第60話 崩壊
縫合核の光が砕けた瞬間、世界の音が一度消えた。
次の瞬間、大地が悲鳴のような音を立てた。
低い音の振動が足元から伝わり、断層の壁が内側へ崩れ始める。縫合核のあった中心部から、放射状に亀裂が走り、今まで裂けていた大地が、崩れ始めている。
「……撤退するぞ!」
レオンが叫ぶ。
「待って! ルーミアの様子がおかしい」
ノエルが急いでルーミアの元へ駆け寄る。
小さな少女の体は、いつの間にか赤く染まっていた。左目、左手首、右大腿、痣のあった背中、左腹部、それぞれの箇所が、外傷ではなく、まるで内側から破裂したような姿だった。
岩が落ち、地面が沈む。断層の縁が崩れ、砂と石が一気に滑り落ちる。だが、その光景の中で、一つだけ異様な現象が起きていた。
残滓獣たちが、動きを止めていた。
岩のような巨体も、影のような個体も、どれも一斉に動きを止める。先ほどのようなこちらを襲う気配はない。ただ、空を見上げるように、ゆっくりと頭を持ち上げる。
そして、光の粒が降ってきた。
縫合核の欠片。色の光。赤、青、金、灰、無数の色の粒が、雪のように降り注ぐ。
その光に触れた瞬間、残滓獣の身体が崩れ始めた。
砂になるように、輪郭がほどけていく。身体を構成していた感情の塊が、光に触れた瞬間、ほどけて空へ戻っていく。
一体、また一体と、静かに消えていく。
だが次の瞬間、大地が大きく沈んだ。
断層の底が崩落し始める。中心部から地面が抜け落ち、巨大な陥没が広がる。岩盤が割れ、斜面が崩れ、空気が唸る。
「ルーミア!」
ノエルが叫ぶ。
地面に倒れているルーミアの身体は、ほとんど動かない。血で濡れた服が、白い砂に染み込んでいく。
レオンが駆け寄り、迷いなく彼女を抱き上げた。
「……軽いな」
思わず漏れた言葉だった。世界の色を編んだ身体とは思えないほど、軽かった。
「生きてるの?」
ノエルがすぐに首筋へ指を当てる。震える指先で脈を探る。
一拍。
二拍。
三拍。
遅い。だが、ある。
「……生きてる」
その一言で、レオンの肩から力が少し抜けた。
「急ぐぞ。ここは沈む」
再び地面が揺れる。断層の壁が崩れ、岩が落ちる。光の粒がまだ空から降っている。だが、それも徐々に弱くなっていた。
レオンはルーミアを抱えたまま走る。ノエルが前を見て、崩れていないルートを判断する。
「こっち! 亀裂の少ない方!」
三人は崩れ続ける断層域を横切る。足元の地面が崩れ、砂が滑る。落ちた岩が道を塞ぐ。だが、止まれない。
「落とさないでね!」
ノエルが言う。
「分かってる」
レオンの腕は揺れを最小限に抑えていた。走りながらも、ルーミアの頭が揺れないように抱え直す。
断層域の出口が見える。光が弱くなり、風の音が戻ってくる。
そして、境界を越えた。
ネヴァの無色平原だった。
そこだけ、嘘のように静かだった。
レオンは少し走ってから、ゆっくりと膝をついた。地面にルーミアを下ろす。ノエルがすぐに呼吸を確認する。
「……呼吸、ある」
「脈は?」
「弱いけど、ある」
ルーミアは目を閉じたまま動かない。血はまだ止まりきっていない。顔色は紙のように白い。
「すぐに町まで戻りましょう」
ノエルが立ち上がる。
「そうだな。エイデリアの近くに、ミルネ診療区があるはずだ」
レオンはもう一度ルーミアを抱き上げる。
「絶対に落ちるなよ」
小さく呟いた。
ルーミアの意識が戻ることはなかった。
断層域を背に、三人は無色平原を急いだ。
ノエルは走りながら、何度もルーミアの呼吸を確認する。浅く、細い。だが、確かに息は続いている。
「……いっちゃだめ」
言い聞かせるように呟く。
レオンは何も言わず、ただ前を見て走り続ける。腕の中の体重が、少しずつ軽くなっている気がして、嫌だった。
夜の無色平原を抜け、エイデリアの石壁が見えた頃にも、ルーミアは一度も目を開けなかった。
門番が馬車を呼び、三人はそのままミルネ診療区へ向かった。
馬車が走る。石畳の振動が伝わるたび、ルーミアの身体が揺れる。
「ゆっくり! もっとゆっくり走って!」
ノエルが叫ぶ。
「揺らすな! 頼む」
レオンも怒鳴る。
御者が必死に速度を調整する。
「ルーミア、聞こえてる?」
ノエルは耳元で何度も声をかける。
「もう編まなくていい。もう終わったの。聞こえてる?」
返事はない。
それでも、呼吸だけは続いていた。
やがて白い建物が見えてくる。――ミルネ診療区。その中央にある、ルミナリア療術院。
「医師を呼んでくれ!」
レオンが扉を開ける。
白い廊下、白い天井、白い壁。灯りまでもが白く、眩しい。
担架が運ばれてくる。ルーミアの身体が乗せられる。ノエルの手が、最後まで離れなかった。
「付き添いはここまでだ」
医師の声が響く。
ノエルの指がゆっくり離れ、白い扉が閉まった。
その瞬間、世界から音が消えたように感じた。
