第63話 ありがとう
ルミナリア療術院の窓から見える空は、毎日少しずつ色を変えていた。
白に近い朝の空。少しだけ青が混じる昼の空。
夕方になると、その青に薄い橙色が混ざる。
それを、ルーミアは毎日眺めていた。空を眺める時間は嫌いではなかった。
白い天井、白い壁、白いシーツ。この部屋の中で、空だけが外の世界だった。
ノエルは毎日来た。レオンも各地を回っているらしく、なんだか忙しそうなのに、それでも何度も来た。
二人は色々な話をした。旅の話、町の話、どうでもいい冗談。
ルーミアは、それを静かに聞いていた。
覚えていない話ばかりだった。
それでも、嫌な気はしなかった。
二人の声は、なぜか落ち着いた。
「今日も手紙が来てるわよ」
ある日、ノエルが封筒を一つ持ってきた。
「手紙?」
「ええ。あなた宛て」
差し出された封筒には、見知らぬ名前が書かれていた。
ルーミアは封を開け、中の紙を広げる。
少し震える字で、こう書かれていた。
『あのとき、助けてくれてありがとうございました。ルーミアさんがいなかったら、私はきっと家に帰れませんでした。あなたのことを、ずっと忘れません。』
ルーミアは、しばらくその紙を見ていた。
助けた。
私が。
その感覚が、うまく想像できない。
「……そう」
それだけ言って、手紙を丁寧に折りたたんだ。
次の日も、手紙が来た。その次の日も。。
『あのときのパン屋です』
『港町で助けてもらった者です』
『あなたが編んでくれた色のおかげで、家族と話せました』
『ありがとう』
机の上に、手紙が少しずつ積み重なっていく。
ルーミアは、それを毎日少しずつ読んだ。
全部、自分宛てだった。
全部、自分に向けられた言葉だった。
ありがとう。
何度も同じ言葉が書かれている。
それを読んでも、胸は大きく動かなかった。
ただ、静かに文字を追うだけだった。
「すごいわね」
ノエルが言う。
「こんなに手紙が届く人、そういないわよ」
ルーミアは首を少し傾げる。
「……すごいのでしょうか?」
「ええ」
ノエルは机の上の手紙を一通手に取る。
「それだけ、たくさんの人の人生を変えたのよ」
「……」
「覚えてなくてもいいのよ」
そう言って、手紙を元の場所に戻した。
数日後、ルミナリア療術院に見舞い客が来た。
小さな女の子だった。
母親らしい女性に手を引かれて、部屋の前まで来る。
女の子は、少し緊張した顔でルーミアを見る。
「……あの」
小さな声。
「助けてくれて、ありがとうございました」
女の子は深く頭を下げた。
ルーミアは、どう反応していいか分からず、少しだけ戸惑う。
「……どういたしまして?」
自分でも、変な返事だと思った。
女の子は顔を上げて、にこっと笑った。
「わたし、あのとき怖かったけど、あなたが来てくれて、怖くなくなったんです」
その言葉を聞いても、やはり記憶は戻らない。
それでも、女の子はとても嬉しそうに笑っていた。
「本当に、ありがとうございました」
もう一度、深く頭を下げる。
その姿を見て、ルーミアは小さく頷いた。
「……うん」
それしか言えなかった。
手紙に加え、見舞い客も少しずつ増えた。
港町で出会った老人。
宿屋の女性。
旅の途中で会った商人。
ルーミアの名前を知らない人もいた。
みんな同じことを言った。
「ありがとう」
「助かりました」
「あなたのおかげです」
「忘れません」
ルーミアは、そのたびに少しだけ困ったように笑った。
自分が何をしたのか、分からない。
何を残したのかも、分からない。
それでも、みんなは嬉しそうに帰っていく。
「……変な感じです」
ある日、ルーミアはぽつりと言った。
「なにが?」
ノエルが聞く。
「私、何も覚えてないのに、みんな、嬉しそう」
ノエルは、笑った。
「そうなっちゃうよね」
ノエルは、少し考えてから答えた。
「でもこれが、あなたが、ちゃんとそこにいた証拠よ」
「……?」
ノエルは窓の外を見ながら続ける。
「助けてもらった人は、覚えてるのよ。ずっと」
ルーミアは、少しだけ考える。
自分は覚えていない。
でも、相手は覚えている。
その不思議な関係を、うまく理解できないまま、
机の上の手紙の山を見つめた。
「……私、何をしたんだろう」
その呟きに、ノエルはすぐには答えなかった。
しばらくしてから、静かに言った。
「世界は、あまり変わらなかったわ」
ルーミアは顔を上げる。
「色は、完全には戻らなかった。褪色も止まっていない」
ノエルは、まっすぐルーミアを見る。
「でもね」
そして、机の上の手紙を軽く叩く。
「人は、たくさん残った」
ルーミアは、その言葉の意味を、まだ完全には理解できなかった。
それでも、机の上に積み重なった「ありがとう」だけは、静かに存在し続けていた。
見舞いの人が帰ったあと、部屋は静かになった。
机の上には、手紙の束。白い封筒、少し黄ばんだ紙、震える字、丁寧な字。全部、自分に向けて書かれたものだった。
レオンは壁にもたれて腕を組んでいた。
「人気者だな」
レオンが言う。
「……そうなんすか?」
ルーミアは、少し首を傾げた。
人気者。その言葉は、自分にはあまり関係ない気がした。
「私、何もしてない気がする」
「してるのよ」
ノエルが即座に言う。
