第7話 仮面を外す日
「病院へ行く」
凛はギターを置いた。
結衣がその前に立った。
「最終審査に出て」
「お父さんが危ないんですよ」
「係長が、そう望んでいる」
「会えなくなったらどうするの!」
「それでも、歌ってほしいと言ったの」
凛の目から涙があふれた。
「夢なんて、どうでもいい」
「どうでもよくない」
結衣は直人から預かったノートを差し出した。
最初のページには、凛への手紙が挟まれていた。
『凛へ。
父さんがいなくなっても、父さんのために夢を諦めないでください。
夢がかなわなくてもいい。
途中で別の道を選んでもいい。
ただ、父さんの病気を理由に、自分の人生を小さくしないでください。
母さんと父さんが願っているのは、凛が自分で選んだ道を歩くことです。』
文字が途中から震えていた。
『最終審査の日、父さんは必ず歌を聞きます。
病院でも、どこにいても、必ず聞いています。』
凛は手紙を胸に抱いた。
最終審査の配信開始まで、一時間。
凛は母のギターを背負い、配信スタジオへ向かった。
控室には、残った五人の候補者がいた。
全員が緊張した表情をしている。
桐谷玲奈が凛のもとへ来た。
「顔色が悪いけれど、大丈夫?」
凛は父のことを話した。
玲奈は黙って聞いた。
「病院へ行きたいです。でも、父は歌えと言いました」
玲奈は凛の肩に手を置いた。
「美咲も、きっと同じことを言う」
「母なら、どうしたでしょう」
「泣きながらステージに立ったと思う」
玲奈は少し笑った。
「美咲は、おとなしく見えて頑固だったから」
配信開始五分前。
凛は鏡の前に座った。
白い仮面を手に取る。
これまで仮面がなければ歌えなかった。
誰かの目が怖かった。
評価されるのが怖かった。
失敗したとき、本当の自分まで否定される気がした。
だが父は、何十万人もの前で失敗し続けた。
踊れなくても踊った。
転んでも立ち上がった。
笑われながら、娘のために道を作った。
凛は仮面をテーブルへ置いた。
スタッフが驚く。
「つけなくていいんですか?」
「はい」
凛は母のギターを抱え、ステージへ向かった。
配信が始まる。
同時視聴者数は、開始直後から異常な数字を示していた。
一万人。
三万人。
十万人。
父の最後の動画を見た人々が、凛の配信を訪れていた。
けれど、凛は数字を見なかった。
カメラの向こうに、父がいると思うことにした。
病院では、結衣が直人のベッドの横にタブレット端末を置いていた。
直人は酸素マスクをつけ、目を開けることも難しい状態だった。
「係長。凛ちゃんの配信が始まります」
反応はない。
それでも結衣は音量を上げた。
画面に凛が映る。
仮面を外している。
直人の指が、わずかに動いた。
凛はマイクの前に立った。
「今日歌う曲は、母が残した十四小節から作りました」
会場が静まる。
「母は、私が十歳のときに亡くなりました。父は一人で私を育ててくれました。でも私は、父がどれほど私を大切にしてくれていたのか、気づいていませんでした」
凛は涙をぬぐった。
「この歌を、母と父へ届けます」
ギターの音が鳴った。
美咲が残した旋律。
凛がつないだ歌詞。
歌の題名は、『灯りの向こう』。
――あなたが迷う夜には
――遠い窓から灯りをともす
――名前を呼べなくなっても
――この歌だけは、そばにいる
凛の声が震えた。
だが途中で止まらなかった。
――あなたが一人になる朝も
――見えない手で背中を押す
――遠く離れてしまっても
――あなたの歌で、また会える
画面の向こうで、多くの人が泣いていた。
父のフォロワーだけではない。
偶然配信を見た人。
母を亡くした人。
子どもと離れて暮らす人。
夢を諦めかけていた人。
それぞれが自分の大切な人を思いながら、凛の歌を聞いた。
曲が終わる。
凛は深く頭を下げた。
数秒の沈黙のあと、スタジオに大きな拍手が響いた。
病室では、直人の目尻から一筋の涙が流れた。
「聞こえていますか?」
結衣が問いかける。
直人の唇が動いた。
「上手に……なったな」
最終審査の結果は、凛が圧倒的な一位だった。
視聴者投票だけでなく、審査員評価でも最高点を獲得した。
桐谷玲奈がステージへ上がり、凛の手を握った。
「水野凛さん。あなたに、デビューしてもらいます」
凛は泣きながら頭を下げた。
配信が終わると、すぐに病院へ向かった。
個室の扉を開ける。
直人は眠っていた。
凛が手を握ると、ゆっくり目を開けた。
「お父さん。聞いてた?」
「ああ」
「受かったよ」
「そうか」
直人は、弱く笑った。
「母さんに、似ていた」
「お父さんにも似てるよ」
「どこが」
「怖くても、逃げないところ」
直人は目を閉じた。
モニターの音は、まだ規則正しく続いている。
凛は父の手を握ったまま、何度も話しかけた。
デビュー曲のこと。
玲奈と歌う約束。
いつか武道館に立ちたいこと。
直人は静かに聞いていた。
数か月後。
凛は『灯りの向こう』でデビューした。
曲は多くの人に聞かれ、ランキングを駆け上がった。
直人は入退院を繰り返しながら、娘の活動を見守った。
そしてデビューから三年後。
凛のもとへ、大きな知らせが届いた。
日本武道館での単独ライブが決定したのだ。
凛が病室で報告すると、直人は目を細めた。
「あの場所か」
「三人で玲奈さんを見た場所」
「楽しみだな」
凛は笑ってうなずいた。
しかし病室を出たあと、担当医に呼び止められた。
「武道館公演は、半年後ですね」
「はい」
医師は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。
「お父さまの状態を考えると、半年後まで体力がもつ可能性は、非常に低いと思います」




