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第3話 辞めた下働きと青い糸

 昼を少し回った頃、私はようやく一つの事実に気づいた。


 公爵家は、文官を働かせる環境として妙に整いすぎている。


 机は広い。

 灯りは十分。

 茶は温かい。

 紙は上質。

 しかも、頼んでもいないのに軽食まで出てくる。


 これは良くない。

 人間は快適な環境に慣れると駄目になる。少なくとも私はそうだ。


「食べないの?」


 向かいからエレノア嬢が言った。


 銀の小皿に、小ぶりな塩気のあるパイが二つ。いかにも“作業の手を止めずに口へ入れられるよう配慮しました”という顔をしている。気遣いが実務的すぎて少し怖い。


「食べますが」


「ならどうしてそんな顔をしているの」


「囲い込みの手際が良すぎて」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


 受け取らないでほしい。


 私は諦めてパイを一つ口に放り込んだ。

 おいしい。腹が立つ。


「毒見は不要ですか」


「今さら?」


「まあ、それもそうですね」


「それに、もし毒を盛るなら、もっと気づかれにくい方法を取るわ」


 さらっと怖いことを言うのはやめてほしい。


 そこへ、扉が二度叩かれた。


「お嬢様、失礼いたします」


 アルヴァンだった。

 入ってきた家令の手には、薄い書類束がある。顔つきは相変わらず鉄扉てっぴじみているが、今は少しだけ“面倒なものを掘り当てた”人間の気配が混じっていた。


「どうだった」


 エレノア嬢が問う。


「マルタの件、いくつか」


 アルヴァンは書類を机へ置いた。


「昨年末まで本邸下働き。洗濯室と贈答仕分け卓の補助を兼任。三月前、香油瓶の盗み未遂で解雇」


「そこまでは聞いたわ」


「解雇後、王都南区の安下宿へ。二週間前に退去。その後の行方は不明」


 私は手を止めた。


「二週間前」


「ええ」


「昨夜の件の、少し前ですね」


「そうなる」


 私は書類束を手に取り、解雇時の簡易報告へ目を通した。

 名前、年齢、出入りの履歴、簡単な所見。

 そして末尾に、小さく一行。


「……裁縫が達者?」


 アルヴァンが頷く。


「侍女見習いの裾直しや、下働きの袖口補修をよく引き受けていたようです」


 青い糸か、と思った。


 右袖の青いほつれ。

 ミレイユが見た“下働き”の袖口の青い糸。

 単なる偶然で片づけるには、だいぶ揃っている。


「糸の色にこだわりがあった?」


「記録にまでは」


「でも、裁縫をする人間なら自分の手癖は残る」


 私は書類を戻した。


「昨夜の偽侍従服、どこから流れたかは」


「まだ追っている。だが衣装庫の管理帳に、不自然な借用記載が一つあった」


「どんな」


「王太子付き侍従の予備服一式。署名はあるが、本人の筆跡ではない可能性が高い」


 なるほど。だいぶ綺麗に線が寄ってきた。


「つまり」


 エレノア嬢が静かに言う。


「マルタという娘が、どこかと繋がり、昨夜の仕込みに使われた可能性がある」


「はい」


 アルヴァンが答える。


「ただし主導しているとは思えません。使われる側かと」


「同感です」


 私も言った。


「贈答経路の揺れ、王宮内の追記、侍従服の手配。下働き一人で回すには重すぎる」


「では上がいる」


「ええ」


 私は新しい紙を引き寄せた。


 マルタ。

 その上に、誰が雇ったか。

 その右に、どこで王宮の流れを知ったか。

 さらに下へ、誰の名義を借りたか。


「今ほしいのは、解雇後の足取りです」


「南区の下宿までは取れている」


「その先は?」


「途切れていますな」


 アルヴァンが言った。


「名前を変えたか、紹介状で別口に入ったか」


「あるいは」


 私は指先で紙を軽く叩いた。


「誰かが先に囲った」


 その言葉に、エレノア嬢の視線が一瞬だけ上がる。

 妙なところで反応がいい。


「囲った?」


「行き場のない元使用人って、使いやすいんです。屋敷の流れは知ってる。身分は低い。金にも困る。しかも、失職した理由があると脅しも効く」


「……嫌な話ね」


「王都らしい話です」


 私が肩をすくめると、エレノア嬢はほんの少しだけ眉を寄せた。


「あなた、そういうことをよく知っているのね」


「文書局にいると、不名誉な処分記録だけ妙にたくさん見ますので」


「それで慣れたの?」


「慣れたくはなかったですね」


 そう言うと、彼女はしばらく何も言わなかった。


 代わりにアルヴァンが、別の一枚を机上へ滑らせる。


「もう一つ」


「まだあるんですか」


「景気がよろしいでしょう」


 家令が私の台詞を真似た。嫌な予感しかしない。


 私は紙を見る。

 王都南区、下宿屋の聞き取り。