「覚えてないだけ」
ルーミアは、少しだけ困ったように笑った。
「覚えてないと、なんだかちょっと、ずるをした気分です」
「ずるくないわ」
ノエルは静かに首を振る。
「覚えてなくても、やったことは消えない」
その言葉を、ルーミアはしばらく考えていた。
コン、と扉がノックされた。三人は同時にそちらを見る。
「どうぞ」
ノエルが答える。
扉がゆっくり開く。
白い廊下の光が、部屋の中に差し込む。
そこに立っていたのは、また見知らぬ女性だった。
淡い色のワンピースに銀白色の髪。
少しだけ息を切らしている。
女性は、部屋の中を見渡し、そしてベッドの上のルーミアを見た。
目が合う。その瞬間、女性の目に、一瞬だけ強い光が宿った。
「……ルーミア」
静かな声だった。
その名前を聞いたとき、ルーミアの胸の奥が揺れた気がした。
女性は、ゆっくりとベッドのそばまで歩いてくる。
ノエルとレオンは、何も言わず、静かに立ち上がった。
「……少し、外に出てるわね」
ノエルが小さく言う。
レオンも無言で頷き、二人は部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
部屋の中に、二人だけが残る。
女性は、ベッドの横に立ち、しばらくルーミアの顔を見つめていた。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
その手は、少しだけ震えていた。
頬に触れる。とても優しい手だった。
「……大きくなったわね」
その言葉を聞いたとき、胸の奥でまた、何かが小さく弾けた。
「……あなたは?」
ルーミアは、正直に聞いた。
女性の目が、少しだけ潤む。それでも、笑った。
「あなたの、お母さんよ」
その言葉を聞いても、すぐには何も思い出せなかった。
母。その言葉の意味は分かる。
でも、ピンとくるものがない。
「……ごめんなさい。覚えてなくて」
ルーミアは、小さく言った。
女性は、首を横に振る。
「いいのよ」
そして、ベッドの横に腰を下ろす。
「覚えてなくてもいいの」
そう言って、そっとルーミアの手を両手で優しく包む。
その手は、少し冷たくて、でもとても優しかった。
「私もずっと、思い出せなかったの」
女性は静かに話し始める。
「あなたのことも、あなたの名前も、あなたと過ごした時間も。そういう病って言ってしまえばそれまでなんだけど」
ルーミアは、黙ってその声を聞く。
「でもね」
女性は、目尻に涙を滲ませながら笑った。
「ある日、急に思い出したの」
指を、少しだけ強く握る。
「ルーミアっていう名前の子が、私の大切な娘だったって」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で、何かが強く揺れる。
「遅くなって、ごめんね」
女性は、ゆっくりと言う。
「あなたが、どこで、どんなことをしてたのか、全然知らなくて」
声が震えている。
「でも、たくさん聞いたわ」
机の上の手紙を見て、微笑む。
「みんな、あなたにありがとうって言ってるね」
ルーミアも、手紙の束を見る。
ありがとう。
女性は、もう一度ルーミアを見る。
そして、静かに名前を呼んだ。
「ルーミア」
その瞬間。
胸の奥で、絡まっていた何かが、ほどけた。
遠くにあった音が、急に近くで響いた気がした。
ルーミア。
頭の奥で、誰かが何度も名前を呼ぶ。
坂道。
白い家。
青い窓枠。
焼き立てのパンの匂い。
温かいスープ。
強く抱きしめる手。
(……お母さん)
言葉にならないまま、記憶の断片がいくつも浮かんでは消える。
旅の道。
ノエル。
レオン。
海。
色糸。
笑った顔。
泣いた顔。
「ありがとう」という声。
胸の奥が、急に熱くなる。
何かが溢れそうになる。
女性が、ゆっくりと包み込むようにルーミアを抱きしめた。
昔と同じように、でも少しだけ弱い力で。
「生きててくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、熱いものが目の奥から溢れ出た。
理由は分からない。
でも、涙が止まらなかった。
「……なんで、泣いてるんだろう」
自分でそう言いながら、涙はどんどん溢れてくる。
女性は、背中をゆっくり撫でる。
昔、そうしてくれたように。
その手の動きで、また一つ、記憶が戻る。
名前を呼ばれた朝。
叱られた日。
褒められた日。
家を出た日。
抱きしめられた日。
ルーミアは、震える声で言った。
「……おかあさん」
その言葉を聞いた瞬間、女性の肩が小さく震えた。
「ええ、あなたのお母さんよ」
ルーミアは、泣きながら、もう一度その言葉を言った。
「……私、ルーミアだ」
自分の名前を、ゆっくりと確かめるように。
「うん。ルーミア」
母は、何度も頷いた。
「あなたは、ルーミア」
胸の奥で、なくしていた何かが、少しずつ戻ってくる。
色は見えない。
魔法も使えない。
失ったものは、たくさんある。
それでも。
「あぁぁ……うわぁぁあん」
名前と、
この涙と、
この温かい手だけは、
確かにここに戻ってきていた。
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