第62話 救われなかった世界の中で
窓の外の空は、毎日同じような色をしていた。
白に近い青。雲は薄く、輪郭がぼやけている。風が吹くと、遠くの木が揺れるのが見える。音はここまで届かない。療術院の窓は厚く、外の音をほとんど通さなかった。
ルーミアは窓の近くの椅子に座って、外を見ていた。
歩けるようにはなった。まだ長く歩くと疲れるが、部屋の中なら問題ない。左目は見えないままだが、右目だけでも生活はできる。視野が少し狭くなっただけだと、医師は言った。
最初の頃はよく物にぶつかったが、最近は少し慣れてきた。
手を膝の上に置く。指を動かす。何かを掴むように空中で指を閉じてみる。やはり何もない。
「……やっぱり、見えません」
自分の手を見ながら、小さく呟く。
以前は、ここに何かがあった気がする。細い糸のようなもの。空気の中に漂っていて、人の肩や背中や手の周りに絡んでいたような気がする。
でも今は、何も見えない。
魔法も使えない。どうやって使っていたのかも覚えていない。詠唱も、仕組みも、何も思い出せない。
それでも、不思議と焦りはなかった。
「……失っちゃったんだろうな」
自分のことなのに、どこか他人事のように思う。
扉がノックされる。
「入っていい?」
ノエルの声だった。
「はい」
扉が開いて、ノエルが入ってくる。手には小さな籠を持っていた。果物がいくつか入っている。
「今日は少し歩いたの?」
「そうですね。廊下の端まで」
「偉いわね」
ノエルは少しだけ笑う。
偉いと言われても、あまり実感はない。ただ、歩けるようになったから歩いているだけだ。
ノエルは窓の近くの椅子に座った。
「外、どう?」
と聞く。
「空が明るいです」
「そう」
それ以上の感想は思いつかなかった。綺麗だとか、好きだとか、そういう感情が浮かんでこない。ただ、空があると思うだけだった。
しばらく沈黙が続いたあと、ノエルが少しだけ真面目な顔になる。
「……外の世界の話、聞く?」
ルーミアは少し考えてから頷いた。
「はい。よければ聞かせてください」
ノエルはゆっくり話し始める。
「断層域は、ほとんど崩壊したわ」
「はい」
「大きな亀裂は止まった。地面が新しく裂けることは、今のところ起きてない」
それは良いことなのだろうと思った。断層域はおそらく土地の名前っぽい。たぶん、良いことなのだろう。
「でも、褪色は止まってない」
ノエルは続ける。
「色が薄くなっていく現象は、まだ続いてる」
ルーミアは窓の外を見る。空は薄い色をしている。それが褪色なのかどうかは、分からない。
ノエルは少しだけ目を細めて、それから静かに答えた。
「世界は救われてはいない」
はっきりと言った。
「でも、終わりもしなかった」
その言葉は、静かだったけれど、少しだけ重かった。
「断層域が広がるのは止まった。急激に色が消える場所も減った。前よりは、ずっとゆっくりになった」
「……そうなんですね」
それが良いことなのか、悪いことなのか、自分には判断がつかなかった。話し方から察するに、おそらくいいことなのだろう。
「それとね」
ノエルは続ける。
「縫合核の欠片が、世界のあちこちに落ちたらしいの」
「欠片、ですか?」
「ええ。結晶の破片みたいなもの。それが落ちた場所では、感情が集まりやすくなってる」
ルーミアは少し首を傾げる。
「感情が集まると、どうなるのでしょう?」
「……残滓獣が出る」
その言葉を聞いても、怖いとは思わなかった。残滓獣という言葉にも、聞き覚えがあるような気がするが、具体的な姿やイメージは思い出せない。
「だから今、各地で調査隊や討伐隊が動いてる。断層域はなくなったけど、問題が全部なくなったわけじゃない」
「……そうですか」
世界はまだ大変らしい。
しばらく沈黙が続く。
「あの」
ルーミアが言う。
「私、世界を救おうとしてたのでしょうか?」
ノエルは少しだけ驚いた顔をした。
「……どうしてそう思うの?」
「なんとなく、ですが」
自分でも理由は分からない。ただ、そんな気がした。何か大きなことをしようとして、失敗したような、そんな空白の形だけが残っている。
ノエルは少しだけ考えて、それからゆっくり答えた。
「……あなたはね」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「世界を救おうとは、あまり思ってなかったと思う」
「……そうなんですか?」
「ええ」
ノエルは小さく頷く。
「あなたがやろうとしてたのは、たぶん」
そこで一度言葉を止めて、ルーミアを見る。
「世界じゃなくて、人を救うことよ」
その言葉を聞いても、やはり実感はなかった。
