静かにため息をついた。


 見えた。

 この話、もうかなり近い。


「開けていませんのよ」


 リディア嬢が言う。


「少し立て込んでおりましたから」


「でしたら」


 私は慎重に言葉を選ぶ。


「今、ここで確認されたほうがよろしいかもしれません」


 部屋が静まる。


 エレノア嬢は何も言わない。

 言わないが、その沈黙は“説明しなさい”という意味だ。


 私は続けた。


「贈答品は、受け取った時点の確認がいちばん確実です。あとになるほど、誰がいつ触れたかが曖昧になりますので」


 嘘は言っていない。

 本当の理由は別にあるが、ここではまだそれで足りる。


 リディア嬢は小箱を見つめ、それから私を見る。


「……アシュレイ様」


「はい」


「あなた、もしかして」


 その言葉は途中で止まった。


 止まったまま、彼女はふっと笑う。

 今までの笑い方より、少しだけ力がない。


「いいえ。失礼しました」


 そして自分で箱へ手を伸ばした。


 淡い青のリボンを解く。

 蓋が開く。


 中には髪飾り。

 銀細工に小さな青石が散らされていて、一見しただけなら上品な贈り物だ。


 ただし、その下に敷かれた白い布の端が、少しだけ不自然に厚い。


 私は一歩動きかけて止めた。

 ここは私が触る場面ではない。


 代わりにエレノア嬢が静かに言う。


「リディア。その内張りも見せて」


 リディア嬢の指が止まる。


 侍女が青ざめる。

 そして、ゆっくりと布をめくった。


 その下から出てきたのは、短い紙片だった。


 リディア嬢の笑顔が、そこで初めて崩れた。

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