第58話 結び目の場所
斜面を降りるほどに、音が消えていった。
足音はするし、衣擦れの音もする。だが、それらはすぐに遠くへ離れていくように聞こえる。まるでこの場所には、音を留めておく力がないようだった。
三人は言葉を交わさず、ゆっくりと降りていく。
光は下から溢れている。不規則に揺れながら、呼吸するように明滅している。地面の奥から、世界の内側が光っているような光だった。
斜面の途中で、ルーミアは立ち止まり、空を見上げた。
空から、無数の糸が落ちている。
世界中から伸びた糸がここへ集まっている。赤、青、金、灰、紫、淡い白。様々な色の糸が、静かに、絶え間なく、縫合核へ流れ込んでいる。
「……こんなに」
ルーミアが小さく呟く。
ノエルが隣に並ぶ。
「世界中の感情、かしら」
「もしかして、二人にも見えてる?」
「ええ、なんだか不思議な景色」
レオンは何も言わず、光の奥を見つめていた。
やがて斜面は終わり、平らな場所に出た。そこは、円形に開けた空間で天井はなかった。空へ続いているはずなのに空が見えず、光と色糸の流れが、すべての奥行きを曖昧にしている。
空間の中心に、それはあった。
半透明の結晶のような塊が、地面から突き出ている。高さは一つ屋根の家ほどもあり、表面は滑らかではなく、何層もの板が重なったような構造をしている。内部には光が満ちていて、ゆっくりと脈打っている。
どくん。
どくん。
音は聞こえないが、脈動だけは伝わってくる。
ルーミアの胸の鼓動と、同じ間隔だった。
「……これが」
ノエルが静かに言う。
「縫合核」
レオンは周囲を見渡す。
「思ったより……静かだな」
確かに、残滓獣はいない。風もなく、地面も鳴らない。ただ光と糸と脈動だけが、この場所を満たしている。
ルーミアは、ゆっくりと縫合核へ近づいた。
近づくほどに、色糸の流れがはっきり見える。糸は結晶の表面へ触れると、そのまま内部へ吸い込まれていく。抵抗もなく、ただ流れ込むだけ。
「……全部、ここに来てる」
その時、ふと声が聞こえた気がした。
反射的に振り向いたが、誰もいない。レオンとノエルが少し離れた場所に立っているだけだ。だが、確かに声がした。
「――ごめんね」
今度ははっきり聞こえた。
ルーミアは目を見開く。
別の声が重なる。
「ありがとう」
「行かないで」
「また会おう」
「嫌いだ」
「助けて」
「好きだった」
「忘れないで」
「大丈夫」
「頑張ったね」
無数の声が、重なって聞こえてくる。泣き声や笑い声。怒鳴り声、囁き声。誰のものか分からない声が、空間のあちこちから響いてくる。
レオンが周囲を見回す。
「……誰かいるのか?」
ノエルが言う。
「いないはず。これは……声じゃない」
ルーミアは縫合核を見つめていた。
「感情の、残響?」
声は結晶から聞こえているわけではない。色糸の流れそのものから聞こえてくる。糸の一本一本に、感情の記憶が残っている。
怒った日の声。
泣いた日の声。
笑った日の声。
別れた日の声。
告げられなかった言葉。
届かなかった想い。
すべてが、ここへ流れ着いている。
ルーミアは、ゆっくりと手を伸ばした。
「……触ってもいいと思う?」
ノエルは少しだけ迷って、いかにも不安そうな表情をしながら、それでも頷いた。
「そのために来たんでしょう」
レオンは何も言わない。ただ、少しだけルーミアの後ろへ立つ。いつでも引き戻せるように。
ルーミアは縫合核の前に立つ。
結晶は静かに脈打っている。光が内部を流れ、色糸が絶えず流れ込んでいる。
本来なら、ここから世界へ色が戻るはずだった。
戻らなかった色。
戻らなかった感情。
戻らなかった想い。
全部が、ここに溜まっている。
ルーミアは、そっと包み込むように結晶に触れた。
指先が結晶に触れた瞬間、光が弾けた。
世界が反転したような感覚があり、音も、光も、足場も、すべてが一瞬で遠ざかる。身体が浮いたような感覚があるが、落ちてはいない。どこにも動いていないのに、景色だけが変わっていく。
気がつくと、ルーミアは知らない場所に立っていた。
真っ白な部屋だった。
壁も床も天井も、すべて白く、窓も扉もない。他の色の一滴すらも許さないほどの白さ。その部屋の中央に一人の女性が立っていた。
長い髪と柔らかな外套。手には細い糸の束を持つその女性は、ゆっくりと糸を編んでいた。指先で糸を撚り、重ね、形を作る。その仕草は、魔法というより、織物を作る職人のようだった。
ルーミアは、よぎった人物の名前を思い浮かべる。
(もしかして……アウレリア?)