白い扉が閉まったあと、ノエルはしばらく動けなかった。
手のひらに残る体温だけが、さっきまでそこにルーミアがいたことを教えていた。だが扉の向こうへ運ばれた瞬間、その体温が急に遠いものになった気がした。
廊下は静かだった。白い壁、白い床、白い灯り。足音だけがやけに響く。ここはただの診療院だ。それなのに、さっきまでのどんな場所よりも落ち着かなかった。
レオンが壁に背を預ける。
「……生きてるんだな」
確認するような声だった。
「ええ」
ノエルは短く答える。
「脈はあった」
「そうか」
それだけ言って、レオンは黙った。腕に残る重さを思い出す。軽すぎた。あれだけ魔法を使って、あれだけ血を流して、それでも生きている。その事実が信じられないほどに。
廊下の奥で足音がする。白衣の人物が行き来し、神妙な声で何かを話している。だが内容は聞こえない。聞こえたところで理解できる余裕もなかった。
ノエルは椅子に座ろうとして、やめた。座ったら、立てなくなる気がした。
「……私が止めるべきだった」
ぽつりと呟く。
レオンは視線を向けないまま答える。
「止めたら、あいつは納得したか?」
ノエルは答えない。
答えは分かっていた。止めても、ルーミアはやった。あの場所で、あの状況で、彼女は絶対に手を離さなかった。
「俺たちは選ばせた。今は祈ろう」
レオンが言う。
ノエルは小さく息を吐く。
「……うん」
長い時間が過ぎたように感じたが、実際にはそれほど経っていないのかもしれない。時間の感覚が曖昧だった。
やがて、白い扉が開いた。
中から、銀混じりの黒髪の男が出てくる。冷静な目をした男。アデルハルト・ヴェルナーという医師だった。
ノエルが息を荒くしてすぐに立ち上がる。
「……容体は」
アデルハルトは少しだけ間を置いてから答えた。
「生きている」
その一言で、ノエルの肩の力が抜けた。壁に手をついて、ようやく立っているのが分かる。
「ただし、状態は良くない」
アデルハルトは続ける。
「骨格の微細断裂、神経過負荷、内出血、魔力回路の損傷。どれも軽くはない。この子は何をした?」
ノエルが力なく答える。
「魔法を使って……外傷を受けた様子はなかったのに、気づいた時にはルーミアの体のいろんな所が……」
アデルハルトが一瞬ぴくりと反応する。
レオンが聞く。
「助かるのか」
医師は即答しなかった。
「命は、今のところ繋がっている」
その言い方は、安心できるものではなかった。
「意識は戻るの?」
ノエルが聞く。
アデルハルトは静かに答える。
「現状、分からないとしか答えられない。神経の損傷が大きすぎる。特に視神経」
ノエルの表情が固まる。
「……視神経?」
「左目は反応がない。失明している可能性が高い」
廊下の空気が止まったように感じた。
ノエルは何も言えなかった。レオンも、壁に背を預けたまま動かない。
医師が続ける。
「それと、魔力回路がほぼ焼き切れている。魔法は……もう使えない可能性が高い」
ノエルはゆっくり目を閉じた。
色糸魔法。ルーミアが世界で唯一使えた魔法。彼女の役割であり、彼女の生き方そのものだったもの。
「……そう」
ノエルはそれだけ言った。
アデルハルトは二人を見てから言う。
「今は眠らせている。峠はまだ越えていない。今夜を越えられるかどうかだ」
「会える?」
ノエルが聞く。
「今は無理だ。安静が必要だ」
ノエルは頷いた。
「……分かった」
医師はそれ以上何も言わず、再び扉の向こうへ戻っていった。
白い廊下に、再び静寂が戻る。
ノエルは壁に背を預け、ゆっくりと座り込んだ。レオンもその向かいの壁に寄りかかる。
「世界はどうなったんだろうな」
レオンがぽつりと言う。
「……今は、ルーミアの心配してよ」
「もちろん心配はしてるが……あいつは絶対に目を覚ます。そのときにどうなったのかを伝えるのが、俺らの役目でもあるだろ?」
ノエルは少しだけ考えてから答える。
「……分からない」
断層域は崩壊し、縫合核は砕けた。光の欠片は世界中へ飛んでいった。色が戻るのか、戻らないのか、それはまだ誰にも分からない。
「でも、終わったのは確かよ」
ノエルは力が抜け、ぺたりと座り込み続けた。
レオンは小さく頷いた。
「だな」
二人はそれ以上話さなかった。
白い廊下の窓から、外の空が見えた。夜が少しずつ明るくなっていく。夜明けが近い。
長い夜だった。
ノエルは窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……生きなさいよ、ルーミア」
その言葉は、祈りに近かった。
次第に夜が明ける。
白い光が、静かな廊下を満たしていった。
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