 マルタの退去日に、迎えの馬車が来ている。紋章なし。御者は無口。だが下宿の女主人が覚えていたのは、馬車に結ばれていた荷札の色。


「……青」


「ええ」


 アルヴァンが言う。


「淡い青。しかも端に金糸」


 私は思わず舌打ちしそうになって、ぎりぎりで飲み込んだ。


「侯爵家か」


「何かわかるの?」


 エレノア嬢が問う。


「王都でその組み合わせの荷札を使う家、いくつかありますが……一つ、目立つところがあります」


「どこ」


 私は少しだけ躊躇した。


「エルムローズ侯爵家です」


 部屋が静まる。


 エレノア嬢の目が細くなった。


「リディア・エルムローズ?」


「ご存じで」


「社交界で知らない者はいないわ。明るくて、愛想がよくて、少し危うい侯爵令嬢」


 その評し方はずいぶん正確な気がした。

 まだ会ってもいない相手に対して、と思いかけて、いやこの人は会っている側か、と気づく。


「侯爵家と今回の件が繋がると?」


「まだ言い切れません。でも」


 私は贈答控えの束を捲った。


「エルムローズ侯爵家にも、最近変な動きがあれば話は早い」


「変な動き、とは」


「縁談が急に進む。あるいは逆に急に止まる。侍女や下働きが短期間で入れ替わる。贈答の窓口が妙に揺れる」


「……あなた」


 エレノア嬢が呆れたように言う。


「本当に、嫌なところだけよく見るのね」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めていないわ」


「知っています」


 そこで、控えめなノックが入った。


「失礼します」


 ベルナールだった。


 珍しい。文書局の同期が公爵家の執務室へ平然と入ってくる図は、見慣れなさすぎて少し面白い。本人は面白くなさそうだったが。


 一瞬、エレノア嬢とアルヴァンを緊張した顔で一瞥するが、


「別に取って食ったりしないわ。アルヴァンの友人なのでしょう? 普通にしてていい」


 と、この部屋の最高権力者からお墨付きを頂き、ホッとした顔で入ってくる。

 流石に真面目な友人にはこの部屋の圧は荷が重いようだ。


「お前、どうした」


「局から伝言と、あと半分は俺の善意」


「善意が半分あるのか」


「あるよ。たまには」


 ベルナールは一礼し、抱えてきた小袋から数枚の控えを出した。


「文書局保管の婚約関連届出の索引。局長には“昨夜の後始末で必要です”って言って借りた」


「おお」


「その反応やめろ。お前に感心されると嫌な予感しかしない」


 たいへん失礼だが、今はありがたい。


 私は索引を受け取り、頁を繰る。

 家同士の正式な婚約届そのものではなく、打診、保留、陪席予定、仲介人の名。そういう周辺索引だ。文書局はこういうときだけ急に便利になる。


「……へえ」


「何だ」


 ベルナールが聞く。


「エルムローズ侯爵家の令嬢、最近縁談が一件動いてる」


「相手は」


「ルヴァンセル子爵家の嫡男。表向きは穏当。資産はある。でも」


 私は次の索引へ目を移した。


「前の婚約打診先が、二件連続で妙に短期で消えてる」


「妙に、って」


「普通なら保留理由くらい残るんですよ。体調不良とか、先方事情とか。でもこれは“打診撤回”だけで中身が薄い」


 アルヴァンが言う。


「隠したい事情があるか」


「あるいは、事情そのものが書面に残せない」


 ベルナールが眉をひそめる。


「それ、まずくないか」


「まずいね。だいぶ」


 私は索引の端を軽く叩いた。


「しかも時期がいい。マルタが消えた二週間前と、二件目の打診撤回がだいたい重なる」


 部屋の空気がまた変わった。


 点が線になり始める瞬間の沈黙。

 私は嫌いではない。大抵このあと面倒なことになるのが難点だが。


「……つまり」


 エレノア嬢が、ゆっくりと言葉を置く。


「私を狙った仕込みと、エルムローズ侯爵家の縁談が、同じ流れにあるかもしれない」


「はい」


「そして、その侯爵令嬢が次の標的かもしれない」


「その可能性があります」


 ベルナールが思わず口を挟む。


「次、っておい。まだ増えるのかよ」


「私も増えてほしくはないんだが」


「お前、その割にちょっと目が仕事の目になってるぞ」


「その指摘は不本意だ」


 ほんとうに不本意だ。


 だが、ここまで揃えば見に行かないわけにもいかない。

 見に行かなければ、あとで寝覚めが悪くなる。困った性分である。


 エレノア嬢はしばらく考え、それから静かに口を開いた。


「アシュレイ」


「はい」


「エルムローズ侯爵家へ行くわよ」


「……はい?」


「もちろん表向きは別件で。春季慈善会の打ち合わせにでもすればいい」


「いや、そういう問題ではなく」


「何かしら」


「私まで行く前提なんですね」


「当然でしょう」


「いやいやいや」


 珍しく三回続けて言ってしまった。