女性の手が止まる。ゆっくりと振り返る。顔ははっきり見えない。光の中に溶けているように輪郭が曖昧だった。
それでも、優しい目をしていることだけは分かった。
女性は、微笑んだ。
声は聞こえない。だが、言葉は直接頭の中に届いた。
――あなたが、今の編み手なのね。
ルーミアは言葉を返そうとして、声が出ないことに気づく。代わりに、思ったことがそのまま伝わるような感覚があった。
(あなたが、色彩の魔導士……?)
女性は、ゆっくり頷いた。
――私は、色を作った人間。
――でも、世界を作ったわけじゃない。
女性は再び糸を編み始める。編まれていく糸は、様々な色をしている。赤、青、金、緑、灰。編まれた糸は、やがて光になって空へ消えていく。
――昔、この世界には色がなかった。
――人は生きていたけれど、喜びも悲しみも、今ほど強くはなかった。
糸を編む手は止まらない。
――私は、人の顔を見ていた。
――笑った顔も、泣いた顔も、怒った顔も、全部綺麗だと思った。
ルーミアは、黙って聞いていた。
――だから思ったの。
――この感情に、色をつけたいって。
編まれた糸が、光になって空へ散る。
――人が喜べば、世界が少し明るくなる。
――人が悲しめば、空の色が少し変わる。
――怒れば赤くなって、安心すれば青くなる。
――そんな世界があったら、きっと綺麗だと思った。
女性は、そこで少しだけ寂しそうに笑った。
――でも、人は感情を持つと、争うようになった。
――怒りも、憎しみも、生まれた。
――人は言ったの。
――「感情なんてなければ、もっと平和なのに」って。
編む手が、ほんの少しだけ遅くなる。
――だから、若い魔導士たちは感情を薄める魔法を作った。
――怒りを消す魔法。
――悲しみを弱くする魔法。
――争いは減った。
女性は、糸を一度切った。
――でもね。
糸の切れ端が、床に落ちる。
――怒りを消したら、喜びも弱くなった。
――悲しみを消したら、愛も薄くなった。
――何も強く感じなくなった世界は、少しずつ色を失っていった。
ルーミアの胸が、静かに痛んだ。
女性は、新しい糸を手に取る。
――だから私は、この核を作った。
――失われた感情を、一度ここへ集めるために。
――集めて、もう一度世界へ戻すつもりだった。
女性は、少しだけ空を見上げた。
――でも、間に合わなかった。
糸を持つ手が、止まる。
――私は、処刑された。
――世界を混乱させた魔導士として。
ルーミアは、何も言えなかった。
女性は振り返り、ルーミアを見る。
――でもね、後悔はしていない。
優しく、微笑む。
――人が笑う顔が好きだったの。
――泣く顔も、怒る顔も、全部。
――感情があるから、人は綺麗だと思った。
女性は、糸を一本差し出した。
――あなたも、きっと同じでしょう。
ルーミアは、その糸を受け取る。
触れた瞬間、景色がまた揺れた。
白い部屋が崩れ、光の空間へ戻る。目の前には縫合核があり、手はまだ結晶に触れている。後ろにはノエルとレオンがいる。
だが、さっきまでとは見え方が違った。
色糸の流れが、はっきりと分かる。世界中から流れてきた感情が、縫合核の中で絡まり、結び目になり、詰まり、外へ出られなくなっている。
(……戻ってない)
本来なら、ここから世界へ戻るはずだった感情が、戻れていない。集まりすぎて、絡まりすぎて、動けなくなっている。
「……そうか」
ルーミアが、小さく言う。
ノエルが振り向く。
「何か分かったの?」
「ここ、壊れてるんじゃない」
縫合核を見上げる。
「詰まってるだけ」
レオンが眉をひそめる。
「詰まり?」
「感情が多すぎて、絡まりすぎて、外へ出られなくなってる」
だから色は戻らなず、感情はここへ落ち続ける。
だから残滓獣が生まれ、だから断層域が広がる。
全部、繋がる。
ノエルが静かに言う。
「……じゃあ、直す方法は」
ルーミアは、縫合核に触れたまま答える。
「結び目を、解く」
レオンが短く聞く。
「できるのか?」
ルーミアは少しだけ考えて、それから答えた。
「やっぱり、通常詠唱じゃ無理」
色糸魔法は、表面を編む魔法。だがここは構造そのものが絡まっている。浅い干渉では届かない。
「……完全詠唱、やってみる」
ノエルが何も言わずにルーミアを見る。
「結び目の中心まで、編めそうな気がする」
光が揺れ、色糸が流れる。縫合核が脈打ち、世界中の感情が、この場所へ落ち続けている。
ルーミアは、結晶から手を離した。
そして、二人の方を振り返る。
「……やるよ」
ノエルは、静かに頷いた。
レオンは、剣を握り直した。
「ああ」
ルーミアは、小さく笑った。
「お願い」
そして、縫合核に再び手を伸ばす。
ここが、世界の結び目であり、色が落ち続ける場所。感情が溜まり続ける場所。
ルーミアは、ゆっくりと息を吸った。
「ノエル、レオン、アウレリア……いくよ」
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