第61話 白い天井
目を開けたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
どこまでも白く、継ぎ目も模様もない。光が反射して、少しだけ眩しい。しばらく瞬きをしてから、自分が仰向けに寝ているのだと気づいた。
体が重い。
指を動かそうとして、少し遅れて動いた。自分の身体なのに、どこか遠くにあるような感覚がする。腕も、足も、胸も、全部が鈍い。
息を吸うと、少し痛みが走る。だが我慢できないほどではない。
視界の端に、何か違和感があった。
右側は見える。白い天井、壁、窓の枠。だが、左側が少し暗い。ぼやけているというより、最初から存在していないような、そんな欠け方だった。
ゆっくりと右手を持ち上げる。目の前で手を振る。右側では指が見える。だが、少し左へ動かすと、途中で消える。
もう一度やる。
やはり途中で消える。
ここで、ようやく左目に包帯が巻かれていると気づいた。
だがそれにしても左は真っ暗だった。
しばらく、そのまま目を閉じたまま考える。考えているのか、ただ時間が過ぎているだけなのか、自分でもよく分からない。
扉の向こうで、微かな足音がした。近づいてくる音の後、扉が開く。
誰かが部屋に入ってきた。
「……起きてる?」
女性の声だった。静かで、少しだけ震えている声。
視線をそちらへ向ける。茶色の髪の女性が立っていた。見たことがあるような気がする。でも、どこで見たのか思い出せない。
女性はゆっくりとベッドの横まで来て、こちらを覗き込んだ。そして、目が合った瞬間、息を止めたように動かなくなった。
「……ルーミア?」
その知らない単語が、名前なのだと理解するのに時間がかかった。そしてそれが自分の名前なのかどうか、胸の中を探る。でも、何も引っかからない。
「……どなたですか?」
自分の声は思ったよりも掠れていた。
女性の表情が固まる。目が大きく開かれて、次の言葉が出てこないようだった。
「ッ……。分からない?」
「……うん」
女性はしばらく何も言わなかった。何かをこらえるように、ゆっくり息を吸って、吐いて、それからもう一度こちらを見る。
「……あなたの名前は、ルーミア」
ゆっくり、明確な声で言った。
「ルーミアよ」
その名前を、頭の中で繰り返す。
ルーミア。
音としては分かる。でも、それが自分の名前だという実感はなかった。馴染みのない、誰か別の人の名前を聞いているような、不思議な距離があった。
「……ルーミア」
小さく口に出してみる。
女性の肩がぴくりと反応し、震える。
「そう。あなたの名前」
少しだけ沈黙が続く。
「あなたは……?」
と聞く。
女性は一瞬だけ言葉に詰まって、それから答えた。
「……ノエル」
その名前も、頭の中で繰り返す。
ノエル。
やはり、何も思い出せなかった。
「……ノエルさん。私たちは、どんな関係だったのでしょう」
正直にそう言うと、ノエルは少しだけ笑った。笑ったように見えた。でも、その目は笑っていなかった。
「旅の仲間よ。でも、いいの。今はそれでいい」
ノエルという女性は、ベッドの横の椅子に座った。手を伸ばしかけて、少し迷ってから、そっと布団の上に置かれていた私の手に触れた。
温かい手だった。
その手を見ながら、ふと違和感を覚える。誰かを見ると、何かが見えるような気がした。糸のような、細い何か。
そう思って、ノエルの肩のあたりを見る。
――でも何も見えなかった。
今度は自分の手を見る。指先を見る。手の甲を見る。
やはり、何も見えない。
(……前は、何か見えてた?)
