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父がバズった日、私は父を嫌いになった ――亡き妻と娘の夢をつないだ、無口な係長の最後の挑戦  作者: asnt2026


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最終話 武道館のいちばん後ろで

武道館公演まで、あと半年。


凛は全国ツアーやテレビ出演の合間を縫い、できる限り病院へ通った。


直人の体は、以前よりさらに細くなっていた。


自力で歩くことが難しくなり、車椅子を使うようになった。


それでも凛が病室へ入ると、直人は必ず笑った。


「忙しいのに、来なくていい」


「私が来たいの」


「練習はどうだ」


「順調」


「嘘だな」


「どうして?」


「順調なときは、そんな顔をしない」


凛は苦笑した。


父は昔から口数が少ない。


それでも、凛のわずかな変化には誰より早く気づいた。


「武道館、怖い」


凛は本音をこぼした。


「満員のお客さんの前で、ちゃんと歌えるかわからない」


「仮面をつけるか」


「もうつけない」


「そうか」


直人は窓の外を見た。


「怖くても、歌える。お前は一度、やっている」


武道館公演の一か月前。


直人の容体が悪化した。


医師からは、外出は難しいと告げられた。


凛はライブを延期しようとした。


しかし直人は首を振った。


「約束した人がいるんだろう」


「お父さんが来られないなら、意味がない」


「凛」


直人は静かに言った。


「父さんのために歌うな」


凛は黙った。


「お客さんの中には、仕事がつらい人もいる。大切な人を亡くした人もいる。夢を諦めようとしている人もいる。昔の父さんみたいに、どこへ行けばいいかわからない人もいる」


直人は目を閉じた。


「そういう人のために歌いなさい」


大学時代。


就職活動に失敗し続けた直人は、駅前のベンチに座っていた。


何十社受けても内定が出ない。


自分は社会に必要とされていない。


そう思い、履歴書を破ろうとしていた。


そのとき、歌声が聞こえた。


ギターを抱えた美咲が、玲奈と二人で歌っていた。


客はほとんどいなかった。


立ち止まる人も少ない。


それでも美咲は、目の前の一人へ届けるように歌っていた。


――明日が見えない夜でも

――朝はあなたを忘れない


直人は履歴書を破るのをやめた。


翌週、もう一度だけ面接を受けた。


それが、今の会社だった。


内定が決まった日、直人は美咲の路上ライブへ行った。


ライブが終わる頃、酔った男が美咲の腕をつかんだ。


直人は怖かった。


人と争った経験などなかった。


それでも間に入った。


「嫌がっています。やめてください」


声は震えていた。


男に突き飛ばされ、尻もちをついた。


それでも立ち上がった。


後日、美咲は笑って言った。


「すごく弱そうなのに、何度も立ってくれましたよね」


「弱そう、ではなく、弱いです」


「でも、逃げなかった」


それが、二人の始まりだった。


武道館公演当日。


凛は楽屋で母のギターを抱えていた。


桐谷玲奈が扉を開ける。


「準備はできた?」


「たぶん」


「美咲も緊張していると思う」


「天国でも緊張するんですか?」


「するよ。あの子、本番前はいつも手が冷たかったから」


玲奈は、凛の手を握った。


「あなたの手も冷たい」


二人は笑った。


開演十分前。


結衣から電話がかかってきた。


「凛ちゃん。今、どこ?」


「楽屋です」


「客席を見て」


凛は舞台袖へ走った。


まだ照明の落ちた客席。


一万四千人の観客が開演を待っている。


結衣が言った。


「二階席の、いちばん後ろ」


目を凝らす。


通路脇の車椅子。


マスクをつけ、毛布に包まれた男性。


その横で結衣が手を振っている。


直人だった。


凛は口元を押さえた。


「どうして……」


「医師と相談して、今日だけ外出許可をもらったの。係長、どうしても来るって」


電話の向こうから直人の声がした。


「凛」


「お父さん」


「遠いな」


「見えるよ。ちゃんと見える」


「そうか」


「絶対、帰らないでね」


「最後までいる」


開演を知らせる音が鳴った。


凛は涙をぬぐい、ステージへ向かった。


暗闇の中、母のギターを鳴らす。


一筋の光が、凛を照らした。


一曲目は、『灯りの向こう』。


母が作り始め、娘が完成させ、父が多くの人へ届けた歌。


凛の声が武道館を満たす。


直人は車椅子に座り、静かに聞いていた。


隣の席には、一つだけ空席が用意されていた。


その座席には、美咲が使っていた古いストールが掛けられている。


直人が持ってきたものだった。


曲が終わり、凛は観客へ語りかけた。


「この歌は、母が残した十四小節から生まれました」


会場が静まる。


「母は、夢の途中で歌うことをやめました。父は、夢なんて持ったことがないと言っていました。でも、本当は誰よりも大きな夢を持っていたのだと思います」


凛は二階席を見上げた。


「自分がいなくなったあとも、娘が一人で歩いていけるようにすること。それが父の夢でした」


客席のあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。


「お父さん。私はもう、一人じゃありません」


凛は母のギターを抱きしめた。


「お父さんが集めてくれた人たちがいます。私の歌を聞いてくれる人がいます。だから、もう心配しないでください」


直人は目元を押さえた。


「最後に、父が初めて母の歌を聞いた日に歌っていた曲を歌います」


玲奈がステージへ登場した。


美咲と玲奈が路上で歌っていた、未発表の曲。


玲奈の声と、凛の声が重なる。


まるで、二十年以上の時間を越えて、美咲が再び歌っているようだった。


直人は目を閉じた。


駅前のベンチ。


ギターを持つ美咲。


小さな凛。


三人で見上げた武道館のステージ。


すべての景色が、一本の道としてつながった。


ライブが終わったあと、凛は車椅子の直人のもとへ走った。


「お父さん、どうだった?」


「良かった」


「それだけ?」


「とても、良かった」


直人は昔と変わらない、不器用な笑顔を見せた。


「母さんにも、聞こえたかな」


「聞こえてるよ」


凛は空席のストールに触れた。


「きっと、私たちの間に座ってた」


直人はうなずいた。


その三週間後。


直人は病室で、凛と結衣に見守られながら静かに息を引き取った。


枕元では、武道館で録音された『灯りの向こう』が流れていた。


直人のスマートフォンには、最後までSNSのアカウントが残っていた。


フォロワーは百万人を超えていた。


凛は父のアカウントを引き継いだ。


だが、自分の宣伝には使わなかった。


一年に一度、父の命日だけ投稿することにした。


最初の投稿は、武道館の二階席から撮影された写真だった。


満員の客席。


遠くで歌う凛。


その横には、美咲のストールが掛けられた空席が写っている。


凛は短い文章を添えた。


『父へ。


今日も私は歌っています。


母の歌と、父が残してくれた灯りを持って。


怖くても、迷っても、これからも何度でも立ち上がります。


あの日、父がインフルエンサーを目指してくれて、本当によかった。』


投稿ボタンを押すと、すぐに多くのコメントが届いた。


けれど凛は画面を閉じた。


母のギターを抱え、窓を開ける。


春の風がカーテンを揺らした。


遠くから、誰かの歌声が聞こえる。


凛は目を閉じた。


それは母の声にも、父の声にも聞こえた。


「行ってきます」


返事はなかった。


それでも凛は笑い、ステージへ向かった。


もう仮面は、必要なかった。

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