 ベルナールが横で吹き出しかけ、慌てて咳払いする。


「私、今ヴァルシエ家の外郭がいかく記録担当ですよね」


「ええ」


「侯爵家訪問は外郭がいかくの外では」


「外へ出るから外郭がいかくよ」


「その理屈は言葉遊びでは…?」


「通すわ」


 強い。

 理屈が強いというより、通す気の強さが強い。


 私はベルナールを見る。


「助けてくれ」


「無理だな」


「即答だな」


「公爵令嬢と家令と仕事の話がまとまってる場で、下級文官一人だけ反対しても勝てるわけないだろ」


 もっともだが、もう少し同情的でもよかったのでは。


「お嬢様」


 アルヴァンが口を開く。


「訪問自体は可能ですが、急です。先方に不審を抱かせぬ理由が要ります」


「理由ならあるわ」


 エレノア嬢は落ち着いた声で言った。


「耳飾りの一件の礼を兼ねて、以前から約束していた布施会の件を詰める。侯爵令嬢リディアはそういう誘いを断らない」


 なるほど。

 人付き合いの地図はさすがに私よりずっと上だ。


「そして」


 彼女は続ける。


「アシュレイには、贈答記録の写し係として同行してもらう」


「写し係」


「不服?」


「いや、名目としてはありがたいですが」


「でしょう?」


 でしょうね、としか言えない。


 私は索引を閉じた。


 エルムローズ侯爵家。

 消えた下働き。

 揺れる贈答名義。

 急な縁談。


 どう考えても、行くしかない気がする。

 気がするが、自分で認めると負けた感じがするので、できれば認めたくない。


「……一つだけ」


 私が言うと、エレノア嬢がこちらを見る。


「何かしら」


「行くのはいいとして」


「いいのね」


「よくはないですが、話を進めないでください」


 少しだけ早口になったのを自覚しつつ、私は続けた。


「先方が本当に同じ線の上なら、こちらの動きも見ている可能性がある。公爵令嬢が不用意に踏み込むと、次はもっと慎重に潜るかもしれない」


 エレノア嬢は黙って聞いていた。


「つまり」


「つまり、あなたは“親しい令嬢を気遣って訪ねる公爵令嬢”でいてください。狩人の顔は、せめて私だけに見せる方向で」


 言ってから、少しだけ空気が止まった気がした。


 ベルナールが、なぜか目を逸らす。

 アルヴァンまでわずかに咳払いした。


 何だ。何かまずかっただろうか。


 ややあって、エレノア嬢が静かに言う。


「……あなた」


「はい」


「自分が今、わりと無礼なことを言った自覚はある?」


「仕事上の進言ですが」


「それが無礼なのよ」


「すみません」


 とりあえず謝る。

 すると彼女は数秒こちらを見てから、ほんの少しだけ目元を和らげた。


「でも、その進言は正しいわ」


「それはよかった」


「だから採用してあげる」


「上からだなあ」


「上だもの」


 そうだった。

 相手は公爵令嬢だった。たまに忘れかけるから危ない。


 ベルナールがぼそりと言う。


「お前、ほんとよく今まで打ち首になってないな」


「書類仕事が丁寧だからじゃないか」


「そういう問題じゃない」


 まったくその通りである。


 私は席を立ち、窓の外を見る。

 公爵家の庭は静かだった。整いすぎていて、人の悪意など届かないように見える。けれど実際には、こういう綺麗なところほど見えない糸は張りやすい。


「……リディア・エルムローズ、ですか」


 口にすると、エレノア嬢がわずかに反応した。


「気になる?」


「これだけ材料が揃ってれば」


「そう」


 彼女の声は平静だった。

 だが、その平静の底に何か硬いものがある気がした。


 同じ手が、別の令嬢にも向いている。

 それをこの人は、たぶん思っていた以上に嫌がっている。


 理由まではまだ見えない。

 けれど、見えないものはそのうち紙以外のところで尻尾を出す。経験上、そういうものだ。


「明日」


 エレノア嬢が告げる。


「エルムローズ侯爵家へ行くわ」


「早いですね」


「早いほうがいいのでしょう?」


「まあ、それは」


「なら決まりね」


 あっさりと話が固まる。

 こういうところ、本当に強い。


 私は深く息を吐いた。


 今のところ、耳飾りの針は一本。偽の恋文も一枚。

 だがその裏では、もっと長い手が伸びている。


 それが次に誰の喉元へ来るのか。

 たぶん明日、少しだけ見える。


 見えるのはありがたくない。

 だが、見えてしまうのだから仕方がない。


「帰りたい」


 ぼそりと呟くと、エレノア嬢が即座に返した。


「駄目よ」


「最近その返事しか聞いてない気がします」


「気のせいではないでしょうね」


 その答えが、妙に楽しそうだったのが少しだけ不穏だった。

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