そんな気がする。でも、それが何だったのか思い出せない。
右手を少し持ち上げる。指を閉じたり開いたりする。何かを掴もうとするように、空中で指を動かしてみる。
何も起きない。
「……どうしたの?」
ノエルが聞く。
「……何か、他にここに」
自分でも曖昧な言い方だと思った。
「前は、ここに……何かあった気がします」
空中を指でなぞる。
でも、何もない。
「……今は、何もないんです」
そう言うと、ノエルは何も言わなかった。ただ、私の手を握る力が、少しだけ強くなった。
部屋は静かだった。
白い天井と白い壁。窓の外の空は、薄い色をしていた。青いのかどうか、よく分からない。でも、明るい色だった。
しばらく天井を見てから、もう一度聞いた。
「……私は、何をしてた人なんですか?」
ノエルは、すぐには答えなかった。手を握ったまま、一瞬だけ下を向き、それからゆっくり顔を上げた。
「あなたはね」
そこで一度言葉を止めて、続けた。
「……世界で一番、色を見ていた人よ」
その意味は、よく分からなかった。
「……世界で一番、色を見ていた人よ」
ノエルはそう言った。
その言葉の意味は、やはりよく分からなかった。色なら、今も見えている。窓の外の空は薄い色をしているし、ノエルの髪は明るい色だし、壁は白い。
「……今も見えてますよ」
そう言うと、ノエルは少しだけ首を振った。
「そういう色じゃないの」
何か説明しようとして、やめるような表情だった。言葉を探しているのか、それとも言っていいのか迷っているのか、よく分からない。
扉がもう一度開いた。背の高い男が入ってくる。短い金髪。腕を組んでこちらを見る。強そうな人だと思った。
「……起きたのか」
想像より渋い声だった。
「ええ、さっき」
ノエルが答える。
男はベッドの横まで来て、しばらく何も言わずにこちらを見ていた。その視線は怖いというより、何かを確かめているようだった。
「……俺はレオンだ」
短く名乗る。
「レオンさん」
その名前を繰り返す。
「ごめんなさい。分からなくて」
「だろうな」
レオンはあっさり言った。
怒っている様子も、悲しんでいる様子もない。ただ事実を受け止めているような顔だった。
「ノエルを見たらそんな気はした。……どこまで覚えてる?」
レオンが聞く。
少し考える。だが、何も思い出せない。白い天井を見たところからしか記憶がない。
「……どこまでとかも、わからないんです」
「自分の名前も?」
「さっき、教えてもらいました」
レオンは小さく息を吐いた。
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
ふと、自分の身体のことが気になった。腕を動かすと、少し痛い。足も動かすと、重いけれど動く。ゆっくり起き上がろうとして、身体に力を入れる。
「まだ動かないで」
ノエルがすぐに言う。
「骨も神経も、かなりやられてるの」
言われた通り、力を抜いて横になる。天井がまた視界に入る。またこの白い天井。
「……私、もしかして魔法とか使ってましたか?」
なんとなく、そんな気がした。何か特別なことをしていたような、そんな空白の形だけが残っている。
ノエルとレオンが一瞬だけ目を合わせた。
「使ってたわ。色糸魔法っていう魔法」
ノエルが答える。
「……色糸魔法、ですか」
口に出してみる。やはり、何も思い出せない。
「今も使えるのでしょうか」
と聞く。
ノエルは少しだけ迷ってから、静かに首を振った。
「……たぶん、もう使えないの」
その言葉を聞いても、あまり驚かなかった。残念だとも思わなかった。ただ、そういうものなのだと理解しただけだった。
「そう、なんですね」
自分でも、随分あっさりしていると思った。もっと何か感じるべきなのかもしれない。でも、何も浮かばない。
「……私は、それで困ったりしますか?」
そう聞くと、ノエルは一瞬だけ言葉を失った。
「……困る人もいるかもしれないわね」
「私は?」
「……あなたは」
ノエルはそこで言葉を止めた。
「ルーミア自身は、どうかしらね」
レオンが窓の方を見ながら言う。
「魔法が使えなくても、人は生きていける」
その言葉は慰めというより、事実のように聞こえた。
「……そうですか」
それならいいか、と思った。魔法が使えないなら、使えないなりに生きればいい。それだけの話のような気がした。
窓の外を見る。空は明るい。青い、のだと思う。そういう色だと頭では分かる。でも、それを見て何か思うかと言われると、特に何も思わなかった。
綺麗だとも、懐かしいとも、何も。
ただ、空だと思った。
「……ねえ」
ノエルが静かに呼ぶ。
「なんでしょう?」
「ルーミアは、あなたは怖くないの?」
少し考える。何が怖いのか分からなかった。
「何がでしょう?」
「記憶がないこと。魔法が使えないこと。目が見えないこと」
言われて、自分の状況をもう一度整理する。
記憶、魔法、左目。そのどれもがなくなっている。
確かに、大変なことなのかもしれない。普通なら、泣いたり、怒ったり、絶望したりするのかもしれない。
でも。
「……分かりません」
正直にそう答えた。
「怖いって、どういう感じだったのでしょうか」
ノエルは何も言わなかった。握っていた手に、少しだけ力が入るのが分かった。
レオンは窓の外を見たまま言った。
「……そうか」
部屋は静かだった。
白い天井。白い壁。白い光。遠くで誰かの足音がする。
自分の胸に手を当てる。鼓動はちゃんとある。息もできるし、身体も少しは動く。
記憶はない。魔法も使えない。目も片方見えない。
「……でも」
ノエルとレオンを見る。
「生きてるのは、分かります」
それだけは、はっきり分かった。
窓の外の空をもう一度見る。青い空。たぶん青いのだと思う。そういう色だと知識として知っている。
「……色は、よく分からないですね」
そう呟いて、もう一度天井を見上げた。
白い天井は、何も答えなかった。
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