第4話 母のギターを知る人
「娘さんに、病気のことを話してください」
撮影を中止した公園で、結衣は直人に言った。
「できない」
「なぜですか」
「妻が亡くなったとき、凛は十歳だった」
直人は遠くの遊具を見つめた。
「学校では泣かなかった。葬儀でも泣かなかった。夜中に一人で、妻のギターを抱いて泣いていた。あの姿を、もう一度見るのが怖い」
「でも、隠したままでは――」
「俺が死ぬことだけを考えて、凛に毎日を過ごしてほしくない」
直人は妻の保険金に手をつけず、凛名義の口座に残していた。
大学へ進学しても、しばらく生活には困らない。
しかし直人が心配しているのは、お金だけではなかった。
引っ込み思案で、人に助けを求めることが苦手な娘。
音楽の道を目指しても、つながりも、経験も、支えてくれる大人もいない。
「フォロワーのいるアカウントを凛に残したい。仕事や音楽活動に使えるようにしたい」
「それで十万人ですか」
「ああ」
「簡単じゃありません」
「わかっている」
「今のペースでは、体がもちません」
「それでもやる」
結衣は唇をかんだ。
直人が自分のために必死なのではないことを、知ってしまった。
それから結衣は、体を酷使する企画をやめた。
直人の日常や、会社員としての不器用さを生かした動画へ切り替えた。
若者言葉を覚える。
娘に嫌われないLINEの文章を考える。
流行のスイーツを真剣に食べ比べる。
「部下から言われた無茶ぶりを、無口な係長が本気でやる」という構成が支持され、フォロワーは一万人、二万人と増えていった。
一方、凛はオーディションを勝ち進んでいた。
仮面をつけたまま参加することを事務所も認めた。
歌唱力だけでなく、凛の作る曲には独特の寂しさがあった。
審査員からは、
「十五歳とは思えない」
「言葉の裏に物語がある」
と評価された。
ついに最終審査へ進む五人が発表された。
説明会の日。
凛は母のギターを背負い、事務所を訪れた。
広いスタジオに入ると、そこに桐谷玲奈がいた。
長い黒髪と、凛と同じように少し息の混じる歌声。
凛が何年も憧れてきた人だった。
玲奈は、最終審査の特別審査員を務めるという。
説明会が終わり、凛が帰ろうとしたとき、玲奈が近づいてきた。
「そのギター、少し見せてもらってもいい?」
凛は緊張しながらギターを差し出した。
玲奈はボディの裏側を確認した。
そこには、小さな花と「M」の文字が彫られている。
玲奈の指が止まった。
「このギター、どうしたの?」
「母の形見です」
「お母さんの名前は?」
「水野美咲です」
玲奈の顔から血の気が引いた。
「美咲……?」
玲奈はギターを抱きしめるように持った。
「あなた、美咲の娘なの?」
凛は驚いてうなずいた。
玲奈は椅子へ腰を下ろし、しばらく何も話せなかった。
やがて、震える声で語り始めた。
大学時代、美咲と玲奈は「M&R」というデュオを組んでいた。
駅前や商店街で、毎週のように歌った。
客が一人も立ち止まらない日もあった。
雨で機材が濡れ、二人で泣きながら帰ったこともある。
玲奈が作曲し、美咲が歌詞を書くことが多かった。
美咲は人を立ち止まらせる歌声を持っていた。
玲奈は華やかで、度胸があった。
正反対だったが、二人でなら夢へ進めると信じていた。
ある冬の日。
美咲が高熱を出し、玲奈は一人で路上に立った。
その日に限って、音楽事務所のスカウトが通りかかった。
「ソロならデビューさせられる」
そう告げられた玲奈は、迷った。
美咲に電話すると、彼女は笑って言った。
「行って。玲奈が先に行って、私が追いつくから」
玲奈はデビューした。
美咲は路上ライブを続けた。
だが、二人の距離は少しずつ開いていった。
玲奈は多忙になり、美咲は結婚し、やがて連絡は途絶えた。
「私がデビューしてから、美咲に会ったのは一度だけだった」
玲奈は目を伏せた。
「武道館のライブに来てくれた。旦那さんと、小さな女の子を連れて」
凛は記憶の中の武道館を思い出した。
母が泣きながら歌っていた理由を、そのとき初めて知った。
「母は、五年前に亡くなりました」
玲奈は両手で口元を覆った。
「知らなかった……」
長い沈黙のあと、玲奈は凛をまっすぐ見た。
「凛ちゃん。あなたには才能があると思う。でも、才能だけでは届かない世界なの」
「わかっています」
「努力しても、報われない人の方が多い。きっかけと、運と、人とのつながりが必要になる」
凛は母のギターを握った。
「それでも、私は歌いたいです」
家に帰り、凛は直人に玲奈との出来事を話した。
直人は驚いたが、すぐに険しい顔になった。
「芸能界は厳しい。高校を卒業してからでも遅くない」
「どうして応援してくれないの?」
「応援していないわけじゃない」
「お母さんの夢でもあったんだよ」
「だからこそ、簡単に考えてほしくない」
「簡単になんて考えてない!」
直人は、凛が何度も歌を撮り直していることを知っていた。
夜遅くまで作詞をしていることも知っている。
だが病気のことを隠している直人には、凛を一人で厳しい世界へ送り出すことが怖かった。
「歌だけで生きていける人は、ほんの一握りだ」
その言葉が、凛の胸をえぐった。
「私の努力も見ていないくせに」
「見ている」
「見てないよ!」
凛は直人のスマートフォンを指さした。
「毎日、くだらない動画ばかり撮ってる人に言われたくない!」
直人の顔がこわばった。
「いい年をして踊って、転んで、笑われて。お父さんの方が、よっぽど何も考えてないじゃない!」
「凛」
「お母さんが生きていたら、絶対に恥ずかしがってる!」
凛が部屋へ走っていく。
扉が激しく閉まった。
直人は一人、リビングに残された。
胸の痛みよりも、凛の言葉の方が痛かった。
その夜。
直人は押し入れの奥から、古いスマートフォンを取り出した。
亡くなった美咲が使っていたものだった。
五年間、一度も電源を入れられなかった。
震える指で充電器をつなぐ。
しばらくすると、画面が淡く光った。
写真、メッセージ、音声、動画。
生まれたばかりの凛。
初めて歩いた日。
三人で行った海。
武道館で笑う美咲。
直人は泣きながら、一つずつ再生した。
そして、最後の方に残されていた一本の動画に気づいた。
病室のベッドに座る美咲が、ギターを抱えていた。
『凛に、いつか歌ってほしい曲を作っています』
美咲はカメラへ向かって微笑んだ。
『でも、最後まで作れるかわからないから――』
そこで映像が揺れた。
美咲は、短い旋律を歌い始めた。
たった十四小節。
歌詞も途中で終わっていた。
直人は息をするのも忘れて、その歌を聞いた。
動画の最後、美咲はカメラへ顔を近づけた。
『直人さん。もし私がいなくなったら、この曲の続きを――』
そこで、映像は途切れていた。