でも、なぜかその言葉は、どこか心地よく胸の奥に残った。
自分が誰かを救ったのかどうか、何も覚えていない。だから実感はない。ただ、そうだったのかもしれないと思うだけだった。
「……それでも、世界は救われなかったんですね」
そう言うと、ノエルは静かに頷いた。
「ええ。救われてはいない」
少し間を置いて、続ける。
「でも、あんたがやらなかったら、もっと早く終わっていたと思う」
「終わる?」
「色がなくなって、人の感情がなくなって、たぶん静かに終わっていった」
静かに終わる、という言葉が少しだけ頭に残った。怖いのかどうかは分からない。ただ、静かな世界を想像してみる。誰も怒らず、誰も泣かず、誰も笑わない世界。
それはたぶん、とても静かなのだろうと思った。
「……それは、いい世界なのですか?」
自分でも変な質問だと思った。
ノエルは少しだけ驚いた顔をして、それから小さく首を振った。
「いい世界じゃないわ」
「どうして?」
「誰も、誰かを好きにならない世界だから」
その言葉は、少しだけ理解できた気がした。好きという感情がどんなものかは、よく分からない。でも、なくなったら困るもののような気がした。
「……じゃあ、終わらなかったなら、よかったのかな」
「ええ、たぶんね」
ノエルは静かに言った。
扉がノックされる。
レオンが入ってきた。手には封筒をいくつか持っている。
「また届いてるぞ」
机の上に封筒を置く。ずいぶん多い。封筒の大きさも色もばらばらだ。
「……え?」
「手紙だ。全部、お前宛てのな」
レオンが言う。
「私のですか?」
レオンは一つ封筒を手に取って、少し迷ってから開けた。中の紙を広げて、読み上げる。
「『あのとき気にかけていただいた、エルド=カナス織街のロヴァンです。あの後、海の色が少し戻り、娘もまた笑ってくれるようになりました。本当にありがとうございます』」
そこで読むのをやめる。
「……こういうのが、山ほど来てる」
ノエルが静かに言う。
「旅で出会った人たちよ」
手紙の山を見る。自分が書いてもらった手紙なのに、どれも他人宛てのような気がした。
「……覚えてないのに」
正直に言う。
「ええ。分かってる」
ノエルは責めるような声ではなかった。ただ、事実を受け入れている声だった。
レオンが別の手紙を開く。
「『ルーミアさん、エルドの集落はあれから、少しずつ前に進んでいます。あなたのおかげで、無理に進まなくていいことに気づかされました。本当にありがとうございました。アシェルより』」
また別の手紙。
「『色が戻ったわけじゃないけど、エリオとちゃんと別れが言えた気がします。だから、もう大丈夫です。ルーミアさんも、どうかご自愛ください。マリア』」
レオンは紙を畳んで机に戻す。
「……こんなのばっかりだ」
部屋が少しだけ静かになる。
ルーミアは手紙の山を見る。自分がやったことなのだろう。でも、何一つ覚えていない。
「……変な感じです」
自分でもそう思った。
「ありがとうって言われてるのに、何も思い出せない」
ノエルは少しだけ笑った。
「それでも、ありがとうは残るのよ」
その言葉は、少しだけ不思議だった。
「……残る、ですか?」
「ええ。あなたが覚えてなくても、助けられた人は覚えてる」
ノエルは手紙を一通手に取る。
「色は世界にはあまり戻らなかった。でも、人の中には残ったの」
その言葉を聞いて、窓の外を見る。空は薄い色をしている。前より少し濃いのかどうかは分からない。
「……世界は、救われなかった」
小さく言う。
「ええ」
ノエルが答える。
「でも、人は少し救われたのかもしれない」
レオンが窓の外を見ながら言う。
ルーミアはしばらく空を見てから、静かに言った。
「……それなら悪くないかも、ですね」
ノエルがこちらを見る。
「そう思う?」
「はい。世界は大きすぎますので」
自分でも不思議な言葉だった。でも、そう思った。
「全部は無理でも、誰か一人くらいなら、助けられるかもしれない」
自分が言った言葉なのに、どこかで聞いた言葉のような気がした。
ノエルは何も言わずに、ただ笑った。
窓の外の空は、相変わらず薄い色をしていた。綺麗かどうかは分からない。でも、明るかった。
ルーミアは空を見ながら、小さく呟いた。
「……救われなかった世界でも、生きていけるんですね」
誰に向けた言葉でもなかった。自分に言ったのかもしれないし、世界に言ったのかもしれない。
答えは、どこからも返ってこなかったけれど、窓の外の空は、いつも変わらずそこに広がっている。
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