第59話 最後の色糸魔法
ルーミアは目を閉じる。
世界中から流れ込む色糸が見える。怒り、悲しみ、喜び、後悔、愛情、憎しみ、約束、後悔、言えなかった言葉。数えきれないほどの感情が、ここへ集まり、絡まり、結び目になっている。
絡まった糸をほどき、もう一度、流れるようにする。
ルーミアは静かに息を吸い、詠唱を始めた。
♦︎♦︎♦︎
失われた色よ、
名を呼ばれずに捨てられた感情よ。
記憶の奥に沈み、
形を失った後悔を、
今ここに引き上げる。
♦︎♦︎♦︎
詠唱の言葉に反応するように、縫合核の光が揺れた。結晶の内部で絡まっていた色糸が、わずかに動く。結び目が、ほんの少しだけ緩んでいく。
♢♢♢
断ち切られた想いを糸とし、
交わらなかった選択を撚り合わせ、
触れられなかった心を、
もう一度、編み直せ。
♢♢♢
光が強くなり、地面の奥で低い振動が走った。断層域全体が、この詠唱に反応しているのが分かる。
縫合核の周囲で、色糸が渦を巻き始める。今までただ吸い込まれていた感情の糸が、結晶の周囲を回り、絡まり、ほどけ、再び流れ始める。
ノエルが小さく呟く。
「……流れが変わってる」
レオンは剣を構えたまま、周囲を警戒している。地面の奥で何かが軋む音がする。断層そのものが動き始めている。
だが、ルーミアは詠唱を止めない。
♦︎♦︎♦︎
色を与えた者の願いよ、
途切れた魔法の続きを、ここに結ぶ。
私は救いを望まない。
未来を保証しない。
世界を救おうとも思わない。
ただ――
立ち尽くしたままの色を、
このままにしない。
♦︎♦︎♦︎
その言葉を口にした瞬間、縫合核の光が一気に強くなった。
色糸が逆流していく。今まで縫合核へ落ち続けていた感情の糸が、結晶の内部から外へ溢れ出し、空へ向かって広がっていく。
赤い糸が空へ伸びる。
青い糸が風のように流れる。
金色の糸が光の粒になって散る。
世界中から集まっていた感情が、もう一度世界へ戻ろうとしている。
その瞬間、ルーミアの身体の奥に衝撃が走った。
「……っ」
胸の内側を引き裂かれるような痛みに、呼吸が止まりそうになる。視界が揺れる。だが、まだ詠唱は終わっていない。
縫合核の中心に、巨大な結び目が残っている。そこをほどかなければ、流れは完全には戻らない。
ルーミアは、最後の言葉を紡ぐ。
♢♢♢
残れ、
結べ、
繋がれ。
世界の傷よ、
溢れた感情を拒むな。
ここに在るすべてを受け入れよ。
今この場に在るすべての感情を、
色として定着させよ。
♢♢♢
ルーミアは、縫合核へ手を強く押し当てる。
「色糸魔法」
最後の言葉を口にしたその瞬間、世界が光に包まれた。
光が、世界を飲み込んだ。
上も下も分からない。ただ白い光の中に立っている感覚だけがある。足場の感触も、風も、音も消えていた。あるのは、無数の糸の感触だけだった。
ルーミアの周囲を、色糸が流れている。
赤い糸が頬をかすめる。怒りの色。誰かが叫んだ日の感情。
青い糸が肩を撫でる。悲しみの色。誰かを失った日の感情。
金色の糸が指に絡む。喜びの色。笑った日の感情。
灰色の糸が足元を流れる。後悔の色。言えなかった言葉の感情。
無数の糸が、ルーミアの身体をすり抜けていく。
声が聞こえる。
知らない人の声。だが、どの声も確かに誰かの感情だった。
(……全部、ここにあったんだ)
世界から失われた感情は、消えたのではなかった。ここに落ちて、絡まり、動けなくなっていただけだった。
ルーミアは、目を閉じた。
巨大な結び目が、縫合核の中心にある。世界中の感情が絡まりすぎて、一つの塊になっている。
指先を、ゆっくりと動かす。ただ、結び目をほどくように、そしてあるべき姿に戻るように編んでいく。
一本。
また一本。
絡まった糸が、少しずつほどけていく。
すると、色糸の流れが変わった。
今まで縫合核へ落ち続けていた糸が、結び目がほどけ、編み終えた瞬間、外へ向かって流れ始める。世界へ戻るように、光の粒になって空へ広がっていく。
赤い光が遠くへ飛ぶ。
青い光が風のように流れる。
金色の光が雨のように降る。
世界へ、色が戻っていく。
その瞬間、ルーミアの身体に激しい痛みが走った。
「……っ!」
胸の奥が裂け、背中から何かが抜けていく感覚。目の奥が焼けるように熱く、呼吸がうまくできない。
それでも、手を止めない。
(まだ……)
まだ、最後の結び目が残っている。縫合核の中心、一番奥にある巨大な結び目。そこをほどかなければ、流れは止まる。
ルーミアは、最後の糸に触れた。
その瞬間、膨大な感情が一気に流れ込んできた。
誰かが泣いた日の記憶。
誰かが笑った日の記憶。
誰かが怒った日の記憶。
誰かが誰かを好きになった日の記憶。
誰かが誰かを失った日の記憶。
誰かが名前を呼んだ日の記憶。
世界中の感情が、一瞬でルーミアの中を通り抜ける。
(……重い)
あまりにも多く、あまりにも重い。人の感情は、こんなにも重かったのかと思う。それでも、嫌だとは思わなかった。
(……綺麗だなぁ)
悲しみも。怒りも。後悔も。喜びも。全部、綺麗だと思った。
ルーミアは、最後の結び目をほどき、編んだ。
その瞬間、縫合核の光が一気に弾けた。
結晶の内部で絡まっていた色糸がすべてほどけ、光の奔流となって空へ吹き上がる。断層域全体が光に包まれ、大地が大きく震えた。
縫合核に、ひびが入る。
ぱきん、と乾いた音。
結晶の表面に大きな亀裂が走る。内部の光が溢れ出し、結晶そのものが崩れ始める。
「……割れる」
ルーミアが小さく呟いた。
縫合核は崩れながら、内部の光の塊を空へ放り出す。無数の光の欠片が空へ飛び散り、断層域の空を越え、世界中へ飛んでいく。
世界各地へ、縫合核の欠片が散っていく。
それはまるで、流れ星のようだった。
光が収まると、色糸の流れが、見えなくなっていた。
ルーミアは、ゆっくりと目を瞬いた。さっきまで見えていた色糸が、もう見えない。空を見ても、光の流れは見えない。ただ、普通の光だけが見える。
色糸が、見えない。
その瞬間、視界の左側が暗幕を落としたように暗くなった。左目の奥に激しい痛みが走る。何か温かいものが頬を伝う。触れると、それは血だった。
それを血と認識すると、右足に力が入らなくなり、膝が崩れる。
遠くで、誰かが叫んでいる気がする。
「ルーミア!」
ノエルの声だった。
レオンの足音も聞こえる。
だが、身体が動かない。力が抜けていく。
ルーミアは、ぼんやりと空を見上げた。
空には色があった。青く、雲は白かった。夕焼けのような色が、遠くに見えた。
(……綺麗)
そう思った。
でも、なぜ綺麗だと思ったのかは、分からなくなっていった。
ルーミアは、小さく呟いた。
「……できた」
その言葉を最後に、ルーミアの意識は闇に沈んだ。
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